アラズヤ商店

日々のナマキズ

正しいことに行列なんていらない

隅田川花火大会の“スカイツリー爆破ネタ”がプチバズっている。

ヘシ折れコラとかゴジラコラとか、リプライも手が早くてめっちゃ面白いのである。

 

面白いのである。

 

面白いのだけど、“プチバズ”に留まっていることにわたしたちはとても敏感な時代に生きていることを意識せざるを得なくさせられるのである。

twitterにはあたし自身も含め、馬鹿な人属性の住人がその大半を占めているとかねてから思っている。

自分も含めて、とご挨拶にも抜け目ないのだから怒られるいわれはないので怒らないでほしい。

そもそも、“あたしは馬鹿ではない”などと激昂する方が人としてむしろアレな感じではないか。

だから馬鹿な人たちには怒らないでいただきたい。

 

我々は知っているのである。

大きな建物が、たとえ冗談でも爆発するような景色を“面白い”などと安易に一笑に伏してしまうことの無防備さを。

その危険度を、ということだ。

言うまでもなく、誰もが連想せずにはいられないワンシーンがある。

9.11 

ことの経緯や背景、如何様ともかたられるその真偽については知る由もないけれど、あたしのようなぶっ壊れた人間ですら、人類の一人として抱えるべき痛ましい記憶だと思っている。

何だかいきなり真面目なことを書いてしまったが、実は昨日は酔っ払ってしまったせいで面倒臭くてお風呂に入っていないため、アタマの右側頭部辺りが地味にカユい。

そんなことをちみちみと慮りながら“9.11”とか言ってしまっていることをご了解いただきたい。

大半の方だ、とさっき言ったばかりではないか。

このブログは所詮そんなテンションなんである。

もちろん悪気はこれっぽっちもない。

“悪気はない”などと言う奴に限って超ド級サイコパスだったりするから、我ながら何とも言いかねるところではあるのだが。

 

 

”その割合”ということなのだと個人的には思っているのだ。

スカイツリー爆破花火”

その画像を見て、誰もが瞬時に連想する、例のやつだ。

よく出来た画像なんである。

笑いとtwitter的称賛に値する優良なネタ画像なんである。

しかしながら、なのだ。

不用意に笑っては軽率、シリアスに言い淀むも野暮、という何とも微妙で慎重な空気の狭間にそのプチバズは生まれたものと思われるのである。

まったく個人的な憶測に過ぎないのだからまんまと真に受けないでほしい。

あたしはただまったく個人的に、twitterにおける安っすい良識とか正義という機能とか現象のようなことについての見識を述べているだけなんである。

わかるだろうか。

例えばこれを“爆破”と見ずに、“ロケット打上げ”と見たならその理解はまた別のものになっていたはずなのだ。

ホリエモンロケット”ならまだいい、果たしてどんなコラが貼られることか、サブ垢ですらフォロワー2桁というセンスのあたしには想像もつかない。

あるいは”テポドン“とか、誰か一言でも呟いてしまったものなら瞬く間にネトウヨによるヘイトなクソリプで埋め尽くされてしまうのかもしれない。

そんな感じのことを言っているんである。

書きながら自分でも何を言いたいのかよくわかっていないのだが。

 

 

twitterの世界にも、リアルに近い逡巡は存在するはずなんである。

むしろtwitterだからこそリアルどころではなくその発言に慎重にならざるを得ないところもあるはずなのだ。

しかしながらあたしは思うのだ。

殆どの人間のそんな逡巡なんて何にも伝わらねえよ、と。

何しろ気を遣うんである。

しかしながら、ほとんどのツイートはバズらないどころかエンゲージメントもそこそこのままタイムラインに流れて消えるばかりなんである。

逡巡? 一体何のこと? 

なんである。

しかもそんな疑問は粛々と自分の身に返るばかりなんである。

結果、有名人のツイートをリツイートしていいねやエンゲージメントを獲得することに一喜一憂するのが関の山となるんである。

それが大方普通であり、押し並べて良識とされる正義のようなものがさせることとすら思うのである。

 

 

ここのところ、話題に尽きないではないか。

選挙、吉本、京アニ吉田豪、etc…

適当なことを書いてしまった、吉田豪は個人的に好きなだけだった。

それにしてもtwitter界はおしゃべり放題である。

放題なのか、潮流らしくその都度のレイヤーがすくい上げられているだけなのかはわからないが、一先ず論調の向きの正体は掴み難い。

先の吉本の件など、世論の”掌返し“のようなことが言われがちではあるけれど、それは本当なのだろうか? と疑わしく思うところがないでもない気も個人的にはしている。

あたしは先のブログにも書いた通り、初期の段階から”宮迫くん胡散臭え“という立場を貫いているので、ことの次第を眺めていてもその理解の性質は終始一貫してブレることはない。

ブレることはない、などといった言い方をしてしまうと何だか威張っているような、見栄を張っているように受け止められなくもなさそうなのだが勘違いしないでほしい、恐らくそれはあたしばかりのことでもなさそうではないか、といったことをあたしは言わんとしているらしいのである。

 

 

“一人で死ね問題“である。

ご存知だろうか? 

