アラズヤ商店

日々のナマキズ

スティーブンスとムダ毛処理に見る経緯としての自給自足

ずっと伸ばしていた髪を切ってからというもの、この一年くらいはその反動の如くとにかく ”前髪さえ短ければ何となくおしゃれに気を遣ってる人っぽく見える” という立場を貫いている。

でこシワが気になるお年頃ではあるけれど、こちとら隠しごとが出来ない性分ときているので、“むしろ敢えて晒す”というムダに前のめりなだけで所詮伝わりづらい心意気こそを尊重したいところなんである。

 

 

潔癖を気取りたがるつもりはないのだ。

単純に”ムダ毛” というものをあまり好ましく思わないだけだ。

フェミとかそういうことではなしに、単に”好ましく思わない“ということだけを理由にかれこれウン十年のキャリアを貫く、もはや自称“ムダ毛処理スト”なんである。

“ムダ毛処理スト”

何だかかっこいい。

舞い踊るようなムチ捌きで瞬く間にツルツルのテカテカにひん剥かれてしまいそうな、優しげな中にもどこかサディスティックな問答無用感が漂うではないか。

何だかお高そうな感じすらするではないか。

間違ってもそんな趣味は1ミリもないが。

 

何より誤解して欲しくないのは、”好ましく思わない“というそのややも一方的な決定は、あくまでもあたし自身にのみ向かうものなんであって、その主義を他人にまで押し付けて毛嫌いしたり、やたら目がデカくて年中コスプレみたいな髪の色が暗黙のうちに了承されているマネキンのような肌をした幼気な少女たちが舞い踊る業の深い世界に没頭したがるタチのものではないということなんである。

アイドルは本能の如く好きだが、アイドルアニメの類にはとんと疎いのである。

そんな意気込みにおいての“ムダ毛処理スト”なんである。

ワキ毛やウデ毛、もちろんユビ毛までぬかりなく処理する、それはなかなかの自意識過剰ぶりなんである。

所詮気持ち悪めの人である自覚は、もちろんある。

ついでに言うなら、マユ毛は0.8ミリのバリカンで全刈りである。

もはやちょっとした麻呂だ。

本当は全て剃ってしまってもいいとすら思っているが、そうすることで後に巻き起こることが予想される様々な社会的不調くらいには当然配慮せねばなるまい。

さすがのあたしもその程度には大人なんである。

さすがなんである。

 

 

歪な趣向だろうか。

しかしながら考えてみて欲しい。

例えば男性であるにもかかわらず、おしっこをするときに"全部脱がないと出来ない"などといった主義に固執して個室に消えたがる、不可解に縛りのキツいタイプの人がいるではないか。

“男性であるにもかかわらず”というそもそものスタンスに一定の不調を感じないでもない、などと言ってしまったら、寛容の皮を被ったただのクソ正義になってしまうだろうか。

SNS界隈に蔓延する言葉狩りばかりにご執心の暮らしづらい国の一住民と化してしまうだろうか。

そうではないのだ。

面倒な人、などと脊髄反射の軽口で固有の快適を求める姿勢を叩いては、純然たる生体反応に従うばかりの彼に対して自分は何者であるかのような気がしてしまうので、個人的には不器用なだけなのだとせめては思うことにして静かに見送ることにしている。

近未来の“連れション”は、男子女子と場所こそ隔てながらその趣は同じくして壁越しに交わし合う親しいながらにもパーソナルな距離を保つボックスコミュニケーションとなるのだろうか。

それについて“男女平等“などと素面で説いたものなら、さすがのスー・チーさんも退屈のため息を漏らすだろうか。

 

 

