アラズヤ商店

日々のナマキズ

ナイトシフトする能年玲奈は行列に埋もれない

すっかりいい歳だというのに、朝起きて洗面所の鏡の中で出くわす自分の顔はアゴのあたりにみすぼらしい吹き出物をこさえていたりする。

あくまでも“吹き出物”なのであって、“ニキビ”とは呼ばないらしい。

何かのCMで“大人ニキビ”なるワードを見かけたこともあるが、本名に修飾的なものが加わる類のものはすべからく逃れられない“本名”というほぼ無意識に近い感覚で存在する正体のようなものからは決して独立出来ない、独立したアイデンティティを認められていないものであることがほとんどであったりするから、誠に気の毒のような気もするにはするのだけれど所詮“ニキビ”という本名に仮託する“何者やねん”といった疑わしさはやはり拭いきれないのであって、つまりあたしはそんなまったく個人的な所感に基づいて“吹き出物”なる情け容赦のない分断する事実という決定を粛々と受け容れるしかないものなんである。

 

 

我ながら、のっけから読者を追い帰すような詰め込み具合が絶好調である。

コクとゴミの狭間にあるような豚骨スープの煮込み具合いわんや文字の詰め込み具合、似非頑固親父的取っ掛かりの麺はバリカタである。

顧客満足度“などという良識の夜明けはまだまだ遠く、遠いどころか暖簾の内で煮詰まり続けて夜明けを待たず廃棄処分になりそうなんである。

 

 

夜明けは、遠いんである。

もはやそんなことは明らかすぎるほど明らかで、何ならそんなもん一生やってこない気すらしているんである。

もしかしたら、夜行性に化けたのかもしれない。

いやそんな人聞きの悪い、夜行性に進化したというべきところではないのかそこのところは。

近頃は多くの野生動物たちが人間の行動を警戒して夜行性へとその性質を変化させつつあるという報告もあるらしい。

ディスカバリーチャンネルのやつだから信憑性はそれ相応だろうと高をくくってシメシメとあげつらっているんである。

”ナイトシフト“というのだそうだ。

動物園ならそのまま“ナイトサファリ”である。

そう思うと何だかものすごくお節介なことをしているような気がして、僭越ながら人間代表として動物たちに申し訳なくなってくる。

動物たちだって、プライベートは大切であろう。

食いたいもの好きに食って、寝っ転がって、暗がりであんなこととかこんなこととか。

そんなことこそ余計なお世話であろうか、そもそも彼らにとってのあんなこととかこんなことは、子孫を残すための行為なのであって、とつまりハッキリとそんなことを意図しているらしいことを白状してしまっているのだがそういうことなんであって、人間の日常的なそれとは何だかその性質の清潔さはもはや別ごとと言っても過言ではない気がしてきてしまうとしかし、人間は無自覚のうちにもハシタナイ生き物であることよ、などといった気分にさせられなくもない。

ただのモグラ気質ということにでもしてしまおうか。

そんな言い方ももちろんモグラに失礼なんである。

身も蓋もないようなことを書きながらくだらないことしか思いつけないあたしはいつかも述べた通り、モグラというよりはナマケモノ寄りの人間なんである。

やっぱ夜行性かよ、と。

相変わらず寝ることばかりが心のエサの甘あまちゃんなんである。

あまちゃんと来て思い出した、“のん”こと能年玲奈

吉本問題に当てられて、近頃都合ほじくり返されがちな“のん”こと能年玲奈ちゃんの本名問題とか、何だか未だに基本スルーみたいなこの空気は一体何なのだろう。

むしろこのタイミングでこそ、と手を差し伸べて起用するのはCAMPFIREの家入一真氏だけなのだろうか。

何しろ、本名なのだ。

仮託したものなどではないのだ。

一体どうなっているというのだ社会は。

うお、勢い何だか偉そうな口調になってしまったヤバいダサいツラい。

しかしながら何だか遠巻きに眺めているだけでも苦しいではないか、彼女の名前は彼女であって記号でもアイコンでもない、彼女がこの世に生まれて一番最初に手に入れたアイデンティティではないのか。

両親から授かった人生最大にして最重要の“自己同一性”ではないのか。

悲しい。

彼女は彼女であるのに、人目に晒された瞬間に彼女であることを奪われてしまうのだ。

“一人で死ね”糾弾者諸君、どうか彼女にも社会全体で救うアクションを授けてあげてほしいそんな声を上げてあげてほしい。

あたしは相変わらずはぐれた場所で陰湿な個人感情をぶすぶすと吐き出すことしか出来ないのだから、タイムラインの聖者の行進の如くどうかよろしくあたしはブログで地味に訴えます。

これは冗談なんかではない、前回からの“正しい”のハナシの続きなんである。

命の他にも、どんな理由においても奪ってはならないものはいくらでもあることくらい、あたしにもわかるというハナシだ。

そんな悲しさだけを理由にあたしはただただ個人的に一方的に、相変わらず飽き足らず垂れ流されるもはや吉本なのか安倍なのかよくわかんらんみたいな井戸端会議など視聴者を小馬鹿にしているだけの“ニイタカヤマノボレ“くらいのものだと思っている。

