アラズヤ商店

日々のナマキズ

わかってもダメなことをしている

"雰囲気まるわかり"

 

とあるCMのコピーだ。

それを耳にした途端、あたしは震え上がった。

見るともなく見ていたテレビから飛び出したそれがあたしの鼓膜を揺らしたのはとある休日の午後のこと、森永エンゼルパイのマシュマロとチョコによる激ウマコンボ攻撃にまみれてヌタヌタになった前歯周辺を渋めのお茶でさっぱりと洗い流したい、そんな頃合いのことだった。

 

"雰囲気まるわかり"

 

せっかくの甘くてダルくて煎餅が恋しいだけの清貧なる休日の午後はすっかり台無しだ。

思い返すだけでも未だに震える。

まったく恐ろしいコピーである。

一体どんなCMに奢られたコピーなのか、すでにお気付きの方は恐らく賢明な、あたしがもっとも苦手とするタイプの思考の持ち主、あるいは価値観の属性がアクティブに過ぎるタイプの人に違いない。

ディスっているのではないから勘違いしないでほしい。

わかりやすく言えば、”何とも今どきらしい人であることよ“とでもいったところなのである。

もちろんそれはあたしの身勝手な主観にすぎないから、ムカつくのは勝手だがそれをこちらに向けて直情的に表明されるような事態は勘弁願いたい。

などと乗っけから逃げ口上を持ち出してしまうと今後の展開を見透かされるようで、文筆を弄びたがる人間の端くれとして手落ちもはなはだしいというものなのだけれど、やはり勘弁してほしい。

何しろあたしは身勝手である以上にトンマすぎるほどの正直者なので抑えが効かないのだ。

友人の家などで食卓に預かると、他人の家の味覚をまるきり苦手にしていることがどうしても表情に出てしまうし、出すぎてしまうばかりに交友関係そのものまでをも窮地に陥らせるというトンマぶりだ。

人生を自ら台無しにするような仕出かしをみすみす繰り返し続けるのは我ながら厄介とは思うのだけれど、性分というものはそういうものなのだから仕方がないものととっくに諦めている。

不器用にもほどがある、とは世間でよく言われることだが、ほどが知れる程度にも器用さを持ち合わせていたものならそもそも誰も苦労などしないはずなのだし、鬱とかそんなものがまるで人間の精神状態を表すアイコンのごとく広く認識されることも、これほどカジュアルに、あるいはポップなほどにフィーチャーされることもないはずなのだ。

尖った言い方をするなら、「新型云々とか人間ナメてんのか」なんてそんな感じである。

身勝手でトンマで正直なだけの人間をディスりつつマウンティングも厭わないなどという桁の低い欲張り方で己の気分を埋め合わせるのは大概にしてほしいものだ。

こちとら生きづらい毎日を何とか無事に過ごすだけで手一杯なのである。

 

 

”雰囲気まるわかり“

 

おわかりいただけるだろうか、その恐ろしさを。

”まるわかり“とは、つまりそういうことではないのか。

あたしが誰のということではなくまんべんなく他人の家の味覚が苦手すぎるばかりに交友関係まで窮地に陥らせてしまいがちなタイプである、という”雰囲気まるわかり“

自分の人間性を棚上げして近頃世間に蔓延する鬱という精神状態についてカジュアルどころかポップですらありそうなその認識にあやかりたいような憤りを隠しきれずにいるタイプである、という”雰囲気まるわかり“

 

おわかりいただけるだろうか。

言いながらあたし自身でも何言ってるのかわからない。

つまりもう、ほとんどわけわからないレベルの恐ろしさだ。

意味がわからない。

 

”雰囲気まるわかり“

受け止めようとすればするほど、あたしの中でものすごく賢い感じと、外連味のカケラもない小学男子が夢見るハレンチのようなものがせめぎ合い、その激しさを増していく。

例えるなら、今でしょ(古)の林先生とキューティーハニー(なお古)がタイマン椅子取りゲームで熾烈な戦いを繰り広げている、そんなイメージだ。

ヌタヌタの前歯のことなどすっかり忘れてしまう、滑稽ながら見逃せない、そんなインパクトがほとばしる。

 