人はそれぞれにどこかが歪なのだ。

そうしてあたしのマユ毛は0.8ミリで刈り取られるのだ。

何しろマユ毛がワサワサしていると、何だか出ないのだ。

おしっこのことではない。

勝手に先の引用を引きずらないで欲しい。

集中力とかそんなようなことを言っているのだから、失礼な勘違いは勘弁願いたい。

いや、おしっこについて失礼と言っているのでもないから、その辺も含めてお願いしたい。

書きながら、何を失礼と思ったのかまんまとわからなくなってしまった。

仕方がないからこの辺にしておこう。

 

 

この辺に、などと書きながら思い出してしまった。

爪だ、爪の"甘皮"だ。

もう一方の手の爪先でギュッとすると必要以上に痛い生え際のアレだ。

そこまで痛くなくてもいいのに、という体に何箇所かある急所のうちの一つだ。

何なんだあいつは。

すでにカラダの末端部の過剰な乾燥傾向をイヤというほど自覚するものとしては、あいつをナメてかかるとすぐにササクレという現象的コストパフォーマンスに長けたケチなダメージに見舞われることになりがちだ。

冬場など空気の乾燥する季節になると横暴さを増すチンケなサイレントキラーなのである。

しかしながら心配はいらない。

あたしが日頃から持ち歩くポーチの中には常に、甘皮処理用のカッターが装備されているのだ。

どうだ、気持ちが悪いだろう。

 

 

もう一つ、年増としてこれはほとんど自慢のようなものなのだが、血が出るほどかかとの角質を削ってしまう、地味に鮮血を滴らせてしまうらしいトンマな現象には、個人的にはほぼ縁がない。

何しろアレは乾燥ではなく水虫の類らしいから、ちょっとアレな感じではないか。

なりたくない感じのやつではないか。

なったとしても、認めたくない感じのやつだ。

安物の靴のせいで魚の目を患ったことはあるが、水虫の経験はない。

それはあたしにとって数少ない優良物件情報ではあるつもりなのだ。

 

 

唇が荒れるとつい歯とかで剥きたくなって、思いのほか剥け過ぎて出血してしまう、といったプチな気恥ずかしさは子供の頃にすでに幾度となく経験済みだ。

大人はそんなことはしない。

 

 

 

もうやめておこう。

しつこいあたしのことだ、何だかんだで行き着くところストレスにヤラれた鳥がやる ”抜毛症” みたいなハナシにまで行き着いてしまいそうだ。

それを人間に置き換えてカジュアルに語れるだけのキャパシティは、あたしにはない。

生命のハナシとしてとんでもない領域で、何だか面白そうにしてはいけない感じであることくらいはわかる。

あたしは飛び抜けて人間が出来ていないので、そういう不器用みたいなハナシは何だか苦手なのだ。

書きながら、何だか申し訳ない気分になってきた。

やはりやめよう。

 

 

 

今日近所のスーパーで、結構なご高齢とお見受けするわりには何やらとてもファニーな印象の出で立ちでらしたおじいちゃんに遭遇して、そのエキセントリックな存在感に思いがけずド肝を抜かれたのだ。

もう完全に、あきらかに作為的な金髪で、片側だけモヒカンラインまで坊主なりに刈り上げた、何だかタイ人のキックボクサーにいそうとか、単純にはギズモだとかそんな感じの髪型で、白いTシャツ、黄ばんだグレーのスウェットパンツ、足元は民族調のメッシュサンダルというわりとナイスな脱力感をまといつつ、ショッピングカートをショボショボと押しながらじゃんじゃん買いまくる、というほど景気は良さそうでもなかったけれど、まあ一先ずは楽しそうにお買い物をされているご様子だったのだ。

 

 

