アラズヤ商店

日々のナマキズ

ソーシャリズムは安心して白状する《”疲れた“の欺瞞》

“いいね”に疲れました。

 

 

嘘です。

のっけからものすごい嘘をつきました。

申し訳ない、心に1ミリもないことを言ってしまって。

 

 

“いいね”に疲れた。

信じられない、あたしはもっと全然別のありとあらゆることにヘトヘトに疲れているというのに。

そんな程度のことで大丈夫なのか、世間は。

などとずいぶん上からのようなことを言っているが、そんなあたしが唯一日常的に活用しているSNSツイッターのフォロワー数は余裕の二桁。

しかも我ながら目を疑うなんと10台。

しかしながら見方を変えれば、ぴっちぴちのティーンと言えなくもない。

ティーンなフォロワー数。

もはや実にフレッシュ、と言うしかあるまい。

嘘だ、普通にとても恥ずかしい。

リアルはおろか、ネット界隈ですらコミュ障甚だしいなんて終わっている。

我ながらこの先の展望は絶望的だ。

みんなどうしてそんなに大勢フォロワーがいるのだろう。

どうしてそんなに人気者なんだろう。

聞いたところで、自分はそんなものになれそうな気は1ミリもしない。

やはり色々絶望的ではあるまいか。

 

 

 

坂口さんが、すっかり言われたい放題らしい。

前回から引き続きの話題で実に申し訳ない。

しかしながら、自分がつい書いてしまったことと、世間の反応に随分とズレがあるような気がしてしまうと、もうその時点で十分なテーマになってしまうらしいのだから仕方がない。

他にネタを探すのが面倒くさい、などと言ってしまったら身も蓋もない感じ、といった心境のようなことを言っている感じでもある。

 

“本当なら可哀想。でも何か裏がありそう”

“ていうか本当に彼氏? 営業じゃないの?”

“どうせお金に困ってるんだろうけど”

“生きるの下手くそかよ”

 

世間が想像するらしいことは全くもっともらしく、実に手厳しいんである。

 

 

 

そんな世間のみなさんがどうしたことか、“いいねに疲れた“と近頃口々にこぼしているらしい。

間違えた、流石にそれは言い過ぎた、いくらなんでも全員とまではいかないだろうから、これはほぼ100パー誇張と言える。

いや、100パーは流石にヤバくないか。

ありそうでいて、なかなか滅多にない数字ではあるまいか。

しかしながら、そう言い切っても角が立たないくらいには100パーな気がしている。

100パーではない確率ほぼ100パーがほぼ断言する100パー。

これってなかなか天才な感じのロジックではなかろうか。

我ながらヤバい発見をしてしまった。

いやそうではない、先人たちはそのことを”世の中に絶対ということはない“とシンプルに言い切っている。

流石である。

まごうかたなき100パー、あたしの完敗だ。

まさかの100パー、ゲット。

転んでもただでは起きないヤツ、と昔からよく言われる。

口だけは減らないヤツなのだ。

ざまあみろ。

 

 

 

世間は手厳しい。

それはどうやら100パー言い切れてしまうことらしい。

しかしながら、そんな100パーな世間が手厳しく指摘するSNSなる論調は、当然ながら全然100パー正解なわけなんかではなさそうなんである。

簡単なことだ。

世間の全員が、坂口杏里さんと直接関わった上で言っているわけではないからだ。

直接関われないからこその、”SNS

ソーシャルのネットワーク、それをもたらすサービス、ということらしい。

社会的な繋がり、それをもたらす効用や役割の提供、ということらしい。

それぞれの意味をググってみたら、何だかそういうことになった。

SNS“で直接ググったら、もっとシンプルな表現を知ることが出来るのかもしれない。

そう思うなら、何故そうしないのか。

 

簡単だ。

面倒臭いからだ。

 

 

しかも正直に言うとそればかりではないのだ。

あたしはわりと、和製英語っぽい表現や頭文字の羅列、それにまつわるいきがかりっぽいアテ読みとかそんな感じで澄まして流通される認識のようなことを、あまり真に受けたがらないところがある。

例えば近頃ならアレだ、“GSOMIA”

ニュースなどでは”ジーソミア“などと言われている、アレだ。

まじでムズムズする。

理由はわからないが、とりあえず何かがクソダサい。

なんでGだけジーやねん。

ジーエスオーエムアイエー“ってちゃんと言うてやらんかい何の忖度やねん意味わからんわ。

そっちのがメッチャ賢そうやん何の手加減やねんJASRACもJAWAもきっしょいねん何やそれ。

ちなみにJAWAは日本アームレスリングアソシエイションちゅうてつまりアレや、腕相撲の皆さんの集まりみたいなもんちゅうことなんやでしっかり覚えとかんかいボケェ。

もうええ、なんで関西弁やねん。

べしゃり暮らしにハマっとんねん悪いかボケェあれメッチャ泣けんねんで自分もちゃんと見たらんかいアホんだらボケェ。

 

