アラズヤ商店

日々のナマキズ

変わるんだから、仕方がない

ドラムの練習ばかりしていて、お店のことがすっかりおろそかになっている。

おかげでこうして日曜のお昼過ぎ、呑気にも久々のブログ更新なんかしていられるほどにはヒマに弄ばれている。

とりあえず、どうにもならない。

何しろウチは人気がないらしいのだから仕方がないのだ。

”仕方がない“という表現は、口語的には酌量の余地を前提にして諦めを容認する、といったどこか自分以外にすら許容されて当然と言わんばかりの惰性の共有を誰よりも自らが要求してまかり通る、と信じて疑わないような極めてのどかな感覚をもって世間一般に広く流用されている感が否めないのだけれど、本来は書いて字のごとく“仕出かす方法がない“という意におけるごくシンプルな慣用表現のはずなのではないのかと個人的には考えるところもあって、他人様さえ許すとかそんな妄想は当然として含まない、その何気ない使用感とは裏腹に案外絶望の色味が濃い言い回し方なのではないのかと、内心は少なからず打ちひしがれるような自嘲をあえて自白しながら自嘲らしくなく許容されたい、そんな奇妙なゆがみこそをカジュアル風の言質に容易に溶かし込んでしまえる、その絶妙なお節介さについつい甘やかされてしまうような、親切に潜む憐れみのようなことを何となくでもなく思わないでもない。

実に油断ならない言い回し方のような気がしてしまうのだ。

 

 

 

つまり、仕方がない。

ただそれだけのことに尽きるのだ。

ヒマである、ということは。

 

ヒマになりたくない人は、ヒマになるずっと前からヒマにならないための方策をいくつも講じているはずで、”あの手この手“とはつまりそういうことに違いなく、今日仕出かせる何某かの方策のことでは恐らくない。

わかるだろうか。

これは実に絶望的なハナシだ。

今日というヒマな一日のために今日できる術は存在しない。

あたしらしすぎて、絶望の色がすごい。

そんな状況こそを自分ばかりで”許容“して、“仕方がない”と言っている。

まったくもって、ただのナマケモノの思考だ。

 

 

今日のヒマを今日嘆くことは、主体性に欠けている。

ただのヒマ人が言うと何とも無自覚極まる物言いにしかならないのだけれど、あたしにも今日のヒマを明日嘆くようなトンマにはなりたくない程度の見栄はある。

だからといって、明日のために今日何かを企んでみたところで、明日の幸せに速攻作用する術も早々思い当たるものでもない。

何よりあたし自身がものすごくノロマであることが、明日にとって絶望的にトンマな要因になっている気がする。

何しろ"明日の幸せ"だ。

"幸せ"は、いい。

けれど、あたしにはそれを実現する才能がない気がしてしまう。

 

 

疎かにしているうちに、元号が変わっていた。

変わることはもちろん知っていた。

何なら一連の報道のおかげさまで“天皇さまお慕い申し上げます”くらいの気分はごく普通に思いつかされたものだ。

あたしも日本人ですから、そんあことは当たり前です。

 

 

元号だ。

年代どころではない、区切りがよくわからない区切りだ。

何だか、いい。

 

平成は、どんな時代でしたか?

令和は、どんな時代になると思いますか?

 

そんなことはよくわからないが、とりあえずそこには何だかあたし個人みたいな要因がないような気がする。

当たり前だ、あたしみたいな何者かも名乗れないような不安定者が時代に影響など与えるはずがない。

 

何だか、いい。

曖昧な感じがいい。

元号が変わってもあたし個人の今日にも明日にも、何も関係がない。

けれど、何かが変わる気にさせられる。

たまたまそこに生きているだけでそんな気にさせてもらえるなんて、何だかおトクじゃないか。

 

そんな気がするだけ。

でも自分では何もしなくても、元号が変わっただけで何かが変わる気がしてしまう人々は少なくないようなのだから仕方がない。

あたしもそんな中に紛れながら、やり方も方策も何も分からないくせに何かが出来そうな、明日は何となくヒマではなさそうな気もしないでもないのだから、仕方がない。

 

仕方がないのである。