アラズヤ商店

日々のナマキズ

話し下手なモーセ

7月なのに寒い。

お店の中で過ごしながら、寒がっている。

足元は裸足にサンダルだ。

態度が悪すぎる。

寒がる資格はハッキリ言ってゼロに等しい。

 

 

そもそも、あたしは夏も冬も装いにそれほど変化のない人間なのだ。

Tシャツにカーディガン、ボトムは適当なスキニーパンツを履いていたらもうそれでカンペキのようなところがものすごくあるのだ。

他人から言われるのではなく、自分で勝手に思っているだけのやつだ。

あげく“気分は志麿遼平くん”のようなことを平気で言っている。

歳を重ねるにつれて、持ち前の軽薄さにいよいよ歯止めが効かなくなってきた実感が近頃まじですごい。

根が暗いので、世に言う“おやじギャグ”のようなことはやらかさないどころか思いつきもしないのだが、それを補って余りあるほどのトンマ、例えば日頃から利用する決まりのコンビニにいるあの子はナイチンゲールあるいはマザー・テレサの奉仕の遺伝子を受け継いだクローンに違いないつまり現代に呼び起こされた天使だとか、あそこのホムセンのレジにいるお母さんが醸す満潮過ぎの引き潮のような枯れ感はテレ朝の大下容子さんが纏うそれとよく似たつまり円熟したドラミちゃん的妖艶さだとか、そんな言葉選びのいちいちからクタクタに茹でられたもやしのごとく腰の引けた願望ばかりを漏洩させては聞く人を“今夜のオカズ何だろな”などとあえて子供じみた思考の逃避もやむなしといった判断に追い込んで無下な毛嫌いを思いつかせてしまうこと度々なのである。

もちろん悪気などない。

それは本音としてお互いに言えることで、あたしはただひたすら正直に、聞く人はただただ薄気味悪く、“なんかヤベえな”という同音ながら全く方向違いの心境において同時発動的に稼働する配慮によってしばしの沈黙に沈む。

 

 

カーディガンが好きなのだ。

ただそれだけを理由にして、ノドを突いて飛び出してしまうおしゃべりがある。

“話し上手は聞き上手”といったハウツー的定型文に瞬殺されるタイプのやつだ。

なぜ、瞬殺されてしまうのか。

それは理由であって理由ではない、あたし自身がただトンマに死ぬだけの呪文のようなものだと思っている。

つまり、”商売人失格“というやつだ。

 

 

あたしは”カーディガンが好きだ“、と言い切るのと少しも変わらないくらいの切迫的心境において、“沈黙がコワいのだ”と接客における自分を定義したい。

その怖さを、ただの苦手のようなことと簡単に理解して欲しくないのだ。

少なくともあたしの思う“怖さ”とは、そんな自分可愛いみたいなナイーブさのようなものでは決してないのだ。

などと言いながら、上手い表現方法が思い付かないので端的に表現したいと思う。

 

“今日はこの後どこか行かれるんですか?”

 

などといったことをサラッと言ってしまえるトンマ、と思われるのがコワいのである。

わかりづらいだろうか。

自分なりにはド芯を食ったところを突いてみたつもりだ。

つまり、“それ、聞くだけ余計なお世話ちゅうやつや”といったことを順調に察することでむしろ自らを狂おしい困惑に貶めてしまうのがコワいのである。

なぜいきなり関西弁なのかはわからないが、コワいのである。

いや、違った。

 

 

面倒臭いのである。

 

身もフタもない言い方をしたものだが、実際にそうなのだから仕方がない。

あたしはハッキリ言って話し下手なので、パス出しの能力が絶望的にトンマに出来ているのである。

会話のフリ方がほとんど絶望的にポンコツなのだ。

考えてみて欲しい、場所は渋谷駅ハチ公前広場だ。

“お祈りさせてください”

今時もまだその手の人がいるかのかはわからない。

けれどかつてその手の人に例のごとく尋ねられたあたしは、「は、はあ」などと完全に東京という空気に気圧されたらしくマヌケな感じの普段の3分の1にも満たないであろう弱々しい二酸化炭素の排出量で応じ、周囲の失笑すら生まない沈泥の如く停滞を実際にはほんのわずかだったはずのところを少なくともトイレ一回分の時間程度には感じさせらながら付き合わされるハメに陥ったのである。

もちろん、東京的かつ貴重な体験をさせてもらったというのが若かりし日のあたしの素直な感想である。

つまり、そういうことだ。

いや、何だどういうことなんだ?

書きながら何だか本来の見通しと向かいどころが違ってきたような気がしないでもないのはなぜだろう。

よくあることだが、ハナシのスジからするとこれはややも不可解だ。

 

 

あたしは件の“お祈りさせてください”というその声の主に、はばかりなく怪訝な表情を浮かべたはずなのだ。

それは失礼というよりはむしろ、当然と言える反応に違いない。

何しろそんなの、普通にコワいじゃないか。

それにいきなり見ず知らずの敬虔なるナントカ教信者に行き当たりばったりの如くカジュアルに祈られた程度のことで、あたしの恐らくは平均以下と言ってもバチは当たらなくもなさそうな程度には意味不明の混乱が頻発しまくる不細工な運命がいともカンタンに晴れるだなんてそんなナメたこと思われたらこっちのこれまでの苦労も試練も台無しなんですよこちとら筋金入りの変形型なんですよ自惚れたらダメです、くらいのことは言いたくなっても当然といえば当然ではないか。

 

しかしながら先に述べた通り、あたしは“貴重な体験”と受け止めているではないか。

何だかさすがではないか。

さすが筋金入りの変形型と言うしかない。

あたしはもしかしたら当時、その瞬間からすでに件の人物に対してシンパシーのようなものを思いついていたのかもしれない。

あれから、あたしも少しばかりは大人になったのだ。

大人になったあたしにはわかるのだ。

かつて件の人物が告げた“お祈りさせてください”は鏡に祈るような儀式だったのに違いない。

あたしというたまたまやり過ごし損ねたマヌケものを通して、その祈りは件の人物自身に帰るものだったのに違いない。

”返る“ではなく“帰る”としたのは、馬鹿だからではなくワザとだ。

あまり人のことをナメないで欲しい。

いきなり他人を呼び止めた上で己の糧を得ようというささやかながら一方的な信心に対するあたしなりのささやかな反発である。

祈るのはあたし自身であり、祈られるいわれはないのだ。

あなたの祈りなのだから、あなたにくれてやる。

おお、何だかカッコいいぞ。

 

 

件の人物は、そうして自分と自分の信心のようなものを鍛えていたのだろう。

それが一番角の立たない理解のはずなのだ。

毛嫌いすることも、忌避するような視線に晒すことも、安い理解を示したがる必要もない、それはあの件の人物の個人的な選択なのだ。

そうしてあたしは“貴重な体験”と受け止めたのなら、偶然にしても何だか平和な感じがしないでもないではないか。

だとしたら、あたしがあたしのノドを突いて飛び出すことばかりを会話として選択してしまうことは、果たしてお客さんにどう受け止められたものか。

そんなこと、あたしにはわかるわけがないのである。

少なくとも、件の人物は渋谷駅ハチ公前広場においてささやかながらモーセの如く道を割っていたことは言うまでもない。

 

あたしはあたしとして、「今日はこの後どこに行かれるんですか?」などというクソほども面白くない失言に怯えるくらいなら、「アイドルって、たくましい野良犬みたいなもんなんですよ」などとわけのわからないことをまるきりサービス精神のような心意気において一方的にまくし立てて、割れてしまう道ならとっとと割っちまおう、と開き直るばかりなのである。