アラズヤ商店

日々のナマキズ

自由主義ではない。主義が自由な感じになってしまうのだ。

自由すぎて、困っている。

朝っぱらからツイッターに張り付いて、気になったリンクの記事を片っ端から(というほどでもなのだが)読み倒しているうちにノンストップが始まっていた。

相方の日村さんも出演することが番組冒頭に告げられて、“ヤバい、そんなの面白くないはずがない。観たい。観たいが、観てしまったら午前中はほぼ終りだ。そんな暮らしは、人として終わっている“と一瞬のうちに当たり前すぎる逡巡にぶち当たって、汗が噴き出た。

何故なら、あたしは単位でコントロール出来る程度には優しげな身分に棲息する高校生などではないからだ。

 

今日が休みでも何でもない、普通のただの社会人なんである。

 

どうだ、我ながらなかなか最低な感じではないか。

三年ぶりに本業に復帰してから一週間の身である。

何の宣伝も告知も仕込みもなく、いきなり復帰してしまったせいでほとんど仕事がない。

完全なる戦略ミスである。

お店のツイッターアカウントで既存のお客さんには告知済みだが、思わしい反応はほとんど得られていない。

もしかしたら、嫌われているのだろうか。

自分で思っているより、だいぶ嫌われ者なんではないだろうか。

そう思うと、何だか自意識過剰な人みたいでちょっと恥ずかしい。

子どもの運動会で張り切りすぎてアキレス腱を切ったことを生涯ネタにされるお父さんみたいじゃないか。

そんなのは御免だ。

焦りやら不安は尽きないんである。

 

 

昨夜、今シーズン初めて、いや二度目かもしれない、扇風機を回したまま寝るような寝苦しい夜を過ごした。

あたしの住まいにエアコンなどという贅沢品はないのだ。

“贅沢品“などという呼ばわり方が何だか”三種の神器“的な感じでアレだが、扇風機から見るエアコンはどう捻じ曲げようが屁理屈をこじつけようが、所詮贅沢品であることに違いはないんである。

暑すぎて死にそうな思いをしなければならない水準で今年もサバイブせざるを得ないあなたならわかってくれるだろう。

今年もようやく梅雨明けである。

海にもプールにも行かず、わざわざ野外で焼き過ぎのカタい肉を食いたがる趣味もない人間にはこれっぽっちも嬉しくない知らせだ。

日本のド真夏の夜は、ベランダに出た方が涼しいものなんである。

涼しい〜、と唸る場所はベランダであるべきなんである。

ビールも一味違うんだぜ。

 

 

だからというわけではないが、昨夜はやたらに蚊に食われたのである(これはまじで今シーズン初)

左足の人差し指と、左のヒジの先のやつがすげえカユい。

まったく人を馬鹿にするような子どもじみたカユさだ。

足の方は朝のうちに気づいたのだが、ヒジのやつはさっき気付いた。

気付いてしまった途端、ものすごいカユさなんである。

もはや謎なくらいの痒さだ。

ちなみに半袖嫌いのあたしは今日も長袖のデニムシャツなので、今さっき刺されたとかそういう可能性はナシだ。

服の上からでも刺したいような強烈なヤツならたぶんすごい羽根の音とかしそうだから、さすがのあたし(突難やってて耳がボロい)も刺される前にムカついて撃墜しているはずなんである。

傍らにある布巾か何かで。

これはあたしの勝手な想像なのだが、“カユさ”の原因は蚊が吹き込んだ唾によるものらしいが、“カユい”の原因、つまりそれを感じるスイッチのようなものは人間側にあるのではないか、といことだ。

何を当たり前のことを、と思ったあなた、あなたは人生の何かをムダに見過ごしてしまっているかもしれない。

何故なら、蚊の唾が人体に侵入するとカユくなるはずなのに、それに気付かないうちは痒くなかったりするんである。

そこのところなんである。

つまり、“蚊の唾”と“刺された”という認識が連動して初めて、人は“カユい”と認識するらしいんである。

人間が最終的に“カユいスイッチ”を押して、痒みを稼働させるのである。

因みに左足の方は痒さで気付いたので、まったく全てというわけではもちろんなさそうでもあるのだが。

単純な人体観察、その道草考というハナシでしかない。

しかしながらあたしはそんなことだけでビール一本美味しくいただけるし、まるきり退屈というわけでもなさそうなのだ。

何ならこうしてくだらない文章まで書いている。

人生の何かが何なのかは知らないが、とりあえずムダにはしないんだぜ。

 

 

お店でも日中は基本扇風機なのだ。

もちろんお客さんがいるときはそんなことはないから馬鹿にしすぎには注意してほしい。

この春にメンテナンスをすませためっちゃデカいエアコンがある。

音も静かになって驚いている。

知らなかったが、二年くらいはぶっ壊れたまま使い続けていたらしい。

暖かくも涼しくも一先ずは普通に動作していたので、壊れていたと言われてもイマイチよくわからないのだが、そうらしいのだ。

今年の春先に冷房設定でも温風が出るようになって初めて気付いたのだが、“壊れる”とはそういうことを言うのではないのか。

プロに言わせると、そんなことばかりでもないらしいのだ。

プロとは、恐ろしく真面目な世界だということをまざまざと見せつけられるではないか。

スパシーバ。

何故急にロシア語なのかはわからない。

けれど何だかとても心が洗われるような気分である、ということなのだ。

とても静かに稼働するようになって嬉しい。

まったくのおかげさまなんである。

 

 

今どき玄関を開け放って扇風機がグルングルンしている商売処なんてあるだろうか。

もしかしたら現存するのはもはやさくらももこさんによるまるちゃんの世界くらいのものかもしれない。

我ながら駄菓子屋とか、文房具屋とかそんな感じに近いユルさだと思う。

むやみに子どもばかりがウロウロしている感じだ。

何なら、そんなユルさこそを楽しんでほしいとすら思っている。

だからと言って中学生以下はお断りさせていただいていることはご愛嬌である(ジッとしていられるならそればかりでもない)

何ごともそうなのだ、あたしは”足りないくらいがちょうどいい派“なんである。

懇切丁寧とか、上質で快適とかそういうものは差し出したいとは努めるけれど、求めて当然みたいにされるのは何だかアレな気がしてしまうんである。

我ながらそれはもはや主義の領域にあると自負するほどのタチの悪さなんである。

しかしながら心配は無用だ。

お客さんの予約時間が近づけば先んじてエアコンを稼働させて、涼やかにお迎えさせていただく常識くらいは当たり前に備えている。

暑苦しい中でハサミを振るうなど、まっぴらゴメンなのだ。

クロスの中のお客さん自らの汗臭に怯えさせるようなことがあっては、商売はお仕舞いなんである。

 

予約は一時間後である。

そろそろ”贅沢品“の出番なんである。

あたしくらいに”派“的実践に秀でていると、その贅沢感は格別なんである。

やはり足りないくらいの方が、何ごとにも風情をもたらしてくれるものなのだ。

 

お客さんが足りないのは主義でも風情でも何でもないので、ごちゃごちゃ言いながらもホイホイと出掛けてほしい気持ちではいるつもりなんである。

所詮いろいろ足りないんである。