アラズヤ商店

日々のナマキズ

もっともらしく所詮もっともでも何ともないのは、負うものがないからで当たり前なんである

アツい日が続いている。

あたしはアツいのが苦手なので、はっきり言って大変なのだ。

アツさは体力を奪う。

連日のアツさに奪われすぎて、朝っぱらから寝てしまった。

目覚めると、お昼前だった。

気分的には、まあまあヤバい感じだ。

こういうときは気をつけた方がいい。

洗顔をしていたら、勢い余ってTシャツを濡らしてしまうとか、作り置きのオカズにラップを掛けようとしたら、ラップがヘンなふうに切れたとか、そういうまったく些細なまじでどうでもいいことにいちいち苛立ってついつい、“死にたい”などと見栄っぽいようなことを呟いてしまうばかりに不機嫌に食い殺されてその日一日を台無しにしてしまう、などといったちっとも笑えないおっちょこちょいみたいになりかねない危険性を孕んでいる。

あたしには、そういう摘まみ方の難しいようなところがあるのだ。

不意に背中を突かれて、驚きのあまり身長の五倍くらいの高さまで飛び上がってしまう猫、みたいな高次元っぽいのに何だかぶっ壊れている、みたいなやつだ。

ちんちんにアツくなっている鍋のフタに迂闊に触れて、“アっちぃっ!”と跳ね上げた手の先がぶち当たるのはレンジフードの角だったりする。

いくらアツくても、そこまで振り上げることもないではないか。

わかっているのにそうしてしまうということは、割と死にたい感じにさせるやつに違いないのだ。

日常とは、常に死の予感と隣り合わせにあるものなのかもしれない。

寝すぎたみたいだ。

 

 

朝食と弁当を作り、娘を送り出した途端、寝た。

最悪である。

辛うじて仏壇拭きと、テレビ周辺のホコリの始末、部屋の掃除機掛けまではこなした。

お風呂の鏡の表面に付着したカルキ汚れを何とかしたくて近所のホムセンで研磨剤を買ってきたけれど、あまり変化はなかった。

蛇口などもついでに磨いてみたらピカピカになったのはなかなかだったけれど、目的はあくまでも鏡なので達成感は実に希薄だ。

しかも研磨剤が何だか油臭いような灯油臭いような感じで、お風呂にはまったく不適切な残り香を付けてしまった。

”香“と書いたが、それは便宜上そうなだけであって、その意は“クサい”であるから勘違いしないでほしい。

クンクンしてうぇいな感じになりたがる趣味はないのだ。

しかしながら考えてみると、その匂いのせいで眠くなってしまったということも考えられなくもない。

何だかダルいかんじの匂いだったからだ。

自覚のないままついうっかり、うぇいな感じでハイな眠りについてしまったのかもしれない。

夢見はあまりよくなかったから、やっぱりうぇいな感じは個人的には好きになれない。

吉本のことばかりやっているから、というのもある。

アレはまじで眠くなる。

見るものも聞くものも仕出かすものすらも、いよいよこじれすぎたのかただお人好しすぎるだけなのか何なのか、もうすっかりワケわからない感じになりつつあるというのに何一つ笑えない、面白くないというのはもう完全に、電波という拷問でしかないような気分にさせられるのだ。

しかしながら一向に衰える様子を見せない世間の盛り上がりように、あたしは全く追随出来ずにいる自分がナマケモノスローロリスの類にしか思えなくなって、ついふて寝でもしたくなってしまったのかもしれない。

