アラズヤ商店

日々のナマキズ

ジャニーズっぽくない中丸くんと風間くんにおけるレイヤー思考《頑張りたくないの階層》

風間俊介くんと、寺田心くんが放り込んでくるアノ違和感は、同類である。

 

のっけから変なことを言ってしまった。

疲れているのだろうか、月曜の朝から。

本来なら火曜日に休みたがるところなのだが、周辺の状況を鑑みるに何だか、今日は休んでしまいそうな気がする。

その方が天才な気がしている。

 

 

素晴らしいと思わないか、”勝手に休める“というこの壮絶なる浮遊感。

これでもあたしもいい歳なのだ。

けれど未だにこんなクラゲみたいな浮遊感に身を任せて暮らしている。

もちろん、お金はない。

そんなにはいらないから、問題ないと思っている。

日々、ちょっとした場面で足りない気がしてしまうことはそれなりに不便だったり不幸だったりもするのだが、それで死んだことはないので所詮人間の見栄レベルの話だと思っている。

よくある負け犬のでまかせ口上というやつだ。

あたしは何だかなんだ言いながら、結構しぶとい性格なのだ。

どうだ、何だかとりあえず凄そうだろう。

何が凄いのか、今の所自分でもよくわからないだけなんだぜ。

死ななければ何とかなる、といった敢えて荒削りな感触をフィーチャーして共感を毟り取る類のメッセージ性にはあまり惹かれない。

ハシゴの一段一段の感覚がものすごく広いやつ、みたいな感じがしないか。

乱暴すぎて、掴み損ねても知らん顔で見捨てられそうな気がしないでもないではないか。

あたしはライオンでもマゾでもないので、みすみすその気になどなれそうにない。

反目の主張とか、もちろんそんなつもりは毛頭ない。

気合が入っていないだけだ。

それにしても朝から酷くお腹を壊している。

寝冷えだろうか、油断してしまった。

汚い話をしてしまい申し訳無い。

 

 

もうそんなに頑張らなくてもいい気がしている。

歳をとったからとか、じきに子育ても終わる頃だからだとか、そういった達成感や到達感、そんなものがもたらしがちな喪失感とか、そういったことを理由にして言っているのではない。

見くびらないでほしい、あたしは多分、まだ全然何もしていないのだ。

後ろ足で砂をかけるような粗相を人生のあちこちで仕出かしつつ、ポンコツなりに自分の店をかまえ、全然儲からず二足の草鞋が基本形態という個人事業主といえばまだ立派そうな気がするが、フタを開ければただの中年フリーターには違いなく、税務署が人生のてっぺんから三番目くらいに苦手であるのにもかかわらず、未だにちっとも人生というものにコミットしていない、そんな余白が残されている気がしてしまう、という愚かさのようなことを理由にして言っている。

ライザップがなければ、コミットなんて言葉は一生タイプすることはなかっただろう。

あたしは未だ自分の人生にすら、そんなちっぽけな影響の一つですら与え得たものだろうか、ということだ。

 

 

頑張りたくないのだ。全然。

それは、全然頑張りたくないことをずっと頑張ってきたつもりではいる自分自身から発信される疑わしさ、あるいは恨みのような感触なのかもしれない。

実際に言葉にしてみると、陰湿な感じが何だかものすごくて自分でも軽く引いてしまうのだが仕方がない、何しろ全然幸せな気がしないのだ。

24時間テレビが放映された翌日の朝っぱらからそんなことを言ったら、バチ当たりさながらにハゲてしまいそうだ。

我ながら、幸不幸の基準がそもそも安っぽく狂っている気がする。

いや、ただ失礼なだけだ。

まじでバチが当たるかもしれない。

 

自分で言うのも何だが、けっこう真面目に不真面目な人生を生きてきたつもりではいるのだ。

何だかややこしい言い方で申し訳ない。

けっして上等ではないが、与えられた試練は自分なりに真面目に向き合って乗り越えてきた、といったようなことを言いたかっただけだ。

ならば最初からそう言えば良いではないか、と言われがちな例えばそんな要領の悪さが人生を不真面目にさせるのだ、といった苦手さにおいて“不真面目”といった表現を用いている。

おわかりいただけるだろか、この要領の得なさを。

まったく絶望的なんである。

 