昨日の朝の情報番組における橋下徹氏の発言による案件だ。

早くも沈静化しつつあると見られるその案件について、あたしは昨日からどこという訳でもなくしかしながらどこか鬱々とした気分を引きずっている気がして仕方がないのである。

だからといってそんな感覚は、これが初めてということでもなさそうなことこそ明らかで、あたしはいっそのことこの度々遭遇するらしい“そんな感覚”なるものに敢えて名前をつけて、この鬱々としたような気分に確たる認識を与えたいものだ、などと企むに至ったのだ。

ブログネタも大して思いつかないことだし丁度いい、などという打算も含めて、昨夜から何だかそわそわしていたのである。

もはや鬱々どころではなく、まんまと躁鬱爆誕である。

我ながらコントロールが奇抜過ぎて、いつくじけてもおかしくない状況ですらあったかもしれない。

しかしながらそこはやはり、あたしはブレないんである。

民度酔い“

くじけずに考え続けた結果繰り出した答えだ。

民度酔い”

イマイチだろうか、しかしながらあたしにはどうにもこれ以上の言語表現は思いつけそうな気がしないんである。

民度酔い“

繰り返さずにはいられないところを見ると、案外気に入ってしまっているのかもしれない。

しかしながらつまりそうなのだ、確かに何だかこう、酔っ払っているような印象を受けてしまうのだ。

丁寧で、でもどこか呂律が回っていないような、日常にはあり得ないような気前の良さに押されたらしい過剰さ。勇敢さ。張り出し感。

つまりやはり、“酔っ払ってる?”なんてつい問いかけずにはいられなくさせる、ガラ空きみたいな背中の気配。

あたしはそんな“雰囲気”に、どうせ引っかかってしまうのに決まっているのである。

 

 

情勢は、どうやら橋下劣勢のようなのである。

あたしは自らの立ち位置をやはりまずは表明せずにはいられない性分なので、明らかにしておこうと思うのだ。

あたしは当初より、“橋下派”だ。

言わなくてもバレバレみたいな文脈ではあるのだけれど、いちいち言っておくのである。

そしてこの件ににおいてもやはり、“宮迫のゲス打ち会見”同様、情勢とはまたしても天然の逆張りなんである。

ネタでもわざとでもなく、率直な感想としてこうなってしまうだけなのでこれは最早どうしようもないと言わざるを得ない。

どうしようもないのか。

少しだけツラい。

“一人で死ね”発言を糾弾する声は、どれもこれももっともで、とても正しいのだ。

あたし見たいのが読んでも納得できるのだから、それはもう圧倒的に正しくないはずがないんである。

読めば読むほど、どの意見も正しいのである。

けれど、あたしにはその連なるようにタイムラインを埋める“正しい”が、宮迫田村称賛ツイと少しも変わらない位置から発せられている気がして、どこかやはり演説じみて聞こえてしまうんである。

twitterである。

twitterでの出来事なのだから、同じ位置に決まっているのである。

あたしは一体何を言ってるのだろうか。

しかしながら、そういうことなんである。

あたしは馬鹿なので、そういった違和感のことを”酔っ払っている“などとしか表現できずにいる気がしているのだ。

ならば、twitterとは何ぞや。

まったく馬鹿みたいな問答である。

レベル厨二である。

レベル厨二が、twitterにおける”正しい“を、”酔っ払っている”と呼ばわるには恐らく愚かしいまでの誤解がすっ転んでいないはずはないんである。

 

 

恐らく人とは、人の本音というものは、演説のようには喋らないものなのではないのか、などと考えてしまうんである。

つまり、”演説じみている“というあたしの所感は、はっきりとした対立の意思のように思うのである。

以下、“一人で死ね”発言について反論を察しての橋下氏自らの意見の抜粋である。

 

“社会で支えるいろんなシステムを作ることは当たり前なんですよ。

でも最後にどうしてもという時は、自分の命は人に迷惑を掛けずに自分で絶てと、そう教育したからと言ってこの犯人が止まるとは思いませんよ、でも社会でそういうことはしっかりと言い続けるべきだと思いますよ。こんなこと人を犠牲にしてね、どうするんですかそれで。ダメだダメだといい続けなければね”

 

生意気なことを言えば、何も明確な論拠が示されている様子でもないし、その論調こそ時代錯誤であるようにすら感じさせられるのだけれど、何故かあたしはむしろ、その論拠のなさ、暴論じみた気配にこそむしろ根源的なただしさを想像してしまうのだし、理屈抜きで当然として突き通らなければお話にならないことを背負って意見されているという印象を、どうしても受けてしまうのである。

最後に橋本氏はこうもおっしゃられている。

 

“自分の家族や子どもたちがやられたことを考えたら無念なんか晴れませんよ。絶対にこんなのは許しちゃいけないですよ”

 

