アラズヤ商店

日々のナマキズ

おしゃれnot鳥

“好きすぎてキライ”

 

そんな不器用すぎみたいな倒錯は、よくあることだ。

だからといって、それを特有の迂回型思考のように人間が人間について容易に決めつけてしまうのは、全世界に生息するすべての動物たちに対して失礼というものだろうか。自惚れたものだろうか。

マダガスカルの猿も、好きなメス猿につい意地悪くちょっかいを出してしまったりするのだろうか。

ツンデレメス猿にまんまと萌えて、独り相撲みたいなトンマを仕出かしてしまったりするのだろうか。

発情期に結婚詐欺を企てて、エサの横取りやらヤリ逃げが横行したりするのだろうか。

 

野生生物の世界は人間とはひっくり返しらしくオスの方が何かと派手づくりで、メスに媚びへつらいつつアピールするのがメジャーなスタイルらしいから、例えばツンデレは自惚れたオスのケチ、ヤリ逃げは種の存続をただの快楽と積極的に誤解したがる奔放なメスのおイタとでもいったところか。

ヤリ逃げするあくまで見た目地味なだけのメスは、森の景色に体良く溶け込んでオスの視界から容易に姿をくらます。

自ら景色と化して気配を押し殺して暮らす地味づくりのOLが、プライベートではびっしょびしょのアクティブ女子だったりしがち、といった妄想に甘えるその裏付けにまんまとなり得てしまうひっくり返しということなら、何だか素敵だし普通にふしだらなことではあるまいか。

 

 

派手づくりは何のため、そして、いつまで許されたものなのか。

野生生物は、種の存続のために色づき、選り好み、より優れた遺伝子を次の世代に伝える。

地味でアピールに劣る貧弱な個体は確実に淘汰されて、派手で押しの強いわがままな感じのヤツがさらなるわがままを存続させるべく優良な遺伝子として選択される。

だからって、野生の世界は例えばホストみたいな派手づくりでうぇいな感じばかりが溢れて溺れて繁殖期をそれぞれの快楽のために腐らせたばかりにうっかり種全体が絶滅の危機に追い込まれる、なんてことは恐らくない。

いや、そんなこともないのかもしれない。

絶滅危惧種”とカテゴライズされる動物生物の類は、その脆弱性故に環境の変化や人間による乱獲など様々な要因で絶滅の危機に晒されている、というのは優しくてクソマヌケなだけの人間という種族による自惚れたようなただの擁護論でしかなく、もしかしたら彼らの概ねはただの生理欲求ジャンキーというふしだらなキリギリス属性、種の存続より一瞬の快楽を優先させたい自堕落な天然スペックによる必然的な自滅とか、あるいはネガティブすぎる習性による引きこもり、やる気もヤル気もない感じが自ずと引き寄せてしまうだけのやっぱりただの自滅でしかないとか、つまり尺度を勝手に間違えたがる人間によるただのお節介ということも考えられないこともないのかもしれない。

 

なんて。

そんなのは冗談だ。どうだっていい。

どうだっていいこともないが、とりあえずということだ。

ただの冗談だ。

 

 

あたしはもうまあまあいい歳で、子育ては完全には終わっていないのかもしれないけれど大体のところは済んでしまった気もしないでもないというのが近頃の立ち位置で、つまり“種”とか、そんな事態からはすでに埒外というか、よく言えば貢献し終えた、平たく言えばなるようになっただけとか、まあ色々言い様はあるのだけれど一先ず、何だか集中力をそれほど要さない立ち位置に生息している段階にあるような気もしないでもない、そんな曖昧な日々にまんまと甘んじているらしい。

子どもの結婚や孫の心配、自らの老後のことだとか言い出したらキリはないのだけれど、もっと率直な言い方をしてしまうとやはり、なるようにしかならない、くらいの意欲しかどうにも思いつけない感じではいるのだし、その程度であることは耐え難く心苦しいなどというほどにも深刻な感じですらなく、老後2000万問題とか、ついに詐欺も国策化か、なんて洒落でも言ってはならないようなことを平気で思ったりしてさえいる。

一番の絶滅危惧種、ならぬ自滅危惧種はあたしかもしれない。

 

 

それでも、毎日おしゃれはするのだ。

もちろん自分なりに、ということではあるのだけれど。

これでも一応アパレル経験もありつつ、キャリアの大半をサロン業で腐らせた手前、少し余分に着飾ることも仕事の一部ではあった身の上のつもりでいる。

ずば抜けておしゃれなこともないが、着こなしやら色使いなどには一過言あるつもりだし、そこらの小洒落た小金持ち父さんなんかよりはまあまあウザくなさげなおしゃれの仕方日常版くらいの心得はあるつもりだ。

フォーマルについては絶望的にトンマであることも、隠すつもりはない。

基本、古着ばかりだから油断するとコ○キったらしくなりがちなことや、高級で新品の服は生地が固すぎて筋肉痛になりがち、という自身の脆弱性への配慮もぬかりはない。

古着はいい。

古着とは、出会いの瞬間からすでにヨレている、というエキセントリックかつ柔軟性に富んだ出会いのことだ。

だからこそあたしはそんな超個人的魂胆においてに、“ブランド古着”という言葉が何となくキライだ。

どうでもいいことだ、でも言葉の馬鹿を疑わない馬鹿があたしはキライだ。

ブランドがキライなのではない。貧乏なだけだ。

 

 

つまり、頑ななのだ。あたしのおしゃれは。

もうわけがわからない。

おしゃれが頑なになったら、それはもうおしゃれとは呼べない気がする。

“頑な”という言葉からは何だかじりじりと滲む汗のような、強張るばかりで何一つ役に立たないチカラコブのような、そんな空回りっぽい絵ヅラばかりを思いついてしまう。

一生懸命におしゃれをして、自分からはみ出してしまいそうな何かの予感を必死で堪えている。

冷や汗をかきながら、引きつったような笑みを浮かべつつ耐え忍び、訴える。

 

“おれって、おしゃれだろ?”

