アラズヤ商店

日々のナマキズ

坂口さんと加護さんのしっくりこない瞬間風速

”自分らしく生きる“

 

もっともなようでいて、その実迂闊に口にするとたちどころに胡散臭い感じに化かされかねない危険なワード、いやメッセージではあるまいか。

メッセージ性に問題があるというよりは、扱いに注意とか、分相応とか、つまり何だか極めてプリミティブでブーメランなカラクリの気配、とでもいった感じなのかもしれない。

お察しいただけるだろうか。

 

人間なんて所詮、嘘つきばっかに違いない。

 

自分らしく生きたいなんて、傲慢だ。

などと逆さまのようなメッセージを徒らに邪推したがるならまだマシなのかもしれない。

力強く目を見開き、鼻息荒くそんなメッセージをぶち上げてしまったなら最後、「そういえばアレどうした?」の如く3日後あたりには家族やら友人やらからいい物笑いにされかねない危険を孕んでいる。

やはり危険なのだ。

実に油断ならないワード、いやメッセージに違いない。

 

 

 

坂口杏里さんが、またしても何だか大変そうだ。

“逮捕”などと大々的に触れ回り、貪るようにセンセーショナルに映えることばかりを求めるマスコミのやり口に、あたしはまんまとハメられたものだ。

“ついにクスリかっ“

そんな邪推はもはや脊髄反射レベルである。

すっかりマスコミに毒されている自分が恥ずかしい。

 

 

 

“元交際相手の住居侵入”

 

おいおい、である。

罪名なのだろうか、今一つ判然としないではないか。

“住居侵入”である。

“不法侵入”とか、“強盗”といった迫力には今一つ至らないこの生温さ。

これがどこかのおっさんによるものだったなら、世間は容易に“コソ泥”的な背景を思い浮かべたものなのかもしれない。

生まれから生き様に至るまで、何かと奇抜な感じの女の子による“住居侵入”

しかも、元交際相手宅である。

何だろう、罪というよりもこのそこはかとなく漂うメンヘラ風味。

”生きづらさ“にも似た、混乱の予感。

 

 

有名女優の娘で、元タレントで、元セクシー女優。

背景が奇抜すぎて、見る側なりにももはやどこに軸足を置いたものやら、すっかりわからなくなっている。

そんな華やか且つエキセントリックな背景をよそに「夜の仕事(自称)」に勤しむらしい女性が、かつての恋人の部屋にゴリゴリと押し入る。

地味に迫力が滲む景色ではあるまいか。

直面したら逃げ出してしまうくらいには、面妖な面持ちであったことは想像に難くない。

 

しかしながらフタを開ければ事態の全容は、“タクシー代返せ”という些細な諍いによるものだったらしいではないか。

 

何だろう、このとても質の低い安堵らしき墜落の感触は。

 

 

 

とてつもなく生きづらそうなんである。

些細な混乱が、些細なりにも過剰な不幸に化けがちであり、覆い被さりがちであるらしいあの感じ。

曲がりなりにも“有名人”である以上、逃れ難い詮索というにもどこか今一つしっくりこない。

事態の軸足が、彼女とは無関係な何かによってボカされたようなスマッシュ感。

”ボケている“のに、“スマッシュ”

決して書き手の誤用ではないことをお理解いただきたい。

 

何だか、手榴弾っぽくないか。

瞬発力だけが頼り、そんな一撃。

ニュースアプリのタイムライン上を瞬間風速で駆け抜けて、消え去るのみ。

“住居侵入”レベルの瞬間風速に“おクスリ”的インパクトを望みたがる方が、そもそもナンセンスというものではなかろうか。

そこまで世間も馬鹿ではない、ということだ。

“些細な諍い”がちっとも些細なばかりでもないことくらい、世間だって知っているのだ。

恋にまつわる人間の仕出かし、正常なる精神疾患が織りなすズルくて必死な馬鹿馬鹿しさくらい、想像するまでもない、という前提のようなことに違いない。

誰しもが恋という精神疾患のもと、ちっとも些細なんかではない“些細な諍い”を繰り返している。

榴弾とよく似たことを、自分だって仕出かしかねないことくらい知っているのだ。

 

そんな前提にすら満たないような短絡的な理解や退屈に、彼女がいとも容易く見くびられがちであることはもちろん不幸なことではあるけれど、ある意味それがもはや彼女の“芸風”とか“キャラクター”の如く昇華されつつある気がしないでもないのは、マスコミの毒に飼い慣らされ過ぎというものだろうか。

そんな彼女の崖っぷち感ほとばしるドキュメンタリーに、まんまとほだされた視聴者も少なくなかったはずではないのか。

しかしながら彼女の生きづらさは、メディアの思惑を軽々と飛び越えて、仕出かしてしまうものらしいのだ。

“タクシー代返せ”という“住居侵入”

所詮彼女は、飛び越えたその先でメディアの企みにばかり、しっくりとハマり過ぎてしまうらしいのだ。

 

 

 

“逮捕”

 

