アラズヤ商店

日々のナマキズ

山本太郎落選。敗因は宮迫、吉本のイレギュラー案件です気にすんな。

何だかんだで、真逆に行きがちなんである。

ときに世間ではそのような人間のことを“クソ”なんて呼んだりするものなんである。

 

 

突然そんなことを言われても、一体何のことなのだかさっぱりわからなかろう。

それはそうだ、他人事とは押し並べてそういうことなのだし、わかられた方がむしろ気味が悪いというものだ。

そんなことより何より、そもそもあたしは何か一つのことに限定して話しているつもりはまったくないので、少しでもわかろうと意識を傾けてくれたのなら、それはただ単にあなたがいい人であるということでしかない。

いい人万歳、である。

 

 

やっぱりアタマがおかしいのかな、と不安になるのだ。

それは何も近頃思い当たったようなことではなく、これまでも何度となく出くわしてきた感情である。

つまりそんな感情の近頃はどういった感じであろうか、ということなのだ。

あたしは大したものだ。

またしてもいきなりの何のことだ、である。

選挙だ。

つまり、投票に行ってきたのである。

それもお店に出勤する前に少しばかりの時間の余裕をもって、ゆったりとそれに挑んできたのである。

大したものだ。

朝、じきに9時を回ろうというタイミングで投票所に着いた。

まだ早い時間だったせいだろうか、あたし以外に投票に訪れていた人は二人しかいなかった。

近所の公民館である。実に田舎臭い木造の湿気っぽい建物だ。

玄関の三和土から投票所全体に至るまでブルーシートがはりめぐらされていて、つまりは“反土禁仕様”であった。イカす。

靴を脱ぐ手間がないことは、スムースな投票行為のための一助になっていたものと思われる。

なかなかの対応策だ、とあたしは無意識のうちに自らのアゴを撫でたものだ。

別に靴を脱いで投票所内に向かえ、と言われたからといってヘソを曲げて投票を拒否するようなつもりはないのだが。

あたしは平均的コミュ障なので、受付で一先ず、視線の動きでその動揺を悟られた感にあてられた。

年の頃二十代後半あるいは三十代ルーキーつまり敵はアラサーと思わしきナイスなメン。

とても親切に指示されつつ投票用の案内のハガキを手渡す。

並びで補助的な業務をこなしていたさらに若めのメンは、手際が悪かった。

慣れない居心地に晒されてケツの穴が小さくなっていたあたしは、少々のストレスにも敏感になっていた。少しイラついた。

一枚目の投票用紙を手渡してくれたのは、パッと見の印象では中学生とも見紛いかねない幼気な面持ちの少女であった。

あえて“少女”と表現してしまうが、単語としてのパーソナリティは至って清潔なものだ。

勝手にいかがわしいようなぶすぶすの加齢臭臭いような気配を想像しないでいただきたい。

あたしはいつだって歳上が好みだったのだ。

現在に至っては自らの年齢から鑑みるに、その趣向のむしろ特殊性が際立ちそうな気配がシャレにならない感じになってきたからやめただけだ。

しかしながらその少女の目に、少しでも立派な大人として映りたいようなことを考えていたことは確かだ。

我ながらちょっぴりいかがわしいではないか。

地元選挙区の立候補者名を記入する。

あたしは何の理由も根拠もなく、ただ地元の名士の倅であるどうせぶっちぎりの得票が予想される候補者の名前を書いてしまうのはつまらない、と考えていた。

端からそのつもりでいたのだ。

そのつもりで、その他の全然知らない名前をあの手狭で無意味に後ろめたさを煽るボックスの中で身を縮めながら眺めた。

自民党候補以外の候補者は二人。

なぜ自民党候補以外となるのかと言うと、つまらないからだ。

さっき言ったばかりだ、あたしは所詮そんな人間なんである。

さっぱりしたものなんである。

しかしながら、あたしはアタマを抱えてしまった。

一方、“NHKからウンタラカンタラ”

そしてもう一方、“労働の解放なんちゃらかんちゃら”

コミュ障らしくおしゃべりなあたし脳が、一瞬無口になった。

側から見たら、ただ止まってる人だ。

あたしの脳内の“チーン”なる響きは誰にも聞こえない。

地味にヤバい状況である。

結局、“NHKからウンタラカンタラ”のほうがネーミングも含めスジ的にヤバそうな感じがしたので、“労働の解放なんちゃらかんちゃら”の方を選択した。

手応えは、もちろんゼロだ。

あたしが投票したことなど、“労働の解放なんちゃらかんちゃら”は知る由もなかろう。

それでいいのだ。

善意は忍んでこそ善意なのだ。

投票行為を善意などと押し着せる性根の汚らしさよ。

しかしながら成果はあったはずなのだ、こんな片田舎からの一票ですら。

諸派でも結構、野党連合万歳なのである。

 