そうして寝て起きて、弁当を食べた。

はたして食べる必要があるのか? と首を傾げながら取る食事だ。

不健康極まりない。

まじでナマケモノの類かもしれない。

皮下脂肪と血中コレステロールばかりが加速的に増殖する予感がすごい。

あくまでも気分の話だ。

何しろあたしは“食事”という行為について少しばかりうるさいものだから、そんな気分のようなものばかりはつい過敏になる。

カロリー計算とかビタミンバランスとかそういうことではないのだ。

むしろ、そんなことばかりを正解とか健康とか思いたがるタチの人間のことがあたしはどちらかと言うとキライだ。

スーパーフードだの何だのというものは、鳥のエサみたいなものくらいにしか思っていない。

不謹慎発言かもしれないが、興味がないというのはそんなものなんである。

栄養素が豊富なムシも、バランスに優れた鳥のエサも、体に良かろうが何だろうが所詮食いたくないのである。

そんなものを見て食欲を駆り立てられてしまうのは、単純に人間が思いつくはずの欲求として何だかヤバい感じがするのだ。

そんなものばかりを理由に形成される蚊トンボみたいなスレンダーボディーとは、見方を変えたら肉体的な鬱症状のようなものとも思えなくもないではないか。

人間は本来、蓄えたい生き物のはずなのだ。

蓄えないと、死んでしまうからだ。

そんな人間本来の機能を毛嫌いしながら自分の体型ばかりに気を奪われて、ウットリしたまま食らうのは鳥のエサ。

そんな生活は所詮ヤバいような気がしてしまうし、単純にイヤなんである。

ナマケモノである方がまだ幾分かはマシなような気すらしてしまうのである。

それにしても何なのだろう、この悪どいような私怨の気配は。

まったく行き掛かりばかりでもなさそうな気配が、我ながら感じ悪いほどに反り返っているではないか。

 

 

この世は願望で回っている。

ダビンチかアルキメデスなのかよくわからないが、とりあえず自転も公転もあったものではないのである。

イカン、反り返る余りつい言い切ってしまった。

またしてもワケのわからないことを言い出してしまうが勘弁してほしい。

何しろそれはまったくの事実に違いないのだから、仕方がないのである。

そしてそれは実に、やるせないことでもあるのだ。

文明が発達すればするほど、人間というものは自転も公転もあったものではない場所以外で暮らす術を思いつきたがらなくなるものらしいのだ。

そもそも食事というものは、食べたいものを食べたらいいのはずなのである。

一日三食、お腹が空いたら食べたくなるものなのだ。

サラダチキン一本食い結構、からあげクンとメロンパン結構。

楽しく美味しく食べたなら、人間はそれだけでも十分に健康でいられるはずなのだ。

血の滴るステーキより、コンビニのサラダチキンバー。

わかるだろうか。

相変わらず極端なものの言い方しか出来ない表現トンマな自分が嘆かわしいが、言いたいことはつまりそういうことなんである。

スーパーフードとかいう鳥のエサみたいやつとプロテインばかり貪って、みちみちと縛り上げたようなスレンダーボディーをしならせつつパーソナルトレーナーと高飛車な笑みを浮かべるハードな執念も、それが望みであって満足であるなら結構なんである。

現在話題沸騰中の某会長社長のごとく焼肉と寿司とウナギだけで出来ていそうなドス黒い甲斐性を肥やしたってよかろう。

くりくりとして愛らしいどんぐり眼に誘われて“今日、ケンタッキーにしない⁈”でも、新進気鋭の爽快娘にアテられて“何というクチの快楽“でも何でもいいのだ。

あたしは週末の焼きそばとたこ焼きのグルテンコンボな夕食、流し込むように飲み干すビールの爽快さこそを信じたいだけなんである。

ただそれだけのことなのだ。

 

 

インスタグラムが何だかキライだ。

何となく馬鹿っぽい気がする、というまったく個人的でしかない疑いが一向に晴れないからだ。

しかも奇遇なことに、近頃どこかのニュースサイトで”流行りのSNSの中で一番人間をダメにするのはインスタグラムである“という記事を見かけてしまったものだから、一先ずあたしにとってのSNS空模様は一生曇天続きであること確定的なんである。

さりげなくインテリジェンスをまぶしつつどうでもいいようなことをさも上等な理論らしく吹き込まれると、あたしのような脳みそに隙間の多いタイプはまんまとその気にさせられて、何なら特定個人としてアタマをなでりなでりされたような気にすらさせられてすっかり有頂天になってしまうので、その刷り込みの頑丈さはなかなかのであるはずなのだ。

上等な刷り込みは、コンプレックスのエサなんである。

あたしなどはもはや、あらゆる一般常識に食わず嫌いのようなケチ臭さを持て余すことがむしろ、この一億総評論家と言われる無節操はなはだしいSNS文明に風穴をあけるラスト・オブ・モヒカンたる才能にふさわしいことを証明された気分で、すっかり満腹の自信満々なんである。

しかしながら、世の中もさるもの。

さらにその上をいく圧倒的馬鹿っぽさ、イヤ、あくまでも個人的な感覚としてということなのだけれど、それにしても強烈なやつが現れてしまった。

しかもそいつはもうすっかり世の中に浸透して、人々の承認欲求を鷲掴みにしてウハウハに儲かりまくっているらしい。

”妻が寝た後に大活躍するアプリ“なる見るものの劣情を露骨に弄ぶようなウェブ広告を殊のほか素直にクリックしてしまったその先にそいつが待ち受けていたとき、あたしは思ったのだ。