 

クッソつまんないですね。

大森さんおっしゃるところの“クッソ生きてやる”煎じて飲まないとですね。

まったく惨めたらしいことで申し訳ない。

言わんとしていることはつまり、“ムズムズするし、でも面倒臭いし”というソーシャリズム、その吐け口にうってつけのプラットフォームを提供するサービスに100パー依存し切った手厳しさっぽさ100パー”といった感じのことに違いない気がしてしまうんである、ということなんである。

こうなると、世間には100パーがそこここに溢れているらしいと思う他になくなってくる。

もはや先人の面目丸つぶれである。

まったく偶然ながらヤバいことをしてしまった。

新人社会人の頃から目上の人間にあまり可愛がられるタチではなかった片鱗が、この歳になっても未だに垣間見えてしまう感じが恥ずかしい。

あたしのソーシャリズムこそ、遥か昔に崩壊しているという事実こそ超絶100パーなんである。

 

 

つまり、坂口さんは“坂口さん100パー”である、ということこそをあたしは言いたかったのだ。
世間が言わしめる“裏がありそう、騙されてるんじゃないの、お金ないの? 生きるの下手くそなの?”といった手厳しさっぽさ100パーに、坂口さんは、あるいは加護さんは“100パー自分らしく”当てつけられているだけに過ぎないのではないのか。

いちいち当てつけられても、“自分100パー”であるばかりの彼女たちにはすんなりとわかったような気がする余地など望みようもない、ということなのかもしれないということだ。

ジーソミア”という発音に飽かずムズムズしてしまうあたしは、“タクシー代を返して頂くことは何も悪いことではないので“という彼女の発言に、その報われなさを、世間の手厳しさっぽさ100パーをまんまと当てつけられがちであることに対する彼女自身の戸惑いを、何やら妙な親近感を抱きつつ想像せずにはいられなくさせられてしまうんである。

”GSOMIA“を”ジーソミア“と読んだからといって何も問題などないらしいことと、SNSにおいて手厳しさっぽさを手軽に表明してもそこそこ問題はなさそうな感じは似ている気がする。

やはりあたしはどこかアタマがおかしいのかもしれない。

世間がある意味蔑むかの如く振舞うらしい手厳しさっぽさ100パーを、然るべきソーシャルな意見と見なして平然と扱われがちなことよりも、そうして扱われがちな露骨な事態を悉く繰り返してしまう個人というパーソナリティのようなことに積極的に無念を認めることの方が、”ソーシャル“という効果を認めるには余程理解が近いような気がしてしまうのかもしれない。

 

 

あたしは”いいねに疲れる”ということが理解できない程度には、きっとズレているんである。

“生きるの下手”な人を、サービスな目線で眺めて“いいね”で計るなりソーシャルとして認知されることを目的としたがるなら、それは大層疲れることではあろうなあ、などと遠い目くらいはしてもいい気がしないでもない。

“裏がありそう”も“お金がない”も、それは事実とはまったく無関係らしく想像されながら計られて、大喜利らしく面白おかしくハマったらしいなら“いいね”というソーシャリズムによって健全に報われる。

“生きるの下手”と言われる人が、ソーシャリズムに当てつけられて尚且つリアルな個人としてすっかり疲れていることのほうが余程本当に“疲れた”という意識に近い気がしてしまうのだけれど、ニュースショーがソーシャルな現象として危ぶむらしいのは“いいねに疲れた”という手厳しさっぽさ100パーを認められたい世間の方らしく、あたしは所詮ズレまくった位置から何だか当たり前のように、“まじで言ってんのか”のようなことを普通に思ってしまうらしいんである。

 

欲しがっただけで、思い通りにいかないことに疲れただけではないのか。

欲しがったけれど、思い通りにいかないことを言い訳しても格好悪くない、といういよいよわけがわからないような空気が許容されてきたらしいことに、むしろ安心しているだけではないのか。

 

思い通りにはいかない“自分らしさ100パー”を繰り返して、お手軽なソーシャリズムに嘲笑われてしまう所詮タチが悪いだけの人たちは、本当にそれにふさわしく愚かしいばかりのものでしかないのか。

“いいねに疲れた”なんて気持ちには少しも交わりたくない所詮ズレているだけらしいあたしは、そんなもの全然信じられない感じ100パーなんである。