アラズヤ商店

日々のナマキズ

一粒万倍日だからちゃんとあやかる

一粒万倍日、である。

 

そんな言い方をしてしまうと、端から心得ていたらしく思われてしまうかもしれないが、そんなはずはないので誤解しないでほしい。

してくれても、それはそれで少しも構わないのだけれど、内緒にしておいてほしいとは思う。

 

何せ、あたしはいい歳をして自分自身でもびっくりするくらい無知なのだ。

だだの無知なら余計なことも言わずに済みそうなものだが、見栄ばかりは人一倍のあたしは無知を嫌うばかりに見聞きすることを見当違いのまま鵜呑みするきらいがあり、この前もご近所のおじいさんがいよいよ付きっ切りの介護状態になってしまって大変らしい、といった話を耳にしていたつもりでいたのだけれど、実際はおじいさんではなく飼い犬の話だったことがわかり身内で失笑を買うという憂き目にあった。

不謹慎も身内のうちなら冷や汗適度で済みそうなものだが、あいにくあたしは商売人の端くれときている。

軽口のお陰で思わぬ失客を招いたことが全くないかといえばそんなはずはないのだし、覚えがないかといったらそんなはずこそない。

何なら確信犯ですらあったこともある。

我ながら最低な商売魂だ。

 

 

脱線した。

あたしの話ではない。

無知の話だった。

 

 

 

新幹線のチケットの買い方がわからない。

無知としてはけっこう軽めのやつだ。

あたしの無知もそれに含まれていることは言うまでもない。

しかしながらその程度の無知なら世間にはゴロンゴロン地鳴りがする程転がっている。

恐れるに足りない。

新幹線のチケット、どうやって買うんですか。

新宿駅で尋ねる勇気はない。

 

 

回るやつではない、カウンター越しに大将から施される値段の決まっていない寿司を食べたことがない。

これは、そもそも貧しい家の育ちであることと、その後の自身の経済力の備わらなさと、人間関係の乏しさに端を発している気がするので、ただの努力不足の色が濃厚だ。

つまり、論旨が違う。

どうして値段までお任せなんですか。

恐ろしくて味わえそうな気がしない。

 

キャリア正規のショップでスマホを買ったことがない。

単純に、緊張するからだ。

そんなことをとある友人に正直に申告したところ、おかしなイントネーションを冷静に指摘する英会話教師みたいな佇まいで諭された経験がある。

間違っている、と言うことだったのか。

その友人のススメのようなものが、未だに腑に落ちないでいる。

貧乏育ちなので、過度に洗練された画一的な対応に疎外感を覚えてしまう。

選民思想というものは、何も見下ろす立場から決定されるものばかりでもないことをあたしは知っている。

つまり、あたしはそこに相応しくないのだ、といった卑屈な遠慮をどうしても思いつかずにはいられないのだ。

貧乏くさい気質が我ながら不憫でならない。

 

スーパーのレジで、「袋、お付けしますか?」と尋ねられるたびに、反社会的であるらしい自分がいたたまれなくなる。

もちろん、「お願いします」と答えるのだけれど。

マイバッグを持参することが照れ臭いだけだ。

やはり社会性に欠けている。

 

 

もういい。

 

 

そんな無知というよりは苦手なだけのあたしが、偶然"一粒万倍日"なる言われに優れた日を知ってしまったということなのだ。

何かを始めるのに最適な日、ということらしいのだ。

さあ、どうする。

大変な日だ、ということなのである。

 

 

つらい。

突然そんなことを迫られた途端、まんまと降ってくるものがある。

 

"何をしようか"

 

恐ろしい。

最適な日なのに、始めたいことが反射で思いつけない。

いかに日頃から漫然と過ごしているか、憧れはありつつ所詮憧れでしかなく過ごしがちであることか、真綿ほどの手加減もなく締め付けられる。

まあまあ、しんどい程度に。

 

 

おサイフを買うと、イイらしい。

そうかならば、仕事帰りに雑貨屋でも立ち寄って、見掛け倒しみたいな本革風合皮製のサイフでも買って帰ろうか。

日頃のサイフの中身以上に高価なサイフなど買いたくない。

中身より入れ物の方が高いなんて、本末転倒も甚だしい以上にあたしらしすぎてイヤだからだ。

 

"一粒万倍日"

 

中身の方が立派になる生活を始めてみようか。

そんなまじないみたいな根性で立派に出来るなら、経済政策なんてゴミであること請け合いだ。

何だか普通に気力が失せる。

 

 

何度も挫折し続けてきた日記をつける習慣に再チャレンジしてみようか。

枝葉の先に、もしかしたらコラムニスト、人気ブロガーへの道が開けるかもしれない。

 

すでにやらかしているこのブログの体たらくという自覚はないのだろうか。

自覚もないのに、縁起も言われもあったものではない。

神さまは時に偶然という幸運をもたらしてくれるかもしれないが、口を開けて空を見上げるばかりの人間にくれてやる偶然なんてあるもんかよ、くらいの毒を吐くこともないこともなかろう。