 

真夏の日差しの下、突如襲いかかってきた腹痛に苦悶の脂汗をにじませつつ、平静を装う信号待ち。あの感じ。最強のぼっち地獄。

楽しめない、とはそういう地味すぎる地獄みたいな有り様のことだと個人的には思っている。

誰も苦しくない、苦しいのは自分だけ、というどこまでも親切で深刻な地獄。

サイアクだ。

 

 

おしゃれは気にするのだ。

気にはするのだけれど、野生の鳥ほど鮮やかなものではない。

原色使いも全然キライではないけれど、それにアピールを託そうと考えたことはない。

だからって、今日来ているカーディガンはまあまあうるさめのイエローだったりする。

意思と実態が乖離していると、スーパーで買い物をするときなどに不安が徒らに暴走して、その佇まいが客観的にも浮ついた感じに映りがちなので、主観に甘えずに気を付けたいところだ。

 

 

そうつまり、浮ついてしまうのだ。派手であるということは。

つまり、野生の派手なオス鳥とかは、あれは浮ついた姿なのだ。

後尾をしたいと意欲的に、積極的に浮ついているのだ。

何なら、浮ついてでもいないとこんなこと自らアピールなんか出来るわけないじゃん、なんて案外客観的な羞恥すら思いついているのかもしれない。

確かに、あたしは動物を扱う番組などでその生態を目の当たりにさせられると、十中八九気恥ずかしいような気分にさせられるのだから、その想像はまったく的外れなことでもないのかもしれない。

 

言ってみれば、”コスプレ“のようなものなのだ。たぶん。

コスプレで、その気になる。させる。

アレだ、まったくアレに似ている。

コミケに群がる、人々の熱気極まるあの倒錯感。

あの場でしか成立し得ない客観度外視のぶっ壊れた了解の世界。

撮るものと、撮って欲しいものだけでぶっ壊れたがる世界。

 

そう思えば野生の鳥たちも、大層ぶっ壊れたものに見えてこないでもない。

いわんや、謳歌したものではなかろうか。

 

 

 

 

野生の鳥は、求愛のためにオシャレをする。

その魂胆はたぶん、人間と変わらないものだ。

どちらが先に思いついたのか、そんなことはどっちでもいい。

おしゃれをすると、モテる。注目される。

おしゃれとは、それを信じて疑わないという健気、その発露だ。

 

 

おしゃれをすると、モテる。

まじか。

モテたいのか、あたしは。

もう子育ても近く終えようというこの時期に至ってなお、モテたいのか。

うお。

 

 

人間は、動物ではないけれど動物と大して変わらないものなのだろうし、だからといって動物っぽいばかりでもない。

メシを食べるし、子どもを育てたり育てなかったりもする。

野蛮なことをしたり、いかがわしかったりいかがわしくないこともしたりする。

けれど、服を着たがるのは恐らく人間だけだ。

派手な鳥と同じ魂胆でおしゃれをしたがるばかりではないことを、”人間のこと“として考えたがることは、愚かなことなのだろうか。

 

ただおしゃれであることを盲目的に信頼したがることは、野生の鳥にすら及ばない魂胆の薄い欲求であることのような気がしてしまう。

けれど、あたしは何をとるにもまず“おしゃれであるべき”ということをその理由の一番目か二番目には据え続けてこれまで来てしまった気がしているのだ。

別段、悪いこととも思わない。野暮であるよりはずっとマシだ。

しかしながら、子育てを終えようとしている今、あたしの中で“おしゃれであるべき”という必然とも言える需要のカタチのようなものが、変わり始めているのを確かに感じている。

正確には、数年前からそんな違和感のようなものにはとっくに気づいていたのだけれど。

 

 

子どもが出来たら、育ったら、モテなくてもいいのか。

そんなことはない。

あたしは死ぬまでモテたい。

何しろ普通にモテないのだから、その願望は赤裸々にして切実でマヌケでしかし、一生モノであるのに決まっている。

我ながらさもしくて気の毒なことだ。

 

けれど、どうやらやはり別のところにあるらしいのだ。

おしゃれ、というものは。

あたしが思う人間の“おしゃれ”とは、野生の鳥のそれとはキッパリと違うものだ。

近頃はそんなことをいよいよハッキリと理解しつつあるのだけれど、そんな気がしているだけで明文化したがると所詮こんな有り様でしかないからイライラとしてしまうのだろうか。

 

“おしゃれ”という単語が単なる名詞ではなく、人格やモノの価値を代弁する独立した形容詞のように扱われるようになったのはいつ頃からのことなのだろう。

そんなことはわからない。

江戸の庶民はあの質素な美人画に本気で欲情するしかなかったのかもしれないし、大正ロマンはもしかしたら現代よりも遥かに洒落ている。

人々が人々として希求し続けてきたことなど、あたし程度にわかるはずもない。

 

ただあたしは、あたしの考える“おしゃれ”ということに、そのあり様に悩み過ぎて、すっかりアタマがおかしくなってきているらしいのだ。

 

 

 

 

 

 

「めっちゃおしゃれじゃん」と、素敵なあの子が嬉々として叫ぶ。

それがあの子にとっての何だと言うのか、まったくわからない、わかりたくないあたしはただムッとしながら、負け犬のごとく視線を逸らすしかない。