二枚目の投票用紙を受け取る。

おなじくアラサーらしきナイスなメンであった。

少し眠そうであった。

先程の投票で肩透かしを食ったような気分が、さらにダルくなった。

向かうは比例代表である。

無意味に後ろめたくなるボックスで再び身を縮める。

A4サイズの張り紙に、全国の比例代表候補者の氏名がズラリと列記されていた。

おじいちゃん、おばあちゃんなど、視力に不安のある人には容易く読み取れる大きさの文字ではないのではなかろうか、こんなところにも安易な投票を促す黒い企みが施されている、あたしは思ったものだ。

何だか薄い憤りに、瞬時にまみれた。

しかしながらあたしは、無駄に視力だけはいい。

だからそんな悪意にまみれた張り紙に目を凝らす必要など、一切ないのだ。

そしていよいよ、ただ一筆 “山本太郎

我が青春のメロリンキューである。

見るもの全ての胸を揺さぶる、託したいと思わせる熱い漢である。

記入を終え、改めて悪意にまみれた張り紙を流し見る。

山本太郎”の名は、果たして無事にそこに存在していた。

実に清々しい気分である。

気分であったのに、出口前のテーブルで踏ん反り返っていたじじい、おまえのその態度は何だ。

アゴをシャクって“出口はあっち”とは何事だ。

威張ってないでちゃんと投票は済ませたのかおまえ。

なんか感じ悪かったぞ。

投票率低いの、おまえのせいかもしれないぞ、ほんのちょこっとくらいは。

 

れいわ新選組政治界のBiSだ。

まだまだこれからなのだ。

 

 

 

 

選挙候補者に“宮迫”なる氏名は見かけたものだったろうか。

あたしには見覚えがない。

そんなに熱心でもないから、そんなことは当てになったものではない。

しかしながら、世間はその名についてやけに熱心な様子なのだ。

そう言いながら、あたしもそこそこには無関心なわけでもない。

記者会見を齧り観た。

ショボい会見場だと思ったのはあたしの性格の悪さでしかない。

しかしながら、“ショボい顔つきだ”と思ったのも、やはりあたしの性格の悪さが思わせることだったのだろうか。

あたしは心配になって、すぐさま自分のショボいツイッターで検索しまくった。

というか、いくつかのトピックを流し見た程度ではあったが。

あたしの思いつきは、ツイッター的には概ね“クソ”であった。

なかなかの衝撃である。

世間の反応は押し並べて好意的な理解を示して、それは感性に優れているのか了見に聡いのか温情に溢れているのか、まったくとは言わないけれどあたしにはそのどれとしてもどこかボンヤリとして、つまり何かピンとこないのである。

しかしながら世間はもはや当事者である宮迫田村両氏を軽く飛び越えて、松本氏の動向に熱狂に近い関心を示しているのである。

“松本  動きます”

なんである。

 

 

近頃はカラオケなどに行くことはほぼない。

若い頃はよく通ったものだが、歳を追うに連れていつのまにか足が遠のいた。

歌って楽しむために料金を払っていたのだけれど、歌うために料金を払うことが何だか馬鹿馬鹿しくなってきたのかもしれない。

けれどあたしはカラオケどころではない、長いことバンド遊びを続けてバンドノルマだけでも一体幾ら費やしたことか、ちょっと考えたくないくらいにはお金を払っているちょっとした自己満のトンマだ。

馬鹿馬鹿しいとまでは考えたくないけれど、まったく疑問に思わなかったと言えば嘘になってしまいそうな気はしている。

“君の声が力になる  君の笑顔が力になる”

彼はそう歌って、百万円なのだ。

普通の人はカラオケボックスに行って、料金を払って歌うのである。

あたしはライブハウスにバンドノルマを払うために、お客さんまで呼ぶのである。

”認識“とは、そういうことではないのか。

誰でもそんなことはわかっているのである。

踏み外したのは宮迫さんなのか、あたしの散財なのか。

けれどあたしは所詮そんなことばかりを理由にして、“ショボい顔つきだ”などと思ってしまうのだ。

そしてそれは押し並べて“クソ”らしいのだ。

 

 