あたしのリアル周辺で儲かっていそうな感じの人に、日々コツコツとあるいはジメジメと、ブログなどを書き綴っている人間などほぼ見当たらない。

Twitterもおぼつかないような友人ばかりだから、潜在的存在確率もほぼ壊滅的だろう。

しかしながら唯一、日記感覚で日々のルーティンとしてブログを毎日欠かさずに更新している人物を一人だけ知っている。

とてもマメな人物なんである。

ちなみにウチのお客さんである。

その日の出来事の画像と、控えめなトーンでそれにまつわるコメントを添えたシンプルなブログである。

このブログのような若干鬱っぽいような見栄をこじらせたような愚かな長文など皆無の清潔なブログ。

アクセス数もそこそこだったりする。

大したものなんである。

 

 

そんな人物と比べるとやはり、あたしはまだ全然何もしていないのだ。

ともすれば、そんなことばかり言っているから何も出来ないままなのだ、などと即座にアカウントごとブログを削除してしまいかねないほどマイナスにアグレッシブなことばかり反射の速度で考えてしまったりする。

それはつまりエゴとか、そんな個人的醜さのようなことに他ならない気すらしてしまう。

いや、そうとしか思えない、と白状したほうが音速を凌駕するほどに人として正しい気がする。

もはや全力疾走など10年前に諦めた人間が言うのだから、その卑屈さは尋常ではない。

 

 

精一杯なんである。

すでに、と言うことだ。

低スペックをフルブーストでぶん回して過ごした半生、無駄骨の如くヘトヘトなんである。

頑張ってきた、しかしながら、それほど幸せではなかった。

それを、こんな今現在を持ってしてもエゴなどと自傷行為さながらに食らわせてしまうというトンマさ。

いや、そんな愚かさはつまり、あたしのことばかりなんである。

恐らくは、ということにせめてはしておきたいものなのだけれど。

 

 

風間くんや心くんは、応えることに長けている。

あたしにはそう見える、ということでしかない。

今朝もZIPで風間くんを見かけた。

だからこんなことを書いているのだけれど、風間くんには迷惑甚だしいことには違いない。

 

きみ、ジャニーズでしょ。

 

今更そんなことを違和感としてあげつらうのはむしろ鈍感も甚だしいことに違いない。

だって、実に申し訳ないけれど、ジャニーズ感が希薄すぎやしないかい。

つまりそんなことは何も今更言うことではないと言うことだ。

我ながら何だか酷いことをサラリと言っている。

言霊に憑かれて殺されるかもしれない。

けれどあえて言ってしまう、殺されない程度に。

ここぞ、というコメントを言うときの風間くんの声のトーンと、投げかけるようにやや細められる視線の動きが、個人的に何だかこそばゆくて仕方がない。

 

きみ、ジャニーズでしょ。

いや、ジャニーズなんだもんね。

 

 

シューイチの中丸くんが好きだ。

散漫な感じで申し訳ない。

しかしながら彼こそ、“ジャニーズらしくない筆頭”ではあるまいか。

にもかかわらず、彼の応じ方、さりげなく配慮の効いたコメントの一つ一つには常に感心させられてしまうのだ。

 

きみ、ジャニーズでしょ。

 

同じなのに、何かが違う。

風間くんがダスキンのCMで趣里ちゃんと夫婦役をしているのが憎たらしくて恨めしくて妬ましくて言っているのではない、何だかつまりこう、浮いていないか。

そう、何だか急に言ってしまったが、つまりそうなのだ。

浮いていやしないか、ということなのだ。

役割に常に完璧に応えようとするその熱心な姿勢がさせる器用さの全てが、むしろ何だかフワフワと心許無く見えて仕方がないんである。

 

端的に、何だか割り切りがすごい気がするのだ。

例えるなら、人間としてほぼ最低みたいな例えをするならアレだ、小学生の作文コンクールで優秀な成績の子が自ら朗読するあの感じ、大人が求めて止まない清く正しくテンプレートに整えられた当たり障りのなさ、日常生活に放り込んだらあっという間に世間の邪念や猜疑に駆逐されて当然の如く立ち消えてしまうばかりの理想的茶番とか空論の乱用とか、それを是も非もなく受け入れて応えられるあのものすごく割り切りの効いた感じ。

我ながら何だか最低なことを言っている。

もう完全にファンに殺されるレベルかもしれない。

 

 

 

中丸くんは、オリエンタルなのだ。

目鼻立ちクッキリ、浅黒い肌、筋張った体つき、つまり何だかシュッとしたインド人青年みたいな風合いである。

殺される、まじでファンに殺されるかも。

そろそろやめないとまじでやばいかもしれない。

けれどあと一息というところだ、ご辛抱いただきたい。

 

