アラズヤ商店

日々のナマキズ

読点に応える

まったくいい雰囲気である。

 

先日の嵐でビリビリに破けてしまった網戸を修復しようと、朝から近所のホムセンまで出掛けてみた。

すっかりガラガラだ。

国道も、ホムセンもガラガラなのだ。

盆らしい、あたしは感じ入ったものなんである。

 

開店時間とほぼ同じくして入店した時刻は9時半。

玄関前で店員の方がにこやかに「いらっしゃいませ、おはようございます」と来店客一人一人に告げながら、買い物カゴを手渡している。

ヤバい。

あたしはすぐさま思ったんである。

何しろあたしは気が弱いので、通常は自ら手を伸ばして然るべきところの買い物カゴ、それを何とご丁寧なことか先様から手渡されるなどという厚遇に対してごく普通に、自然に手渡されるという行為に従うことがちっとも自然にできそうな気がしないのだ。

恐縮して、何だかとてつもなく不自然な感じでペコペコしてしまいそうなんである。

しかも、「おはようございます」などと声をかけられてしまった日には、もう何だか無口なままでは通り過ぎることなどできそうな気が、ちっともしないんである。

 

 

”いらっしゃいませこんにちは“

聞き慣れたフレーズである。

あえて”フレーズ“と言ってしまうには、訳がある。

何しろそれを耳にするのは、何気ない日常会話の外であることが基本だからだ。

人はすべからく、日常会話において”いらっしゃいませこんにちは“などという一綴りのフレーズを口にすることは恐らく、いや絶対にないはずなのだ。

日常において”いらっしゃいませ“は、ない。

ない、と言い切ってしまったが、恐らくその判断にはあたしらしくなくかなりの自信がある。

何しろ、日常会話において”いらっしゃいませ“という言葉を必要とする場面など、想像し難いではないか。

たとえ日夜商売に勤しむ人と言えども、それは日常であって日常ではない、つまりは”お仕事“の一環なのであって、“日常会話”というものとは別モノのはずなんである。

何しろ人は、誰しもがおウチに帰るんである。

”日常“とはつまり、そのことではありますまいか。

おウチの玄関を開けて”ただいま“と告げた先に、”いらっしゃいませ“と声高らかなる歓待が待ち受けていた日には、お愛想で3日、苛立って4日、5日目にはつまらぬ家族会議勃発することあたはずなんである。

”こんにちは“もまた然り、なんである。

朝起きて、愛する妻に”こんにちは“などとにこやかに告げられてご覧なさい。

呑気に定刻に出社してる場合ではない、早速課長に遅刻の連絡とサイドボードの引き出し上から二番目、保険証と最寄りの総合病院の診察券を手に、もちろん妙味妖しげな愛する妻の手こそ手に取り総合病院の無人受付、精神科外来の受診項目をタップ、なんである。

 

 

取り急ぎ、整理してみた。

おわかりいただけただろうか。

極論をぶっているつもりなど毛頭ない、ただ少しだけ、ふざけてしまった自覚はないでもないくらいのことである。

しかしながら、しかもっ、ということなんである。

こともあろうに、そんな”いらっしゃいませ“と”こんにちは“が、連結しているのである。

これは、まじでヤバい。

ちょっと、まじで、ほんきでヤバいやつなんである。

”こんにちはいらっしゃいませ“

もう、単語だ。

日常会話における正式な語彙として認められないことが明らかとなってしまった今、この”いらっしゃいませこんにちは“はもはや、一綴りの”単語“として認識する他にあるまい。

服を畳みながら、レジを打ちながら、客席でオーダーを伺いながら、”いらっしゃいませこんにちは“は単語として淀みなく平坦に、さながらBGMの如く連呼される。

それを耳にするばかりの者たちが総じて当たり前らしく表明しがちな呵責なき態度、それが”シカト“なんである。

 

 

 

えらいことなんである。

朝っぱらからど緊張の一瞬が、眼前に刻一刻と迫り来るのだ。

“失敗した”

それは朝イチから噴出したあたしという気弱さによる悲痛極まる絶叫だったに違いない。

”あと10分、遅ければ“

ああ、ジンジンくる。

そうなのだ。

あとせいぜい10分でも遅く訪れていれば、この“いらっしゃいませ、おはようございます”なる歓待に遭遇することは回避できたかもしれなかったんである。

何とも心を尽くした出迎えなんである。

いたく感動させられるものなんである。

しかしながら、そんな店員、従業員の皆様も、そんなにヒマではないんである。

いつまでも人柄よろしく“いらっしゃいませ、おはようございます”などと買い物カゴ片手に突っ立っているわけにはいくはずもないんである。

”ホムセンの店先にも、くい倒れ人形的なアレを“

ヒューマニズムとは、時として物質にこそふさわしく宿ることもなくもなし、ということなんである。

 

 

かくしてあたしは、恐怖の歩みを進めたところ、見事に“スルー”されたんである。

“いらっしゃいませ、おはようございます”は、ありがたく頂いたんである。

しかしながら、買い物カゴについては“スルー”だったんである。

そう、愚かなあたしはその瞬間を“スルーされる”という形で通過して、ようやく気づいたんである。

“いらっしゃいませ、おはようございます”は一綴りではなかったんである。

つまり、通り一遍に発せられる類の”単語“ではなかったらしいのである。

”読点“なんである。

とうてん、と読む。

どくてん、などとつい読み込んでしまったあなたは日々の読書が足りていないのではなかろうか。

そんなあたしは読書のみに収まらず、某小説サイトにおいて自著を猛烈掲載中だったりするんである。

どうだ、相当アタマがおかしかろう。

わかっている、しかしながらそんなこともよいではないか、インプットとアウトプットのバランスは馬鹿にならないんである。

インプットを喜びと鵜呑みにしてばかりいると、うっかり”タピオカインスタまじ卍“なんである。

 

”読点“とは、人によるものらしいのだ。

人それぞれ、という意味ではない、”人によって施される“ということなんである。

あたしは、そんな隙において”スルー“を選択されたものだと思うのだ。

その判断は、常にグレーであろう。

しかしながら時に、あたしは”スルー“と判断されたものなんである。

“そんなに買いもんしねえなこいつ”という印象判断を下された、ということであれば何だか切なくもあるが、所詮”ご名答“ではあったんである。

張り替え用の網と、固定用のゴムチューブを押し込む便利グッズのみを購入したあたしの滞在時間は概ね5分といったところであっただろうか。

購入価格は¥1,138ばかりである。

 

これはつまり、”人“という話のはずなのだと、あたしは勝手に思っている。

”いらっしゃいませこんにちは“

それは”人として“スルーするべきBGMであるのかもしれない。

良心の呵責など、そういった複雑感情はノンノン、なのかもしれないんである。

サービスとは、様々なんである。

”いらっしゃいませ、おはようございます“

どうやら読点とは、”人“が住まうものらしかったんである。

生憎あたしは”スルー”と相成ってしまったことではあったのだけれど、“いらっしゃいませ、おはようございます”という瞬間の“人”という介在に、気弱な性分をあからさまにしつつペコペコと、その行き届いた歓待の隙間を通り過ぎる他になかったんである。

 

気弱なあたしの口は、“おはようございます”などと思いがけず口走ってしまうんである。

気恥ずかしい朝のハナシである。