ジジイどもがてめえばっか可愛いだけのトラッシュトーキングだと思っている。

見え透いているのだ、あたしみたいなぶっ壊れたような人間ですらそう感じるのだから、キッカケこそ茶番ではあったけれど、いつまでも茶番に引き摺られているのは馬鹿ばっかということでしかないはずなんである。

公費を貪る吉本がこれからも吉本であり続けることを許すのは安倍ではなく、国民であるわたしたち自身ということくらい、多くの人々はわかり始めているはずなんである。

井戸端会議などでお茶を濁していないで本音を伝えてほしい。

“のん”は、悲しみという名ではないのか。

香港の民衆が何のためにあそこまで戦っているのか、この国はあくまでも理解しようとはしないのか。

 

 

いかん。

何だか血圧が高い感じのテンションだ。

熱中症対策にも気を配らなければならないというのに、何ということだ。

水分補給だ。サラサラの血流だ。血中の塩分濃度が下がらないように少し塩も舐めよう。

塩飴は“アメは甘いもの”という固定観念を弄ぶ大人の屁理屈みたいな塩気だからあまり好きではない。

夏場になるとコンビニのアメが軒並み“塩系”に埋め尽くされるあのダイバーシティーの崩壊みたいな有り様はとりあえずどうにかしてほしい。

ぷっちょやグミばかりで、人は生きてはゆけないのだ。

ミルキーとチェルシーは、大人になっても変わらず美味しい。

”アメ“とは、そんな甘さのことではないのか。

 

 

 

”夜明け“のハナシをしていたのであった。

ぶっ壊れた人の綴り書きは基本スペックが“脱線転覆”なので、勘弁していただきたい。

気ままに散歩するポチ(雑種)の足取りの如く結びつくシナスプの電気信号によって灯る豆電球のショボい明かりだけを頼りに書いているんである。

まじでご勘弁いただきたい。

改めて、”夜明け“である。

あたしは人間として生まれて以来、数えるのはちょっと面倒どころか、電卓でも勘弁してほしいくらいの夜明けの数は過ごしてきているんである。

しかしながら、”人生“という意味での”夜明け“は、未だに迎えていない気がしているんである。

どうだ、脱線から復旧して本題に入ってみたらびっくりするくらい胡散臭いだろう、いや青臭いだろう。

格好つけながらその実、言ってることはまるきり厨二みたいなんである。

書き出してはみたものの、今にもBSキーに指を掛けてしまいそうで自分でも驚いている。

しかしながらこの時点ですでに3000字を超えている。

3000字はさすがに惜しい。

夜行性だの能年玲奈だのと抜粋したら答えのない暗号にしかならなそうな支離滅裂さとはいえ、やはり3000字は惜しい。

何とか今日中に記事をアップしたい目論見となると、もう単純にそれだけで面倒臭いんである。

何とかどこかにこじつけたいものなんである。

やってやる。

何としてもこのままこじつけてやる、と気合い一発ビールを飲んだら急激に汗が噴き出して気持ちが悪いことこの上ない。

 

 

つまり、そういうところなんである。

“未だに迎えていない”などとすっとぼけたようなことを言っているが、“迎えていない”のではなく“迎えられない”だけなんである。

”迎えられない“まま、いい歳になってしまっただけなんである。

格好つけも甚だしいんである。

今現在、この商売を始めてから“2回目のリスタート“と勝手に位置付けているのである。

かくかくしかじかのリスタートなんである。

かくかくしかじかとは、言っても仕方ないことなのだがついでに言ってしまうと、”かくかく“とは“こうだこうだ”という意味の古い言い方で、“しかじか”というのも“このように”といった意味の古い言い方で、そんな二つの言葉が合わさったということでつまり何かと色々様々なことがありましてね、といったような省略的慣用とまでは言わずとも定型的に用いられる文言として定着したものと思われる、というつまり、そういうところなんである。

 

 

人々がすでにやっていることを、“そうすべき”として追随することに血道をあげられるタイプでは、残念ながらないのである。

それはもちろんあたしのことで、あたしの商売について、ということなんである。

何事にも“セオリー”のようなことはあるものらしいのだけれど、あたしはこの世界(ヘアーサロン業である)に長年暮らしながら、そういったことをまったく知らない気がしているんである。

というか、事実、知らないんである。

知らないのであれば知ればいい、ととある経営戦略的な研究グループのようなものに参加してはみたものの、接客方針も技術方針こそもまったく性に合わず、たったの3ヶ月で離脱してしまったのである。

散財は30万円に上った。

軽く恨むには十分な金額である。

何しろスーツ着込んでへり下りまくる接客の上にパーマ液にトリートメント混ぜ込んでコーティングとか、戦略とは甚だしいばかりの鬼畜ならぬ守銭奴の詐欺的所業であった。

あまり言うと角が立つから控えるが、今現在もツルツルサラサラだのダメージ修復だの謳っているものは世間に溢れまくっているが、どれもこれもすべからく似たような構造に過ぎないんである。