“ナメやがって”

ネットなんて所詮そんなもんだろ、などとズブズブにお世話になりながら一時の感情をキッカケにありったけの怨念を見飽きたような言葉に乗せて吐き散らしてしまう感じは近頃TVやネットでも話題沸騰中の某演技派タレントの擁護らしく便乗後出しジャンケンをやらかしまくるこれからの人たちを彷彿とさせる気がしないでもないので、あたしは静かにそのページを閉じただけである。

己の無力さくらい、死ぬよりマシだ、くらいには知りまくっているつもりなんである。

TikTok

ヘンな名前である。

名前から完全にはしゃいでいる感じが尋常ではない。

もはや疑わしいを通り越して、意味がわからない領域の予感である。

アプリ本体で眺めたことがないのは、インスタグラムと同条件である。

しかしながら、はっきりと馬鹿っぽいらしく予感せるそのインパクトの軽薄さはもはやインスタグラムの比ではない。

ときどきウェブ広告の小さなウィンドウに現れては、全然知らない女の子が手先の動きばかりでちみちみと踊っている。それはそれは楽しげに。

一体誰だ、あなたは。

そんな敵は大概可愛らしいのだけれど、それにしても疑いの的としては十分なんである。

二十四時間で消えるとかそんなことより、まったくのケタ違いに誘惑的かつ誘いに乗ったら人間終わる感が尋常ではないのである。

そこはかとなく生活感の漂う自室を背景に、可愛らしい少女がときにコミカルに、ときに扇情的に、どこかで見かけたようなダンスを、15秒の期待を繰り返している。

もしこの子があたしの彼女で、もしコレをぐうぜんみかけてしまったら、……イヤだなあ。

にべもなく思ってしまうのである。

 

 

この世は願望で回っている。

何度も言ってしまうが、それは疑いようもない事実なのである。

事実でないのなら、いくらバランスがよかろうが、栄養素が豊富であろうが、人間はわざわざ鳥のエサみたいなものなんか食べたくないのである。

では、なぜ食べてしまうのか。

格好良くなりたいから。

それを食べれば、格好良くなれそうな気がするからなんである。

そればかりか、そんなものを積極的に食べたがってしまうことからすでに、何だか格好いいことをしている気がしてしまうからなんである。

ともすると、結果すらどうどうでもいいかもしれないんである。

スーパーフードを食べている。

それがすでに、手応えだったりしてしまうのかもしれないんである。

その気になったもの勝ち。

結果はその人なりに、パーソナルトレーナーと満面の笑みでインスタで映えたり、ただ鳥のエサを食っただけだったりする。

悲喜こもごもなんである。

あの手先ばかりのヘンな踊りは、一体誰が始めたものなのか。

そんなことより何より、それを誰よりも可愛く、可笑しく踊ることに人々は必死なんである。

ヘン顔も辞さない覚悟なんである。

全ては願望がさせることらしいのである。

鳥のエサみたいの食って、キレイに格好良くなった人みたいになりたい。

鳥のエサみたいの食わねば。

流行りのダンス超絶可愛く踊ってあの子みたいに投げ銭ジャブジャブになりたい。

ヘン顔すら可愛くならねば。

願望恐るべし、なんである。

 

 

しばらくタピれそうな気がしない。

おっさんには不適切な語彙を迂闊に引用してしまったやっちまった恥ずかしい。

つまり、しばらくタピオカを手に取る気にはなれそうな気がしないということを言いたかっただけだ。

おっさんの手にタピオカという画がそもそもイレギュラーバウンドも甚だしいことは承知の上だが、杏仁ミルクのやつが好きなんだから許してほしい。

土曜日の朝、仕事前とかに飲むと何だか頑張る気になれるのだが、高いから自分ではなかなか買う気にはなれないので、これを見ている人は既に相当優しい人に決まっているので、優しいついでに奢ってほしい。

ハサミの動きが一味違ってくるかもしれないので、何卒よろしくお願いしたい。

タピりたいけど、タピれそうな気がしない。

それはその場しのぎらしくつい、“吉本、いよいよ何だかワケわかんないですね”などとお客さんに言うだけむしろ空気を冷ややかに墜落させてしまいそうな予感に怯える感じとほとんど変わらない気すらしてきているのである。