風間くんは、少し乾いた豆餅みたいな顔をしている。

酷いことを言っている。

承知の上だが、今しばらくお見逃しいただきたい。

そんな風間くんに、つきたてらしくしっとりとした丸みを伴わせると、寺田心くんになる。

脳内モーフィングに挑んでみていただきたい。

強引かもしれないけれど、何となく似てしまう二人のような気もしなくもなくありませんか。

殺されますか、いよいよ。

 

 

カレーは数多のスパイスが織りなす深みが最高で、豆餅は所詮米と豆と塩でしかない、などと平たい比喩にたぶらかすつもりはないが、残酷なことにあたしのくだらない勘の根拠は、恐らくそんな感じと大して変わらない気がしている。

 

シンパシーを感じるのは、圧倒的に風間寺田両君なんである。

何しろ、風間くんは風間くんであることに、心くんは心くんたらしめるために彼らは目下精一杯に挑んでいる真っ只中に違いないんである。

同列に扱っていただくつもりは毛頭ない。

ただしかし、あたしもあたしなりに自分であることに、その手段を模索することに未だ精一杯でいるばかりなんである。

 

そんな日々の暮らしには、誤解は付き物なのだ。

 

風間くんも、心くんのマネージャーさんも、もちろんあたし自身もやるせなくそんなことは織り込み済みで挑んでいるはずなんである。

そんな了見も含めた上で、風間くんや心くんの懸命な仕事ぶりを目にするたびに、あたしは何だかついささくれを毟りたくなってしまうような、そんな苦手さというシンパシーを思いついてしまうのかもしれない。

 

 

 

 

精一杯なんである。

誰しもが皆、ということだ。

あたしはあたしなりに精一杯やってみた結果、邪推にまみれてジャンケンなんかしている始末だ。

何なら少し迷惑くらいには疎まれていかねない。

風間くんや心くんも、もちろん精一杯挑んでいる。

もはや断定口調だ、実に申し訳ない。

そうしてときに、あたしみたいのに“子供っぽい”なんて切り捨てられたりもする。

精一杯であることの苦悩は果てしないものらしい。

 

中丸くんもまた、精一杯なのだ。

“きみ、ジャニーズでしょ“などといった心無い偏見を、誰よりも中丸くん自身が冷静に客観的に受け入れることに精一杯挑んでいるように、どうしても見受けられて仕方がないのだ。

勝手なことを言っているのは承知の上である。

けれど、何だか中丸くんが中丸くん自身の身持ちにはそれほど興味なさそうな、彼なりの応じ方というプロフェッショナルな態度について、個人的にはとても好ましく感じさせられてしまうのだ。

中丸くんが中丸くんとして求められる中丸くんに応じることで、中丸くんが中丸くんとして絶対的に、効果的に存在してしまう。

それが中丸くん自身の望みに沿ったものなのか、そんなことは見るだけの人になどわかるはずもない。

 

頑張りたくないことをずっと頑張ってきたつもりでいても、中丸くんらしく、のようにはあたしは存在出来ていない気がするのだ。

そんな気がしている、ということは思いのほか面倒な澱のようなものの気がする。

頑張りたいことの頑張りたくないことを頑張る。

結局結論はいつも、そんな些細なズレのようなことばかりに帰結するのだ。

勝手に生きている類の人間には、やはりその程度の負荷は見逃せないはずのものであるべきで、それは例えばあたしにとって毎日決まった時間にタイムカードを打刻しなければならない苦痛になど遠く及ばない”頑張りたくないこと”のはずなのではあるまいか。

 

こうしてまったくアクセスの伸びないブログを書くことも、そんな一環だと心得ている。

書きたいけど、書きたくない。

それは毎日決まった時間にタイムカードを打刻するより余程、あたしにとって頑張りたくて頑張りたくない苦痛に過ぎないはずなんである。

 

頑張りたいことの頑張りたくないことを頑張った先に、例えば中丸くんのようにプロフェッショナルに手放せる何かが待ち受けているものなら、やはり頑張らねばなあ、まだ全然何もしていないのだものなあ、と愚かしく執念を焚きつけられるばかりなんである。

 

変なキッカケに引きづり出してしまって、風間くんと心くんにはとても申し訳のないことなんである。