アラズヤ商店

日々のナマキズ

野犬の鳴き声を聞いたことがあるかい? ジャンケンポンと鳴くんだよ。

ジャンケンで勝ったら、カット料金 ¥0‼︎

 

などという馬鹿げた企画を始めて、半月が過ぎた。

発案当初はなかなかにアヴァンギャルド且つアナーキー、つまり他の追随を許さないキレキレに冴えまくりのストロングインパクト企画爆裂の予感にワクワクと胸を踊らせていたのだ。

 

しかしながら物事というものは、実際にフタを開けてみなければわからないものなんである。

それは、実感だ。

 

まったくつまらないんである。

 

ジャンケンに負けたお客さんからはイベントから漏れたような失意の表情がダダ漏れ、勝ったお客さんからは¥0という度が過ぎた奉仕にガチで恐縮され、差し出したあたし自身はと言えば、勝っては退屈にしおれ、負けては損失に経営を傷ませる、というつまりwin-winの正反対、lose-loseな空気に当初ワクワクと思いついたはずの企画爆裂の予感は反省の如く腐り果てているんである。

 

すでに三万円の損失を計上している。

まったくつまらない、だけならまだ穏やかなものだが、実際にはもう少し、いや少しばかりでもなく深刻に、実生活をも圧迫し始めていたりするんである。

現金商売によるその日暮らし、というものは所詮そんなものなんである。

 

 

馬鹿なのだろうか。

我ながら。

 

¥0のことを言っているのではない。

そのスタンスに問題がある、ということだ。

つまり、商売を生業としながら、売り物を¥0として扱うということの馬鹿さ加減ということだ。

技術をもてなした上で、それを¥0とのたまうことは最早、商売に対するあるいは技術への冒涜ですらあるまいか。

 

しかも企画を投下して以来、通常よりヒマときている。

もはや、悲惨だ。

もはや自分で言ってしまうレベルということだ。

つまらん。

死ぬほどつまんないんである。

尚且つ、ジャンケンだけは軒並み連戦連敗街道をぶっちぎりにひた走っているんである。

ただ一つ目論見通りだったのは、追随するものなどまったく見当たらないことだけなんである。

当たり前だ、そもそも他にそんな気が触れたようなことをしているものなどいないのだから。

 

やはり、馬鹿なのだろうか。

我ながら。

一体何と、あたしは戦っているのだ。

 

 

「いつも何かと戦ってますよね」

つい近頃も、後輩に言われたんである。

もちろん「あたぼうよ」などと江戸っ子のような気風で粋を振舞ったりはしないが、それに近いようなことはつい、言ってしまうんである。

何しろ何だか、格好いいではないか。

“戦っている”

ワードとして何だかいい感じがするではないか。

生き方として、何だか太らなそうだ。

目つきが鋭そうだ。

動きが俊敏そうだ。

鼻が効きそうだ。

知恵も効きそうだ。

 

ちょっと待て、何かがおかしい。

野犬にでもなりたいのか、あたしは。

 

 

もしかしたら、野犬に還りかけているのかもしれない。

自由に生きたいばかりに脱走した結果の野生回帰。

ドッグフードを忘れ、木ノ実やネズミ、モグラ、あるいは流れ星銀の如く熊を倒して喰らうのかもしれない。

格好いい。

やはり格好いいではないか。

いやいや、アレはあくまでも漫画だしっかりしろ。

しかしながら願わくは赤カブトにはせめて、シシガミの森で乙事主やモロたちと戯れていていただきい。

単純に年代的に古参の赤カブトと、舞台として古代に住まうモロたちは、何だか偶然らしくマッチしてグーな気がする。

所詮どちらも野蛮な感じだし、さらにグーではないか。

劇画調とジブリでは画風がミスマッチなので、中間的タッチを選択して作画はモブサイコ100のONEさんあたりにお願いしたい。

ついでと言っては何だが、ときにはサンに喉元を撫でられて、他愛もなく仰向けで悶えてしまうハートフルでキュートな赤カブトとか、そんな友愛なるキャラ崩壊も演じてほしい。

世界観を、ぶっ壊すっ‼︎ である。

何だかアレな感じになってしまった。

 

 

お分かりのことと思うが、文字数稼ぎである。

 

 

 

しかしながら、それは確かなんである。

ぶっ壊したいのだ。

ぶっ壊せないことを、恐らくあたしは“つまらない”と言ってるはずなんである。

何もできない中途半端モンが立派なことを言ってしまった。

身の丈に合わない気合いと緊張でパンツまでビショビショに汗ばんでしまう。

近く夏も終わる、汗臭いくらいのことは勘弁してほしい。

あたしもいい歳なのだ。

臭いと言えば、しかしアレはびっくりした。

過日、お盆さんの夜のことだ。

あたしんちに幽霊が出現した。

しかも、すっごいおっさん臭いやつだった。

いくらいい歳だからといって、あたしはまだあそこまでの匂いを自らに認めたことはない。

そのくらいおっさん臭くて、ビビったのだ。

まあよい、その話しはまた後日に改めることとしよう。

ネタは貴重だからな。

 

 

 

どうせあたしはあまりアタマがよろしくないのだ。

そのくせそんなただでさえ質の悪いものを、ロジカルに言語化して眺めたがるという厄介なクセがある。

考えてみてほしい、アタマが悪いロジカルである。

まあまあろくなことがなさそうだし、本人なりにもシャレにならなそうなことくらいは普通に気付けるタイプのやつだ。

やらかす予感はハンパない。

 