個人的には“アホか好きにやってろ欲しがるばっかのバカばっか相手にな”なんである。

そんなクソくだらないつまらない個人的な雑感はさておき。

 

 

あたしにはあたしなりの“夜明け”の迎え方があってほしいものなんである。

言うなれば、それはあたしなりの“悲願”なんである。

“悲願”とは、何たるや。

あたしは常にそれに憧れつつ、ひ弱に玉砕し続けているものなんである。

そんなうえでの“2回目のリスタート”ということなんである。

能年玲奈ちゃんはあまちゃんだからということではなかろうけれど甘んじて“のん”と自らを定義してリスタートを果たしている。

目論見に沿った展開であることかどうかは本人もしくはその関係者のみぞ知る、ということなのであろうけれど、あたしは個人的にとても頼もしい逞しい生き様であるように受け止めているんである。

決して順調そうには見受けられないけれど、それはただあたしがそういう印象に受け止めているというだけのことで、事実に沿ったものである確証を得られたものではないのである。

願わくは、彼女が目論むその筋書きにおいて順調であることを、見るだけのものたちが何を言おうとそれがどんな形で耳に入ろうと、挫けず、侵されず、逞しく頼もしくその次の目標に順調に進める企める状況にあり続けられることを願わずには、期待せずにはいられないものなんである。

 

 

この世の“ど真ん中”らしい視点は、案外面白くないことがほとんどのような気がつい、してしまうんである。

それは近頃の選挙であったり、吉本であったり、橋下氏であったりと(実に個人的な主題で申し訳ない)、その論調は常に偏重の気質で、いみじくも日和見で、正論たることに貪欲で、本題からの変節も惜しまず、器用なほどに冒険を犯さない周到さに長けている。

しかも、それはただの大半でしかないことがほとんどだったりするのだ。

まるで、行列のようなのだ。

家系ラーメンだったり、フォトスポットだったり、タピオカみたいだったりするんである。

 

 

メリットが見当たらないんである。

メリットを伝えることに、メリットを思いつけない、というおかしな気分のことを言っている。

あたしは涙ながらに“真実”と言い切った宮迫氏のあのナルシスティックな振る舞いを、ことの真偽とはまったく無関係という意思においてただ単純に彼自身という人間性に対して信用ならないと無碍に吐き捨ててはばからないものなのだけれど、それとよく似た考え方において、能年玲奈ちゃんのあまりにも個人について努めて無口なリスタートを、とても好意的に眺めずにはいられないものなんである。

彼女は、自分のために人々に泣き顔など見せるようなことは選ばないんである。

自らに押し付けられた理不尽を、嘆いて見せるようなことはしないんである。

 

 

事実や常識も結構だが、あたしはそんなことよりそれに向き合うその人という向き合い方が、そうせざるを得ないというその性分こそが気になってしまうらしいんである。

“一人で死ね”

それが希死念慮に苛まれる人間にはときとして自殺に向かわせるトリガーにすらなる、ということを通り一遍に披露して社会性を笠に着る正義感は、個人的には好みではないのである。

それよりもまず先に、すでに失われてしまったものについて、つまずいてしまうんである。

 

 

行列は、そのときばかりなんである。

だとすれば、そこにいた人たちは一体どこに行ってしまうのか。

“No.一人で死ね”は、一時ばかりのメッセージなのか。

現場に手向けられた夥しい数の花束は、どこに行ってしまうのか。

ドライフラワーにして飾る手間までは付き合いきれないと言うなら、“一人で死ね”というそのやるせなさも正しさの一部として慮れないものなのか。

大論も行列も、一先ず懐疑的に眺めずには気が済まないケチ臭い性分なんである。

 

 

“2回目のリスタート”も、行列を疑うようなスタンスに変わりはないんである。

何なら、行列するもさせるも、どっちもアホにするようなスタンスなんである。

何しろ、行列が欲しがるものはもう決まりきっていて、ほぼ100パーセントの確率であたしには面白いと思えるはずなどないことばかりなんである。

それは、とても幸運なことのように思えるのだ。

 

商売も時事ネタも、恐らくその視点に変わりはないんである。

それはあたしのことではなく、人間全般に言えることのはずなんである。

能年玲奈ちゃんは、何を求めて企んで、挑んでいるのか。

まったく無関係の距離から、あたしはまったく勝手に他人事とは思えない気がしているんである。

 

 

“夜明け”など、まだまだ訪れそうな気はしないけれど、生きるという目的のためだけにナイトシフトという変化も厭わない野生動物たちの逞しさを、見習わないわけにはいかない気分なんである。

悲しみの名を背負って進む能年玲奈ちゃんを、見習わないわけにはいかないんである。

アイデンティティとは、意識に落とし込まれた瞬間に生まれ、自ら闘いを挑んで獲得するべきものなのかもしれないんである。