アラズヤ商店

日々のナマキズ

みうらじゅんに学ぶべきだ

”何者かになりたい“

 

誰だって人生のタイミングのどこかで一度くらいはそんなことを思うものなのかもしれない。

そんなこともない人もいるのかもしれないが、そんなことある人の方が多そうな気は何となくするではないか。

何しろ職業的なことに限って言っているのではないのだ、子どもの頃に憧れたアイドルとか何とかレンジャー込みのハナシだ。

つまり、もうざっくり100パーセントでも全然いい感じのやつなんである。

ちなみにあたしは小学生の頃からずっとバイクのレーサーになりたくて、俳優にもなりたくて、ミュージシャンになりたいと未だに思っている。

改めて書き出してみると、憧れるものがペラッペラに子供染みていて我ながらイヤになるが、しかしながら仕方がないのだ、あたしはあたしなりに切実にそれになりたかったのだ。

間違いなくそれになりたかったのだが、たまたまそれになれなかっただけなんである。

 

 

あたしはバイクに乗れない。

バイクのレーサーになりたかったのに、人生のフタを開けてみたら免許すら持っていない。

人生への裏切り方が乱暴すぎて自分でもびっくりしている。

スクーターで遊んでいるうちは良かったけれど、母子家庭育ちで基本的に機械オンチのあたしは、将棋やマージャンの知識を未だに天然で身につけていないこととまったく同じ範疇において、“クラッチ”なるものの機能をまったく認識出来なかったんである。

“母子家庭育ち”を理由にしたがるあたりにそこはかとなく滲んでしまう嘘臭さが我ながら何ともリアルではないか。

何のことはない、単純におっかなかったんである。

 

 

俳優になりたかったのに、人生のフタを開けてみたらヘアーサロンなんて営んでいる。

しかしながら、この場合はむしろ普通といえば普通の、当然といえば当然の展開のはずなんである。

”俳優“とはつまり“芸能人“、望んだところで容易くなれる類のものではない。

こればかりは母子家庭育ちもへったくれもないはずなのだ。

しかしながら、それでは普通すぎて悔しいのでつい言ってしまう。

実はあたしは中2のときに東宝のタレント養成所のオーディションを受けたことがあり、しかも何故か最終まで合格してしまった経験があるのだ。

自ら応募したのではなく、母親に勧められて受けたオーディションである。

何しろウチは貧乏だったので、その魂胆には”高校行かなくていいから芸能人にでもなっちまえ“といった少し乱暴に開き直ったような空気も多分に含まれていた、というか理由はほぼそれだけだったんである。

”最終オーディション合格“

まさに棚ボタ的展開だったんである。

けれどあたしは現在、ヘアーサロンなどをやってつまらないブログを書いたり書きたくなかったりする毎日を過ごしている。

やはり、”母子家庭育ち“ということだったんである。

絵に描いたようなぺこぺこの貧困家庭だった為、養成所の費用が払えそうにないことを理由に断念せざるを得なかったんである。

母親は何とかするようなことを言ってくれたのだけれど、実際にはこうして文章からも滲み出てしまうくらいにはあたしはそもそもの性分が薄情で、“タレントやら俳優になるためにお金を要求する”というシステムに、急にシラけてしまったんである。

まったく無知で純粋なただの子どもだったんである。

なりたいものになるためにお金を要求されることが、何だか自分の人生に対して“カツアゲ”されるような気分にでもなったのかもしれない。

今となればわからないでもないそんな社会の仕組みも、まだ子どもだったあたしには親を苦しめるだけの”カツアゲ“のようなものとしか思えなかった、そんな気持ちもわからないでもない。

”母子家庭育ち“あるいは”貧乏“ということは、そういうことのような気がしてしまう、あたしには未だにそういうところが確実に存在しているのだ。

あたしは、”なりたい“という勇気とか覚悟のようなものは、思いつけなかったんである。

予定外に暗い話になってしまって、誰よりも自分が一番引いている。

何だか実に申し訳ない。

 

 

ミュージシャンになりたかったのに、人生のフタを開けてみたら以下略。

これは実はほとんど嘘もいいところで、後から取ってつけたようなものに違いないんである。

何だかカッコいい気がして、ただダラダラとバンド遊びを続けていただけでしかない。

正直に言ってしまえば、今もそんな気持ちの残骸のようなものを手放せずにいるようなものなんである。

バンドという単語には、それだけで成立してしまう無条件の格好良さみたいなものがある。

何よりも格好悪い”カッコいい“みたいな感じのやつだ。

あたしのただの誤解だろうか。

しかしながら、来世では冗談抜きでそうではないそれ一本を目指したいと思っている。

ちゃんと”格好いい“ミュージシャンになりたいと思っているのだ。

今世で語る来世のハナシなど寝言と何も変わらないのだから、適当でも何でも好き勝手なことを言って楽しまなければ損なんである。

何を損するのかはわからないが、そんなことでも言って不出来な今世の無念くらい少しばかりでも晴らしたいものではないか。

人間だもの。

そういうことなんである。

 

 

 

“何者かになりたい”

 

そんな思いこそすでに、”凡人“のそれでしかない気がするんである。

誰もが承知の上で、そんなことを思っているはずなのだ。

今日は休日で、半日くらいひたすらにNews PicksのThe Updateに見入っていた。

利口な人になれそうな気にさせられて、何だかいいのだ。

何なら少し利口になった気が本気でしている。

才気煥発な人々の論議に触れて、気分だけはすっかり天才なのかもしれない。

ヤクザ映画を観た後に気持ちが大きくなるやつ、などという慣用表現こそ凡人のそれではないか。

あたしは今、明日からの商売に向けて様々なアイデアを思い浮かべてワクワクしている。

”凡人”は、何かと与えられることばかりに長けているから実に便利なものなのだ。

すっかり利口になった気がしてやる気で溢れているので、もう少し情報が貪りたいような、モチベーションを焚きつけたいような気分で適当なニュースアプリをタップする。

そうしてまた一歩、“何者か”に近づけそうな気がしないでもないんである。

何しろ“凡人”なので、“何者かになりたい”なんて漠然とした憂鬱を満たすには、半日ばかりではちっとも足りないんである。