 

どうしてそこまで激しい衝撃を受けるのか、もしかしたら普通に恵まれた人にはわからないかもしれない。

そんな言い方をすると、まるであたしが普通ではなく普通よりはやや上等な思考レベルを持つ人間と思い上がっているものと思われてしまうかもしれないが、勘違ないで欲しい。

あたしはただの商売人で、しかも全然儲かっていないそこそこいい歳で独身子持ちかつ軽妙な学歴なりの思考で人生をまんま腐らせているだけのただのクソ貧乏商人だ。

つまり、心細い生き物なのだ。

そんなものでしかないことを許して欲しい。

 

 

"雰囲気まるわかり"

白状しなければ徒らに知れわたる必要もない自身の低学歴。

“雰囲気まるわかり”

読書好きを標榜してはいるけれど、実際には津村記久子さん以上に面白い作家さんに出逢うのはもう面倒くさいと思っている。

”雰囲気まるわかり“

商売柄おしゃれそうなフリをしているだけで、実際にはただのアイドル好きで大森靖子信者。

”雰囲気まるわかり“

博識ぶってもその実、情報源はNewsPicksとtwitterで近頃好きなのは高橋祥子さんとトミヤマユキコさんと鈴木涼美さんと藤原麻里菜さん、情報とか無関係にただただ好きなだけの江口のりこさん。

“雰囲気まるわかり”

お店が好きだ、とか言いながら実際にはそろそろ仕舞いたがっているらしい自分にも気付き始めているけど言えない。

 

 

“まるわかり”なのだ、その全てが“雰囲気”レベルで。

バレバレ、らしいのだ。

 

 

"雰囲気"とは、その人が持つ様々なスペックがブレンドされて無意識のうちにも匂い立つ芳香、あるいは異臭のようなものだと、個人的には考えている。

つまり意識外にあって、取り留めもないようなものであって、意識にあるものであるならそれはただの性格の悪さのようなものでしかないような、そんな良くも悪くも真っさらな“その人漏れ”のようなことを表すものなのではなかろうか。

 

 

“ネットで検索、雰囲気まるわかり”

 

本当なら恐ろしい。

何故かと言えば、ウチの店の雰囲気はまあまあヘンな感じだからだ。

玄関先で美人なウィッグがヘルメットを被って待ち構えているし、偏った趣味の文庫小説とスラムダンクいくえみ綾さんが並んで鎮座しているし、なぜかエレドラがある。

髪を着る為の椅子は一台しかなくて、照明が何となく薄暗くて、看板には何も描いていない。

お店の半分以上は、あたし自身のための遊び場でしかない。

つまり、“雰囲気”はまあまあサイアクっぽいのだ。

 

 

しかしながら、その辺のことは大丈夫なような気がしている。

たぶん、問題はそんなことではないはずなのだ。

ウチはヘンな店である。

だからといってそれがどうした、と言い切ってしまってもいいのかもしれない。

“雰囲気”とは、真っさらなものが漏れ出しまう“その人漏れ”なのだから、仕方がないのだ。

 

つまりあたしが何より恐ろしいと思わずにいられないのは、”雰囲気まるわかり“というコピーのもはや脅迫的とすら言えなくもないその明快な選択志向性などではなく、”ネット“という主語から始まる”検索“という目的意識に沿ってまんまと成り立ってしまうらしい”まるわかり“という双方向に効果的な利便性という認識から、いの一番に排除されても何ら疑いも持ちようのないないウチの店という”ヘンな感じ“、それが”雰囲気まるわかり“にまるわかりにされて脱落しかねない危機感、縋りつきたいほどではないのだけれど所詮心細くはある、”まるわかり“なんてそんなアホな、とは思うのだけれど反発して生き残る術こそ所詮思いつけそうにないポンコツさとか、つまり何だか、釈然としないのだ。