しかしながら、ぶっ壊したいんである。

お気づきであろうか。

“アタマ悪い”を“ぶっ壊す”んである。

実はまったく普通の話なのではないのかと、思うところなんである。

やはりハンパないぜ。

 

 

差し当たってウチの店が認知されるところは相変わらず“ヘアーサロン“なんである。

しかしながら、あたしは”ヘアーサロン“としてその存在意義を打ち出したがることは、もはや北京原人が野山で草や虫やウサギを食らって暮らすことと何も変わらない気がしているんである。

何しろあたしは、たとえ田舎ではあるとはいえ曲がりなりにも現代に生きる人間なんである。

草や虫やウサギにお世話になる機会は何かしらあるかもしれないが、積極的に食らいたいようなことは思わないものなんである。

服を着て、髪を整え、スマホを手に取り、文化とこれからの世界に積極的に触れたいんである。

”ヘアーサロン“は暮らしという文化や歴史の一部かもしれないけれど、”ヘアーサロン“としての文化や歴史など、とっくに捨て去るべき時代に来ていると勝手に思っているらしいのだ。

その価値観こそを、ということでもまったく構わないんである。

実に、アタマが悪い奴が考えそうなこと丸出しなんである。

いや、”髪を切る“ためだけに存在する場所など、昔は存在しなかったはずなんである。

 

 

やはり、野犬なのかもしれない。

捕獲されて、保健所に連れ込まれてガス室送りになるのかもしれない。

いや、さすがに殺されることはなかろう、これでも見かけばかりでも人間だ。

殺されるとしたらそれはお客さんによることで、ひいてはあたし自身によることのはずなんである。

”ヘアーサロン“であり続けることは、それよりも手前にある北京原人の退化絶滅のようなこととすこしも違わない気がするんである。

いや、北京原人は進化して人間になったのかもしれない。

確か学校でそんなことを教わった覚えがある。

進化論、というやつだ。

敬虔なるファンダメンタリスト諸君が秒で嗤うやつだ。

それにひきかえ犬の歴史については、正確なことは知らない。

けれど、一先ずは今現在も人間と共に存在していることだけは確かだ。

 

 

もしかしたら北京原人は人間になり、そしてお客さんになったのかもしれない。

人間と共に暮らす現代の犬は、人間に食わせてもらう生き物だ。

商売人は、お客様に食わせてもらう生き物、ということはつまり“犬”ではないのか。

商売とは、手懐けられた”お手“のようなもの、”伏せ“とか”おすわり“みたいなものではないのか。

人間というお客さんに、要求されるだけのものに成り果ててしまったのではないのか。

 

あたしはそんなことばかりを思って、たとえ甘んじてとはいえどもそうあり続けることは、もはや北京原人と暮らした古代の犬の記憶を捨て去った、無自覚に“お手”を繰り出すだけのただの現代の犬のようにしか思えない気がしてくるんである。

独立した野山に生きて、それぞれが古代から現代まで進化して生き続けてきたようなことに、いま一度立ち戻りたいような気がしているんである。

 

 

願わくは、犬らしく生きたいらしいのだ。

”お手“や”おすわり“で褒められたいタチの犬ではなさそうなのだ。

お客さんに褒められたいような、認められたいようなことばかりを振舞う気は、まるきりないらしいんである。

 

 

先日、どこかの街で野犬が繁殖して問題化しつつあるという話題を目にした。

確かに、近頃の日常の景色にはあるまじきと思えなくもない数の野犬たちが、夜の街を闊歩していたんである。

しかしながらその景色には、さまざまな問題や、原因が含まれているはずなんである。

それは、目にする誰もが想像に難くないことですらあるはずのだ。

 

 

しかしながらアタマの悪いあたしなりに思うには、野犬たちは人間が思うようなこととは全く別のことを思っていそうな気が、しなくもないんである。

遠目に警戒しながら眺める人間たちを視界の隅に、野犬たちはおちょくるように夜の街を闊歩しながら何を思うのか。

 

 

最初はグー、ジャンケンポン‼︎

 

 

それぞれとして存在する以上、人間と犬は付かず離れず共に暮らしながら進化してきたはずなのだ。

 

北京原人は”お客様は神様です“としつけられて、とても気を良くしながら人間へと進化したらしい。

やがて犬たちは、”お手“や”おすわり“をすると褒められエサをもらえることを覚えたのかもしれない。

そんなフリ、と言ったほうが正確なのかもしれないなどと言ってしまったら身もフタもないだろうか。

 

野犬は、野蛮なのだ。

”お手“、”おすわり“などと言われても、”食べたことないです“なんて、ついでに噛みついたりする始末なのだ。

”お手”をして与えられることばかりを覚えてしまうと、人間がいないと生きていけなくなってしまいそうで、イヤなのだ。

 

ジャンケンポン

 

犬は、ただ人間と遊びたいだけなんである。

自らの本能で生き、ときに人間とも戯れ、共に暮らし、現代にたどり着いたはずなんである。

生類憐みの令を、もしかしたら動物たちは気味悪く恐れたのかもしれない。

そんなへりくだったような人間たちは、気持ちが悪いからだ。

 

 

ジャンケンポン

 

 

人間にはまだその声は聞こえないらしくても、野犬はただ本能のままに遊びたがるんである。