誰もがそう思うのだし、それ以上ない当然の気持ちなんである。

個人的にはそれ以上に心を傷ませる理由など見当たらないのだし、その重さに比肩するものなどあり得ないと、何の疑いもなく思ってしまいたいんである。

けれどそれだけでは足りないらしいのだ、世間というものは。

twitterを眺めていると、“一人で死ねということが犯罪の防止になるのか”あるいは“言葉の暴力”といったもっともな意見から、“彼一流のやり口”のようなそもそもバイアスの掛かった意見まで、質や方向性は違えどもその意思は一先ず反橋下という意味では一致したものが大半を占めているようなのだ。

正確にはわからないが、ざっと眺めた印象ということだ。

社会全体で受け止められる仕組みを考えるべき、なのだそうだ。

もちろん、それがまったくわからないなどと言うつもりはないんである。

それがなければ、この先にも起こりかねない理不尽な出来事はさらに止め処ないものになってしまうことくらいは、何となくわかるのだ。

けれど、あたしは単純に感情を裏切れないことにこだわりたくなってしまうらしいんである。

思いつめた人を受け止めるのも結構だ、けれど、実際はすでに信じ難い数の夢や大切な命が奪われて、その家族や知人友人など多くの人たちの心や人生が引き裂かれてしまったのである。

あたしはぶっ壊れた人間だが、ぶっ壊れていてもいいので優先順位は存在するべきなんである。

何だか、酔っ払ったような事態にしか見えなくて、やるせなくなるのである。

あたしが酔っ払っているだけなのか、確かにゆうべは飲み過ぎてお風呂にも入らないような始末だったことは確かだから、あたしこそ自らの言質に慎重を期さねばなるまい。

いや、大して読まれてないこんなブログだからこそ、そんなしゃら臭いような見栄こそ酔っ払い甚だしいはずなんである。

 

 

橋下さんは、人間感情という大前提の話をしているのに過ぎないのではないのか。

もちろんそれは理屈よりもさらに奥の深いところを抉る、欠くことの出来ない基本的な人間のハナシに違いないはずなんである。

twitterに連なる“正しい”意見の見つめる先は、“社会”ではないのか。

だから問題無く正しいのだし、橋下氏も恐らく否定するところではないはずなのだ。

あたしは勝手にそう思っているということだ。

公共の電波なのだから、社会的な目線で話をしなくてどうする。

それはもっともな指摘なのだ、あたしでも理解できるほどの。

けれど、それを敢えてまたいで人間という前提として差し出されたはずの感情論を、暴論と決め付けてて誇張して社会性を振りかざして対峙するという態度は、公共の電波においてなされる論議としてその理解や思考は果たしてどれほど正確なものなのだろうか。

強いては一体、何に対しての正確性を担保するべきとしてなされたものなのか。

 

 

あたしは事の正否のハナシをしているつもりはないので、見る人が見れば大層アタマがおかしいようなことを書いているのに違いない。

けれど、あたしは何だかやはり、”人間“を軸にした話が好きで、信頼できる気がしてしまうのだ。

山本太郎氏は、政治の話ばかりをしてあれほどの瞬間風速を生み出したのだろうか。

少なくとも、彼の名前を書いて投じたあたしはそればかりではないことを知っているのである。

とても乱暴なことを言ってしまいそうなのだ。

何しろあたしは生活費の足しに散々キャッシングしまくっていたようなスカポンタンである。

根が乱暴なのだ。

だから言ってしまう。

“一人で死ねなんて暴論だ、言葉の暴力だ、社会全体で救える方法を考えるべきだ”なんて、あの現場で、被害者家族の前で、言えるだろうか。

それが“正しさ”として“社会性”としてまかり通る主張だと、信じ切れるだろうか。

あたしは秒で決断できる乱暴者なんである。

そんなこと、建前でも言えるわけないのである。

橋下さんは、正義や社会や常識のような話の前にある、“人間として”という感情を見過ごせるはずがない、ということをお話しされたのではないのか。

“公共の電波”を理由にしたがったところで、そんなことで人の心や気持ちは動かないのではないのかと、そういうことの方が余程大切なような気がしてしまうのだし、何より“正しい”の第一義は動きださないような気がしてしまうのである。

 

 

twitterの大半の意見はそうではないらしいのだ。

あたしは乱暴なので、あの犯人の命を何としても取り留めて、謝罪の限りを尽くしに尽くさせてから生きたまま焼き殺してやるべきだと普通に思ってしまうものなんである。

だからと言ってしまえば身も蓋もないことかもしれないが、twitterに連なる大半の意見がまったく正しいのであっても、それがいったいどんな根拠から発せられてるものなのか理解するべきとは思うのだけれど、信用できそうな気は少しもしないのである。

 

 

あたしはこれまでもずっと、多数決で常に負け続ける人生なんである。

だから宮迫さんを支持する気にはなれないのだし、橋下さんが間違ったことをお話されているとは到底思えないのだとしたら、あたしに“正しい”なんてことが理解出来るはずはないんである。

 

 

まったく酔っ払ったようなハナシなんである。