アラズヤ商店

日々のナマキズ

知らないから信じない馬鹿

あなたは自分の性格あるいは性質を一言で端的に言い表せるだろうか。

すぐに。

秒で。

あたしは自分への客観性に疎いので、その気なくズレたことを平気で言ったりして聞く人を引かせるのが関の山だ。

にもかかわらず、たった今それを尋ねられても秒で答えてしまう自信がある。

そんな自信ばかりは常に持て余している面倒なやつなのだ。

 

 

“情弱”

 

もはや聞き慣れた言葉だ。

“情に弱い”の略だと思った人は、あたしの上をいく情弱の恐れがあるから気をつけた方がいいかもしれない。

もしかしたらそんなあなた、例えばあなたのお婆さんは近頃、近所の元コンビニの空き店舗前で朝っぱらからお友だちと行列などしてはいなかっただろうか。

親切なスーツ男たちに招き入れられて、何とか茶とか何とかストーンとか何とかスーツとか、やたら長生きしそうなものばかりをお得にお買上げされて上機嫌でおられなかっただろうか。

もし心当たりがあるのだとしたら、あなたはあなたが思ったとおりのまさしく“情に弱い”人なのかもしれない。

それもお婆ちゃん譲りのド真性だ。

この先のあなたが心配だ、とはいえあたしには何も出来ないので「騙すより騙される人になりなさい」などと全然面白くも珍しくもなぐさめにもならないことを平気で言ってお茶を濁すしかない。

何しろ、自らへの客観性に疎いのだから仕方がない。

 

 

長い前置きを取ってしまった。

貴重な読者をただの文字数稼ぎに付き合わせてしまうとは、あたしは一体何様のつもりなのだろう。

そんな悠長な態度でいるからいつまで経ってもアクセスが伸びないし、読者もつかないのだ。

こんな体たらくではコラムニストへの道のりは茨の道だ。

何と驚いた、あたしはコラムニストになりたかったのか、知らなかった。

言うだけならタダだ、何とでも言うだけ言って気持ちよくなっておくのも一興ではないか。

 

 

ではどうしたら、コラムニストになれるのだろう。

“情弱”には実にありがちな迷い方だ。

どうしたらコンテンポラリーアーティストになれるのだろう、と言い換えてもその問題の根本は変わらない気がする。

わかるだろうか、つまりこの何ともフワっとした感じ。

つまり、“情弱”は、押し並べて無知なのだ。

無知な上で、情報に聡い。

コンテンポラリーアーティストって何だ? あたしは知らない。

例えにちょっと言ってみたかっただけだ。

このフワッとした感じ、わかるだろうか。

コンテンポラリーアーティストが何者なのかは知らないが、コンテンポラリーアーティストという単語だけは知っている。

偶然だが、さりげなく文字数を稼いでくれることにも少し味を占めている。

面倒臭いのでもう書かないが。

 

 

知らないことを知らないのは当たり前のことで、心掛けて知ろうとすればいいのだ。

そんな心掛けのあるものを捕まえて“情弱”と気安く呼びつけたがるなら、容易く引用を違えてしまう自らに与えられる赤っ恥に寛容である心掛けこそが必要なのではなかろうか。

“情弱”は恐ろしい。

何しろ、知ることだけは知っているのだ。

ネット検索は大得意で、ニュースアプリやキュレーションアプリなどは最低でも5つくらいはインストールしている。

そのうち2つくらいは通知がやかましくてオフっているのはご愛嬌だ。

かく言うあたし自身も検索グセはひとかたならない。

テレビCMなどで少しでも目に止まると、“◯◯CM  女の子”などから始まる適当で気味の悪い検索ワードを打ち込んで、そこそこの情報に辿り着けないと気が済まないタチだ。

我ながら根暗だし、実に気持ちの悪い癖をかかえたものだと思う。

例えば、近頃あちこちのCMに起用されまくっている“試してみるもんだ”の女の子、あの飛び抜けてファーストインプレッションの清々しいあの子は一体何者だ。

清野菜名ちゃん”という。

もちろん即座に調べた。

どうだ気持ちが悪いだろう。

でもせっかくだから覚えておきたまえ。

もちろん、清野菜名ちゃんのことを言っている。

 