 

 

いまさら言うまでもなくお分かりだろう。

例のCMのことだ。有村さんのやつだ。

あのCMの脅迫性(もちろんそれはあたしんちに対するというごく個人的なインネンのようなものでしかないことをお取り違えなきよう)、つまりそれが意図すするところの“雰囲気”とは、単純に“おしゃれ度”のようなニュアンスに違いなく、しかもそれは差し出す側への脅迫のみならず、要求する側からのそれでもあるという共依存生、ツーと言えばカーといういう言い方は聞いたことはあっても意味はわからないのだけれどたぶんそんなようなことには違いないあの感じ、美容師イコール無駄におしゃれといういまやほぼ無思考じみてむしろ鬱陶しくさえ感じないでもないそんな雰囲気とか、はっきり言ってしまうと何だかつまり、腹一杯なのではないのか、とっくに世間は。

腹一杯なのに、おしゃれさは、その脅迫は尽きない。

何だが恐ろしいではないか。

 

おしゃれでないものは、死ね。そんな脅迫。

せめては強迫。

どちら側がということではなく、ただこの道で選べない、選ばれないということを平たく言えばそういうことには違いないのではないか、そんな気がしてしまう。

ウチはけっこう暇なので、”死ね“側であることは間違いないのである。

 

 

 

あたしは、何だか苦手なのだ。

例のサイトを見ていると、徐々に気が遠のいていく。

おしゃれとは、たぶんそんな威力のようなことだと思うのだ。

相変わらず馬鹿みたいな表現の仕方しか思いつけない自分が自分で気の毒だ。

しかしながら、自分はそこに交れそうな気がしないのだから 仕方がないのだ。というかもっと正直に言うと同じことをしても勝てるはずがないと、やる前からわかってしまう。

"雰囲気まるわかり"

そうだ。

何しろ、あたしは何かにつけダサい。

アイドルでエレドラで中古文庫漁りで古着好き。

例のサイトに似つかわしいキラキラとしながら威嚇するような要素が一つも見当たらない。

もはや絶望的だ。

 

 

どうせ”雰囲気まるわかり”なら、とことんまでわかってほしい。

ネットで調べてわかる程度のことで用が済むなら、丸出しになるなんて簡単なことのような気がする。

でも実際にネットで出来る丸出しのようなことなどはたぶん、誤解しか呼んでくれなさそうな気がする。

あたしはなんだかんだ言いながら、実際にはつまんないくらいまともで地味な生物だ。

まともで地味が“まるわかり”になるなんてシャレにならない。

 

 

世間は“雰囲気まるわかり”大歓迎らしい。

全然ついていける気がしない。

ついていけてもまともで地味ではむしろ逆効果な気がする。

“雰囲気まるわかり”

一体、何度言うつもりだ。

しかしながら、良くも悪くも漏れ出してしまうらしい真っさらな“その人漏れ”ということなら、実に照れ臭いことなのだけれど、あたしも仲間はずれにしないでほしいとは、やはり望んでしまうのだ。

おしゃれではないし、とりあえず何だかヘン。

それが漏れだしてしまうのが恐らくウチのお店の“雰囲気”ということなのだろうし、そうでなければ“まるわかり”は嘘になってしまう。

いや、嘘でいいのだ。

まともで地味は、商売として立派な死因になりかねない。

ならばいよいよ、"雰囲気まるわかり"という効果がもたらすのは、一体何なのか。

 

 

脅迫されるつもりも、強迫に苛まれる覚えもない。

何なら、誤解される覚えもない、などと生意気が喉を突いたりもするのだ。

実に生意気なことだ、あたしんち程度がアホか何言ってんだ、である。

しかしながらそんなことさえ無意識のうちに漏れ出してしまうらしいのだから、仕方がないのである。

 

 

“雰囲気まるわかり”

わかってもわからなくても効果的ではないらしいウチの店は、なるほどヒマなはずである。

 

だからって、まともで地味だから仕方ないのである。