何しろあたしは、前回の記事にも書いた通り、件の事の次第にはまったく興味がなく、むしろ当事者である某方個人から察してしまう“胡散臭キャラ”についてアレルギーを嗅ぎつけてしまうだけなので、世論的ツイッター感情にはまったく組みせないでいるものなんである。

つまり、吉本も所詮タピオカと変わらないような気がしているんである。

吉本が今日もアツい。

アツすぎて、タピれない。

個人的にはまったく理屈が通っているのに、何だかひん曲がっている。

おかしな気分である。

もちろん、あくまでも個人的な見解である。

”宮迫芝居“も、“吉本クソすぎ”も、タピオカなんである。

その印象は、ここ数日間の話題を経て現在に至りながら、なお色濃くなるばかりなんである。

大平サブローさんも、池乃めだかさんも、ぜんじろうさんもタカアンドトシのタカさんもそれぞれの言い分であって当たり前なのだけれどあたしには何一つ関係なく、加藤浩次さんはいつだってイカした男であることも、清水圭さんが地味に己の程度に自らダメ押ししてしまった感じであることも、やはりあたしには何一つ関係ない。

今日もグッディで島田洋七さんが会長より歳上というスタンスに恥じない場当たり的威厳を惜しみなく発揮されていて、心臓がバクバクするとすかさずフォローされていた安藤優子さんの方が面白かったりもしていたのだけれど、結局のところさりげなくツイートされていた武井壮さんあたりが的確に指摘されていることに全てが尽きてしまう感じてしまうことが番組サイズでマヌケさを浮き彫りにさるようで、何だかつまり、タピオカなんである。

所詮、タピりたいだけみたいなんである。

あくまでも個人的な観測に過ぎないのだし、随分と勝手なことを言っていることくらいは承知している。

単純にあたしは、件の会見での有り様がキライなんである。

五時間の方ではなく、二時間の方である。

 

 

反社から受け取ったことがそもそもの争点。

嘘をついたことこそが糾弾に値する。

反省しているものに圧力を掛けるなど言語道断。

経営体質、業界体質。

歴史、背景、世代。

一番の悪は、反社。

 

 

みんな正しいのに違いなさそうなのだけれど、正しそうなだけで、実際の世の中は投票率50パーセント以下なのだ。

いきなりハナシが飛んでしまっただろうか。

残念ながら、あたしにはその意識が少しもないのである。

正しいことを、みんな言いたがっているみたいなんである。

あたしが毛嫌いしている某氏も、その横で人柄丸出しでベソをかいていた某君も、滑舌も言質もぼけっとした某社長も時代を作り頂点を極めた某会長も、後出しジャンケン呼ばわりも致し方なさそうな某諸君らも、みんな本音で正しいはずなんである。

かたやTVを見るもの、SNSで投下するもの、リプライで声援を送るもの論破したがるもの、それぞれもみんな本音でそれぞれが思う正しさのようなことに従っているもののはずなんである。

 

 

この世は願望で回っている。

勝手なことを言っているみたいだが、やはりそうとしか思えないんである。

自転公転は太陽でもお月様でも何でもいい、とりあえずのところはお任せなんである。

科学や真実なんてことよりも先に、この世は願望を満たすことに忙しいんである。

言ってしまうと何だか、身もフタもないハナシのような気がしてきてしまうのは残念なことだ。

当事者には当事者だからこそ持てるそれぞれの正しさがあって、それは願望の如く一線を超えて声になるらしいのだ。

池乃めだかさんがおっしゃられたところの「吉本には背の高くなるクスリを発明してほしい」が、あたしにはやるせなさという本音の全てが詰まって感じさせられるのだ。

大平サブローさんの「こいつらふぜいが」は気持ちはわかるけれど時代的な齟齬も感じないでもないのだし、だからと言ってそれに対して揚げ足を取るような言い草にこそ正しさなどはあり得ない気がしてしまうのだし、ぜんじろうさんやその他普段からはなかなかものが言いづらそうであるまだまだこれから上って行こうという芸人さんたちの言葉に尽きないような皮肉ぶりには虐げられた思いを抱えているらしいからこその正しさを感じないでもないのだ。