気持ちが悪いついでに少しばかりだが私見を述べてしまおうか。

近頃“目下売出し中”と思わしき女優さん、あるいはタレントさんの筆頭格らしくあたしの目に止まったお嬢さんがお二方いらっしゃられる。

そのうちお一人は言うまでもなく、先述の“清野菜名”ちゃんだ。

飛び抜けた美人と言うより、一先ず愛嬌に溢れた御仁である。

しかしながら所詮可愛らしく、どうにも飛び抜けて見えることは言うまでもない。

目下CM女王候補の最右翼とでも言ったところではなかろうか。

そして気になるもう一方のお方。

それは“浜辺美波”ちゃんである。

よく出来たすごい名前だ、などと思っていたらなんと本名だと言うのだから驚いてしまう。

一見地味というか、何なら少し老けた印象すらある名前だが、苗字さえ思い出せれば名はイマジネーションが連れてきてくれるという何よりの高機能を備えている。

結果、フルネームで印象づく。すごい。

あくまでも個人的雑感だ。

そして極めて万人ウケに即した端正な美人さまなのである。

ちなみに、あたしの娘より1つ歳下なんである。

軽くゾッとしたことは言うまでもない。

もちろん、あたし自身に対してだ。

その程度の客観性は流石のあたしも標準で装備しているナメんな、なのである。

 

 

少しばかりではないハナシになってしまった。

つまりあたしが言いたいことは、“知っている”とは何をもって“知っている”とするのかということだ。

あたしはそこそこバンド経験があって、ステージに立った経験も少なくはない。

だが、所詮楽譜は読めない。

ただの耳コピからの叩き上げだ。

スケールもペンタトニックをつまみ食いした程度しか知らない。

セッションプレイなど、以ての外だ。

また、あたしは普通の人よりは心掛けて本を読むタチではあるつもりでいる。

だが、エンタメ小説が読めない。

単純に好きではないからだ。

ミステリーも惹かれない、歴史モノにはハマったことはあるが、それも井沢元彦氏のみという偏食ぶりだ。

乱読家の活字中毒に言わせれば、あたしなどひん曲がったハルキスト以下のゴミ虫程度でしかない。

何が言いたいのかというと、あたしはバンドカルチャーにそこそこ触れているし、文芸カルチャーに至ってはそこそこ炎上騒ぎを起こしたことも少なくはないのだが、そのどれもこれもが所詮素人レベルにすぎないことには違いなく、端的に言えばつまり、お金を生むようなレベルには少しも至っていないということだ。

ややこしい言い方になってしまうかもしれないが、あたし自身は知っているつもりでも、その道にお金を投じたがる人々はあたしのことなんか知らない、ということがつまり、“お金を生まない”ということ、“知っている”と自称するには至らないということ、とも言えなくもないのではないのかということなのだ。

もちろん、一刀両断に定義してはばからない、などと言うつもりはない。

 

 

“情弱”は恐ろしい“

情報弱者

つまり、情報に晒されるばかりで、その真意には聡くない人のことだ。

もちろん他意もあるけれど、そこはあたしの性格の悪さが決定させるピックアップなのだから黙って聞いておけ、なんである。

何しろ、知っているようで知らないなどということは、所詮素人にすぎないはずなのだ。

恐ろしいことではないか、知っているつもりがその実何も知らないのだ。

不倫に忙しいばかりの巧みな女房が作る飯がウマ過ぎてメタボリック絶好調のトンマなダンナみたいじゃないか。

そんな肥え方は惨めだ、尊厳の地獄だ。

いや、ただの家畜だ。

あたしは三食自炊の甲斐性無しだが、トンマな家畜に化かされることはない。

ざまあみろ、なんである。

誰に向けて言っているのかは、自分でも甚だわかりかねるのだが。

それにしても悲しい、惨めすぎる。

情報弱者”は、その道で食い物にはされても、価値として認知されることはなかなか難しいのだ。

何しろ、現代の人々の多くは自らの掌の中に己の世界のほとんど全てを託して生きている。

道先案内人、夢先案内人を掌の中に絶対的な信頼をもって住まわせているのだから、トンマな家畜による”発信“などということは無意識のうちにも自虐を眺めるような無価値を察して、疑い深い気分ばかりを思いつかされてしまうものなのだ。

 

 