 

 

縁起にあやかってでも手に入れたいもの。

そう考えると、気分はなんだか複雑だ。

言い換えるなら、偶然でも気が済む程度に欲しいものとか、そんな程度に聞こえなくもない。

例えば、"素敵な恋人に出会うために、今日から寝入りの願掛けを欠かさないことにしよう"なんて心に決めたとする。

幸いにもそうして出会えた恋人は、何者なのか。

願掛けに誘われて現れた、天からの使者。

そんなはずがあるか。

素敵なきみが見初めた、素敵なきみを見初めてくれる素敵な恋人だ。

絶対にそうであるべきで、そうでなければならない。

あたしは案外そういう精神的"べき論"にはばかりがない。

精神のことだ。つまりあたしのことでしかないので、放っておいてもらいたい。

縁起もいわれもご遠慮願いたいところである。

ならば。

 

やはり、サイフでも買うことにしようか。

明日からじわじわと、数年後に引退を控えた諭吉さん一葉さん漱石さんが小走りで駆けつける忙しない毎日が始まるかもしれない。

ということは何かしらの経済活動による成果、あたしは働くことで対価を得るしか手段はないのでつまりお店の売り上げということになるのだろうが、勘違いしてはいけないのは忙しいのはあたしであって諭吉さんでも一葉さんでもないということだ。もちろん漱石さんでもない。

忙しく働けば、それに応じた対価を得られる。

ヒマに甘んじていれば、それなりに。

当たり前のことだ。

 

おい、縁起はどうした。

 

縁起がお客を呼び寄せる、という考えかたもあるが、呼び寄せる理由が縁起にあるとなると何やら自分自身が覚束なくなる。

何だか、なぜ売れたのか自分自身でもわからない一発屋風メンタルを背負って路頭に迷ってしまいそうだ。

それもずいぶんな言い方といえばそれもそうなのだけれど。

 

恋とお金しか、願望はないのかこの世は。

どうにかそこから逃れたつもりでも、気が付けば夜更けに耽る現実問題抜きのいかがわしいばかりのあれこれとか、やはりそんなことばかりを熱心に想像してしまうゲスな本性にフェードインしている。

最早器用とすら思えるほどに。

 

願いとは、実に難しいものだ。

何しろ自分すら満足に充したことのない人間だから、所詮想像力も感受性もそう簡単には自分サイズから逃れられないものらしく、どんなに奔放に見積もったつもりでも結局のところ腹具合とかサイフの中身とかその他諸々の身体構造的欲求など、神さま特製の箱庭のようなところにすっぽりと収まってしまう。

想像すればするほど、何処かしら透け始め魅力なく色褪せてしまうその願望の貧弱さに、もろく集中力を失いがちだ。

 

 

何しろ、願望とは自分自身のことに違いないのだ。

我ながら突然何を言い出すのだろう。

何だが恐ろしいぞ。

しかしながらやはり思うのだ。

何かにあやかるつもりなら、あやかる程度で気が済むことであやかっておけ、と。

あたしは無知だといつか言ったけれど、実はケチでもあるのだ。

さらに正確にいうと、ケチな自分の領域を自分以外のものに踏み荒らされたくないのだ。

お金が欲しい。

働きたくないのに。

儲かりたい。

面倒臭がりなのに。

モテたい。

人嫌いで性格サイアクでクソ貧乏なのに。

いかがわしいことをしたい。

他人の唾液にすら触れたくないくせに。

 

そんなことすべてが、ケチなせいなのだ。

いっそのこと、清々しいくらいだ。

だからといってあたしは無知でケチで貧乏なのだけれど、実は結構わかっている。

何かしらにあやかりたがることの退屈さを、何となく知っている。

勝手にそんなつもりでいる、ということでしかないから生意気なことを言っているだろうが許して欲しい。

 

働いた分だけ、お金をもらう。

なまけた分だけ、ヒマを充実させる。

魅力のなさだけ、孤独を探索する。

いかなることも、レベルアップはあたしのやることでしかない。

 

実に馬鹿馬鹿しいことだ。

今日のあたしは何処かどうかしている。

何かの偶然にハマったか、何かを思いついたつもりでもいるのか。

 

"一粒万倍日"

 

偶然にしても、結構なことだ。

何処がどうなってしまったのか、まったくわからない。

自分のことなのに。

しかしながらせっかくだから、これにあやかることにする。

わからないことが万倍になって降りかかって来られてはたまったものではないが、わからないことが万倍に深まることは悪い気ばかりでもないような気がする。

少なくとも、お金やいかがわしいような欲求では到底思いつけなさそうなものに、少しくらいは出会える可能性が高くなりそうな気がしないでもない。

 

一粒万倍日という、そんな日に思いついたことだ。

あやかったところで、何を望むのかもわからない。

しかしながら疑いようもないらしく、我ながら名案だと思う。