けれど、あたしがつらつらと今書きつらったことは所詮何の意味もなく、当事者である人々にとっては憶測で語られるだけの田舎の選挙みたいなものでしかないはずなのだ。

つまり、SNSなどというものは所詮そんなものを映すだけの鏡のようなものでしかない、という個人的雑感や俯瞰において、“某氏の胡散臭さ”というその一点において、あたしは連日報道されている件の動向にまつわるSNSという世論らしき正しさのフリ、無責任で馬鹿馬鹿しいだけのその有り様を何よりもまず自戒を込めて信用したくない思いでいるのである。

 

 

ついでらしく軽薄なことを言ってしまうなら、この件について芸人だけれど芸人としてばかりではなく他の分野でもめざましい活躍をされているような方に限って、コメントは愚かツイートすらしない傾向であることが、皮肉にもこの騒動という時代性や程度領域のようなものを示している気がしないでもない、などと個人的には思っていたりもするのである。

そんなことを捕まえて、純粋だの、要領だの、才能だのと言い出してしまったら、誰よりもツイッターに張り付いていたり、長々とブログを書き散らしてしまうただの何者でもない人間が真っ先にクソでしかないことが証明されてしまうのがオチなので、せめてでもあたしはあたしなりに自覚していたいつもりではいるのである。

マスメディアのやりくちや、それに常に反応してしまう真に受けてしまう世間という旧態依然としかいいようのない構造、らしく見えがちな感じに少々疲れてきている。

多分それは私ばかりのことではないはずなのだ。

あたしは端から“某氏の胡散臭さ”ということだけを貫いているから、自分で言うのもアレなのだけれど、まだマシな方ではあるはずなんである。

所詮そんなことを言わずにはいられない程度において、と言うことでしかないのだが。

気まぐれの如く容易くひっくり返るような景色に逐一心を揺り動かされていては堪ったものではないのだ。

それはもしかしたらあたし自身の“願望”が思わせることなのかも知れなくて、確かにあたしは件の報道やそれにまつわるコメントやツイートに、逐一イライラし続けているらしい。

我ながら不器用な願望であることに呆れてすぎて、もはやクタクタといった次第である。

この連日の報道のような事態の陰にあるものが常に陰謀であったりまやかしのようなものばかりであることを意識すること以前に、世間はそれぞれの恐るべき“願望”に付き従うことばかりに忙しいらしく、それはごく個人的な身近で手軽に掌の中で全て完結してしまう類の欲求、“誰もが発信者になれる“という何とも魅力的で欺瞞に満ちたワードも今や使い古されてまんまとインフラ化したらしく情報の上っ面を埋め尽くす便乗というお手軽なそれぞれの自足の為のプラットフォームに成り果てて、今や世間は陰湿で傲慢な評論家で溢れ返っているらしいのだ。

それぞれがそれぞれの”願望“に毒されて、毒されてもなお便乗して紛糾して、そんなこんなを強かに面白可笑しく遥か上空から見下ろしているケタ違いの“願望”の持ち主にすら、そんな存在にすらいつか幾分かでも届きそうな“願望”を滲ませて求めるらしいのだ。

“いいね”は、そんな印に違いないはずなのだ。

 

 

加藤浩次さんの鋭く勇ましい様も、明言を避ける強かな時代の流れも、どちらが正しいなどと言うことは言える気がしないのである。

何しろあたしには、所詮見るだけのものには、何も関係ないのである。

負うものも、守るべきものも、期待されることすらも何もないものが、与えられただけのその他大勢というプラットフォームでどんなに正しそうなことを言ってみたところで、“いいね”がせいぜいなんである。

 

 

人間の仕出かすこと、仕出かしてしまうこと、立ち向かうこと受け止めることも全て、その理由や理屈のようなものは当たり前らしくもっと別の、ふさわしい場所にしかあり得ない気がするのである。

ただTVやネットで眺めただけの人間が言いたがることなんて、正しさは愚か、事実に適う理由も理屈も持つわけがないはずなんである。

あたしが一貫させたがる“某氏の胡散臭さ”なる考えももちろん例外ではなく、あたしの“願望”を担保するためのごく個人的な理由で理屈でしかなく、負うものなど何一つないただの戯言に過ぎないんである。

歌を唄っただけで100万円になるような人物について、何かしらを決定できるような理由や理屈など、持つはずがないのである。

ただの“SNS”という、所詮マヌケなだけの誤解に過ぎないんである。

 

 

 

人間は誰しもが“願望”という寄生虫を腹に住まわせているのに違いなく、一つ間違えたらあたしのようなタイプは宿主ながら虫に食い殺されかねない気がしないでもないんである。

我ながらおっちょこちょいで困ってしまうのである。