あたしは嘘をついてしまったかもしれない。

嘘は嫌いだから、謝らなければ。

あたしは先ほど“ネット検索は大得意“などとうそぶいてしまった。

全然得意などではなかった。

清野菜名ちゃんの顔や名前は知っているけれど、お会いしたことなどただの一度もない。

そんな有り様をして何を”知っている“などと言えたものなのか。

それどころかツイッターもフォローしていないし、ツイッターを開設しているかどうかすら知らない。

そもそもそんなことする奴は気持ち悪いとすら思っている。

我ながら案外盛り上がりにかける奴なのだ。

そんなシケたほじくり野郎が情報の浅瀬をいじこじと探ってみた程度のことで、”知っている“などとどうしてのたまえたものなのか。

実にこっ恥ずかしいではないか。

 

 

こっ恥ずかしいついでに言ってしまうと、あたしは某検索予約サイトを密かに巡回しつつ自らの現状と比較して絶望の淵に堕ちる、という実にマゾヒスティックかつ根暗な趣味を飼い慣らしている。

ちょっとした自称行為にも似た愚かな行為であることはもちろん承知している。

けれど、心が折れそうな場面に至れば至るほどその欲求は高まって、つい嗜んでしまう。

トンマな家畜の稼ぎは譲れないが、自らのゲスな欲求も捨て難い遊び足りない母さんみたいなものである。

人間とは実に不思議な生き物なのである。

”迷う“とは、本当に路頭に迷うがごとく迷うものらしいのだ。

もしかしたら、迷いたがっているのではないか、とすら思えなくもない節すらある。

人生の歩みは常に分水領、高みから臨むと見るか、谷に転げると見るかは人それぞれで、まったく人間とは実に未完成な生き物なのである。

よく知らないが。

そうして迷う先に待ち受ける手頃な案内所、それが“口コミ”なのである。

あたしばかりではない、その手のサイトを利用する一番の見所がそれであることは、誰しもにも言えることなのではなかろうか。

最早売り手からの宣伝は意味をなさないと言われて久しい昨今、世間は実に手厳しく見栄臭い様相を呈したものなのである。

 

“オススメのシャンプーとトリートメントで本当に髪がサラサラになりました”

“希望どおりのカラーになって嬉しいです”

“丁寧なカウンセリングで安心してお任せできました”

 

読めば読むほど気は遠退き、手首にカミソリ、なんである。

もちろん気分のハナシだ。

その度にそんなことをやらかしていたら、今頃あたしのウデはマシでも靴下洗濯板、標準でおろし金である。

ピュアな十代がその有り様ならまだその先に様々なドラマも待ち受けていようものだが、あたしのような年齢に至ってはただ恥ずかしいだけのポンコツである。

さすがにそんなのはイヤなんである。

しかしながら、”情弱“であるあたしは”知らない“のである。

サラサラになりたい、の気持ちがわからないのである。

もっと正確に言うべきだろうか、あたしはまったく”知らない“レベルよりは髪がサラサラになる理由や仕組みを”知っている“はずなので、サラサラという期待や満足をあまり信用していないのである。

単純に、面倒臭いのである。

ユーザーの反応が何よりの評価とか技術屋ナメてんのか、とすら思っていなくもないのである。

実際に文章に起こしてみると思いのほか感じが悪くて自分でもびっくりしている。

つまりあたしには”口コミ“なるものこそ、ただタチの悪いもの同士が互い違いに折り重なり続けるだけのただの面倒のようにしか思えないのである。

商売とはそういうものであるはずなのに、あたしという頑固の執念深さは日本海原油を掘り当てるが如く、なんである。

 

 

”知っている“とは、何をもってそれとするのか。

あたしは髪の毛が即座にサラサラになってしまう仕組みを“知っている”ので、商売よりも先にそれを嫌ってしまう死にたがりみたいなすっとこどっこいなんである。

”知っている“などといいながら、サラサラになりたいお客さんの理由は”知らない“のだし知ろうともしないのだし、それを逆手にとって商売に転化していく逞しい手段こそ”知らない”のである。

“情弱”の驕り高い憂鬱は果てしないのである。

 

信じ難いことを求められても所詮面倒臭いだけなんである、なんてまるでどっかの薄暗い掲示板で自作自演を叫んでウサを晴らすクソポンコツみたいなんである。

いやそんなこと以前に、商売なんてまったく向いていなさそうなんである。