よりにもよってそんなワードがあまりにもしっくりと、何なら世の中の期待や想像にマッチし過ぎるくらいの勢いで、映えてしまうらしい。

“またかよ”

世間から次々と漏れ出すため息みたいな反応は想像に難くない。

何しろ、“手榴弾”という瞬間風速に過ぎないからだ。

彼女自身は全然しっくりきていない、ということになど世間はまるきり興味ないのだから、ため息は瞬間風速に乗じて“またか”のテンションで拡散される。

彼女の“些細な諍い”が、瞬間に収まり切れるほど器用なものではないことなど、世間というものはあまり想像したがらないらしいのだ。

 

 

“逃げるものを追うのが好きなんだから、仕方がない。優しく包み込んでくれるような人が現れても、本人はそれに魅力を感じないのだから、仕方がない”といった感じのことを作家の岩下志麻子さんがおっしゃられていた。

あいつもそうだ、と以前の記事で登場した“ダメ女好き“の後輩を思い出した。

性分、と言ってしまえばそれまでのことなのかもしれない。

しかしながら、のっぴきならない習性などとまで思いつめてしまうと何だかもう、鬱病実験のマウスを眺めるような気分になってくるではないか。

仕方がない、とは何ともニュートラル且つ救いのある言葉ではあるまいか。

 

 

何故、”逃げるものを追うのが好き“なのか。

しっくりこない彼女のしっくりき過ぎてしまう不幸さの根は、文字通り根源的な理由に基づいたものに違いない、とついそんなことを想像してしまう。

ツイッターで、”お母様が気の毒だ“というコメントを見かけた。

みんな正しいことを言いたいらしいのだから、仕方がないとは思うのだ。

仕方がないんである。

しかしながら、である。

しっくりこない彼女を育てられたのは、お母様ではないのか。

つまり、しっくりこない彼女が追いかけたがるものとは、残念ながら追いつけるものではなくなってしまったということではないのか。

 

 

”自分らしく生きる”

しっくりこない彼女には案外得意なことなのかも、といった気がしないでもない。

恐らくはとても大切に育てられてきた人なのではないのか。

与えてくれる人を何一つ疑うことなく過ごして来られた、とても幸せな人なのではないのか。

それが世間には、実際に交わる人々にはどう映るのかということとは、別問題ということでしかないのかもしれない。

そんな気もしてしまう、ということだ。

 

満たされた挙げ句、足りないということを知れなかったばかりに、世間というものに全くしっくりこない気がしてしまうらしい彼女がもう一人いる。

加護亜依さん。

ざっくり眺めたら、顔つきも何だか似ていなくもない。

偶然にも時を同じくして、損な感じの話題を振りまいている。

二人とも何だかわがままなような扱いで、不利な状況に立たされている。

それもお互いに一度や二度のことではないのだから、やはり似通ったメンタルの持ち主という気が尚更にしてしまうのだ。

 

 

後輩のことを“ダメ女好き”と唾棄しておきながら、実はあたし自身が誰よりも“ダメ女好き”であることを白状していなかったんである。

実に恥ずかしく、後輩には申し訳ないことだ。

そんなあたしだからこそ、ということに違いないのだけれど、件の二人はきっと悪い人などではない、とつい肩を持ってしまいたくなるのだ。。

自分で言ってしまうが、全然説得力がないことくらい承知の上だ。

しかしながら、対面して痴話喧嘩を繰り返すようなタイプの人に、わざわざ悪いことを企みたがる人などそんなにはいない気がしている。

もちろんそれは、ただの個人的経験則が言わせることに過ぎない。

 

わざとではないけれど、基準がややも世間とはズレがちであることが、時として人を怒らせたり傷付けたり、裏切ってしまったようなカタチにすらなってしまうことが少なくない。

けれどそんな折に割と見過ごされがちなのは、当の本人こそが青天の霹靂の如く誰よりも傷付いているらしいということで、“しっくりこない“彼女の精神性という誤解のような気がついしてしまうのだ。

そんな彼女の報われなさの発露が、例のドアに挟まれて負傷したインスタ画像ということなら、もはやどうにも“しっくりこない”まま生き続けるしかないらしい彼女、という憂鬱を如実に表している気がして、何だかいたたまれないような気分にさせらないでもないではないか。

彼女たちは、ようやく“疑う”ということを知ったらしいある意味とても真っ直ぐな、愚直な人たちだったりするのではないのか。

 

 

 

”自分らしく生きる“

意識高い系、などという言い方はむしろ自傷じみたスラングの如くその装いを改めつつあるらしいのだけれど、それほど器用には改められそうにない”自分らしく生きる“彼女たちが抱え続ける”しっくりこない“という憂鬱は、この先も度々ネット上で炸裂する手榴弾の如く瞬間風速を撒き散らしてしまうのかもしれない。

皮肉にもその爆風に誰よりも恐れ慄くのはいつだって他でもない彼女たち自身なのかもしれなくて、だからといって世間やメディアはいつだって、そんなことにまで一々拘っているわけにはいかない程度には、忙しいみたいなんである。