結局のところ、彼らの件の会見が一体何のためになされたことであったのか、あたしはイマイチどころではなく、ほとんどわかっていないらしいのだ。

彼らは“闇営業”というつまり反社会的勢力とされる人たちとの関わりについて、その行動を取り沙汰されている立場であるらしいことは理解している。

それについての“謝罪”という名目で行われていたはずで、両氏もそんなようなことを言っていた気がするのだが、見ているうちに何となくわからなくさせられてしまった気がしているのだ。

気付けば事態は、会社とそこに所属するものの間で交わされた取引にまつわる暴露会見の様相ですらあった気がしないでもないのだし、極め付けは”松本  動きます“というこれ以上ないほどの最強の展開にたどり着く。

ツイッターは神を崇める祭りのごとくの盛り上がりだ。

“松本さん、あなたにしか出来ない”

“松本さん、世界を変えてください”

あたしは”クソ“なので、おろおろと取り残されるばかりだ。

 

 

”釈明会見“

そうとでも言ってもらった方が、”クソ“にはわかりやすい気がしている。

“クソ”なあたしばかりではない、多くの視聴者が期待させられたのは、その口から語られるらしい真実への予感のようなものだったはずだと思っている。

けれど、実際にそういうものだったらしいとしても、あたしはやはりよくわからない気がしてしまったのだ。

ことの事態は、見るだけのものには所詮関係のないことだから、妙な言い方ではあるけれどつまり、”どうでもいい“という気がないとも言えない気はしている。

それは薄情とか他人事とかそんな人間らしいことほどにもなく、単に“テレビ”ということでしかない。

あたしが何かを言ったところで、宮迫さんの処遇がどうにかなることなどあり得ない、という意味と何も変わらないということでしかない。

肝心なのはつまり、視聴者は単なる見物人で、見たくて見てるだけということではないのか。

そんな人々が待ち構える画面を通じて、そのつもりでこそ彼らは結局のところ何を、誰に、何のために伝えたいつもりだったのか、そうしなければならないと考えたのか、あの大仰とも取れなくもない涙ながらの訴えにおいて、という半ば呆れたような気分も含めてあたしはやはりよくわかっていないらしいのだ。

 

 

ツイッターの情勢ではどうやら、私のような受け止め方は概ね”クソ認定“確定っぽいのである。

しかしながらあたしは件の騒動について、押し並べて好意的には受け止め難いと感じている側の視聴者として眺めさせてもらっている。

先にも述べた通り、ことの事態はどうでもいいのである。

一視聴者として好意的には受け止められない、とその全貌を断じても惜しくないと思わせるその元凶は所詮宮迫さんというその存在感にやはり尽きるわけで、あたしは結局のところ、“胡散臭い男だ”としか思っていないらしいのである。

そして何よりそんな自分自身を何とも薄情だと思わずにいられないのは、同じように涙ながらに訴えた二人を比べて、田村さんについては少しも疑いのようなものを思いつく気がないということだ。

むしろ件の会見においてせめてもの救いを求めるなら、それは田村さんの存在しかないような気すらしているのである。

 

 

所詮”どうでもいい“視聴者が待ち受ける電波に乗せて、”会見“という自らが切願した場について宮迫さんは何を求めたのか、込めたつもりだったのか。

あたしは所詮、少しもわかっていないっぽいのだ。

宮迫さんにとってはあいにくの視聴者なのである。

所詮”どうでもいい“のではあるが。

つまり何が言いたいのかというと、所詮”大人らしくない“ということに尽きる気がするのだ。

あたしこそちっとも大人などではないのだけれど、それにしてもああいう感情の漏らし方にはどうにも感心出来ない気がしてしまうのである。

どうしてああまでも感情的に、涙ながらに言葉を詰まらせながら恨み節の如く所属事務所を批判し、先輩の言葉を思い返して嗚咽を漏らすまでしなければならなかったのか。

そういう一切を”嘘くさい“などとこき下ろしてしまいたいわけではなく、ただ単純に”大人らしくない“と思わされたことに、少なからず混乱しているのだ。

多くの人を巻き込んで、”芸人”という立場を背負ってのあの振る舞いは、思考や感情の動作は、何だか少しも大人らしくない気がしてしまうのだ。

宮迫さんはつまり、何が言いたかったのか。

何が一番大切だったのか。

ことの事態はわからないし、どちらかと言うとどうでもいい、けれど個人的な結論としてあたしはこと宮迫さん当人について、先の浮気報道からも含めてずっと感心していない気がしているのである。

そんな先入観もあってか、やはりあたしはほとんどわかっていないっぽいのである。

つまり、世間の考えとはまったくの真逆の方向に向かっているようなんである。

 

 

ツイッターにおける“クソ認定”確定というそんな世間の理解や動向に、正直驚いてすらいるほどなんである。