そんな折にピンときた。

ひらめくように、あたしは思ったのだ。

"こ、こいつはヤバいぞ”と。

フワっと、しかしながら鋭く突き刺さるようにそう思ったのだ。

別に誰かに迷惑を掛けているわけでも、不快なわけでもないのだ。

けれど明らかに彼は、その場の空気から浮いていた。

日本を飛び出せば、T.M.スティーブンスみたいなぶっ飛んだじいちゃんくらい珍しくも何ともないのかもしれない。

いつの時代も文化の違いに及び腰になるのは、無知な者の偏見と臆病と常に相場は決まっている。

もちろんあたしはその一部に加わるつもりなどこれっぽっちもないのだ。

まんまとビビらされても、偏見を盾にするつもりはない。

しかしあたしには、おじいちゃんが醸すそのフリーでワールドワイドピースでお茶目な感じですらある出で立ちが、どこか所在なさげに揺れて見えたのだ。

彼は彼らしく存在しようとすることに、揺れていたのだ。

 

 

 

ワキ毛を伸びるがままに放置して澄ましていられる、そんなタイプの男性諸君とそうでない男性諸君を女々しいなどと猛々しく唾棄してはばからない女性諸君、並びについ胸毛に萌えてしまう全てのジェンダー諸君のナチュラリズムに対して、個人的にはまったく賛同しかねるのだ。

それは単に、なんとなく恥ずかしいからとか、とかく軟弱な羞恥心によるところが多分にあることは理解している。

銭湯や温泉、プールなど、自分を含め人間の極めて裸体に近い状態に接近する、目撃するシチュエーションをとかく苦手にしているのもそのせいに違いなくつまり、単純にショボいのである。

自分を含め、生命体に対する受け皿のようなものがショボいのである。

人生の恐らく半分は過ぎたはずのおっさんが、未だにそんな恥じらいのレベルを維持しているのである。

我ながら、もはや珍獣レベルとすら思う。

ナマケモノが目の前の大蛇を物ともせず押しのけてノロノロと地面を這う動画を見た瞬間、“負けた“と咄嗟に感じてしまったのは、我ながらさすがにヤバいと思うが。

 

 

偽っている気がしたのだ。

あたしの目に、あのおじいちゃんはどこか居心地悪そうに自分自身を偽っているように見えたの気がしているのだ。

それを見苦しいとか、往生際が悪いとか、客観性がぶっ壊れているとか言いだしたら何だかずいぶんなことを言っている気もするが、そうではないのだ。

あたしはあのおじいちゃんの有り様を何処かほほえましく、他に見る人々が遠巻きに冷ややかな視線を向ければ向けるほどなぜか、味方に立ちたい気分に駆られたのだ。

”同じ人間が、ここにもいるぞ“

結局、あたしはファーストインプレッションからすでに、同類であることを客観的に察して、及び腰になっていたのに違いないのである。

あのタチの悪いギズモのような、恐らくは自分で刈ったっぽい凶暴なヘアデザインが、あたしにはとてつもなくセンチメンタルな欲求が生んだ造形に見えたのかもしれない。

民族調のメッシュサンダルは、奥さんのを勝手に履いてきただけなのかもしれない。

まあまあいい加減な感じではあったし。

しかしながら理由は何でもいいのだ、どんな理由にしろそこにはのっぴきならない切なさのようなものが確かに漂っていた気がするのだ。

それは裏返せば挫けることを知らない強さであり、あのおじいちゃんの老いてなお頑なに掴んで離せずにいる自己への渇望、切ないまでの自意識のようなものである気がして、“ついに日本にも、スティーブンスが庶民レベルで存在し始めたぜ”とスーパーの一角という場に相応しく他人にまみれたような汗臭い感慨に密かに包まれながら、あたしの足元こそフワフワと所在なく揺れたのである。

我ながら、たぶんちょっとどうかしていたのだと思う。

 

 

おじいちゃんの金髪刈り上げなんて、誰も褒めてくれないのだ。

けれどおじいちゃんは、刈り上げてしまう。

求めながら、そこには自分しかいないというジレンマは、自給自足で暮らす静けさのようなことと似ていなくもない。

あたしはそれとほとんど似た心づもりで“ムダ毛処理スト”なることを標榜するのか。

 

 

アホらしくて考えるのも馬鹿馬鹿しいのである。