アラズヤ商店

日々のナマキズ

気付くとスマニューでヘンな漫画を読んでいた

あたしには価値がない。

 

我ながら、なかなか衝撃的な書き出しだ。

しかしながら、それは疑いようもない事実なのだから、むしろ言わなければ何だかもったいないような気がしてしまうのだから人間というものは不思議だ。

何なら人生ずっと、不思議なままでいてほしいとすら思っている。

 

 

今日も働こうか働くまいか悩んだ結果、何もせずに朝作ったみそ汁の残りを昼に飲んだりなどしている。

ご飯を作る気力がないので、おかずは先日親戚から送られてきた梨である。

デザートではなく、おかずと言い切ってしまうあたりにあたしという台無しさがナチュラルに駄々洩れてしまう。

せっかく親戚が送ってくれた季節の実りの価値も台無しである。

 

 

スマートニュースの記事が、異常につまらないのだ。

もちろんそれは、あたし個人の主観に過ぎないのだから腹を立てたり価値のないリークで正体不明のあたしのような人間の足場を危うくさせたがるようなことを企むのはやめていただきたい。

そんなことには塵ほどの価値もないことくらい、小学生でもわかることだ。

すまないが諦めてほしい。

 

 

朝よりも深みを増したみそ汁が旨い。

そのせいでこうして記事もサクサクすすむ。

中身が空っぽなのが玉に瑕だが、書いては消し書いては消し、軽く鬱っぽくなってふて寝した午前中の自分がまるで嘘のようではないか。

ビバ自分。

ムラッ気の天才気質と昔からよく言われる。

ビバってなんだ。

しかしながらたぶんそういうことなのだろう、午前中のあたしの天才バイオリズムはオシロスコープ的俯瞰においてトリガーを下回る位置にあって、その最底辺においてふて寝したものと思われる。

まるで冬眠するクマのようではないか。

正直すぎて自分がなんだか可愛くすら思えてくる。

適度に自分を愛でる心構えは精神の安定に欠かせないことだから、遠慮なんていらない。

気分を高らかに歌い上げつつ街を闊歩する趣味などないから心配はいらない。

そんなことをして一歩間違えれば、デジタル金魚の藤川さながらに凍死しかねないとも限らない。

危ない危ない。

 

 

空っぽなのだ。

あたしのブログもなかなかのものだが、スマニューのトピックもなかなかに空っぽ甚だしい気がして仕方がないんである。

何もテーマなく書き散らすブログ書きとしては、日ごろからネタ探しの一助として活用させていただくのだが、努めて記事を熟読することはむしろ避ける意識にある。

平易な表現で端的な事実を簡略に伝える、まさにライター技術の賜物ともいうべきフックのかけらもないスマートな書き筋が、何だかすっからかんなのだ。

 

当たり前だ、キュレーションの記事は小説ではないのだ。

 

リーダビリティに優れた文章というものは、サクサクと止めどなく読み進めてしまうものだ。

スマニューを読み始めると、各タブを総ナメにしつついつの間にか漫画タブでやけにシュールで落書きみたいな漫画を読み耽っていたりする。

言うまでもなく、ふて寝する寸前のあたしのことだ。

結局、目ぼしい記事にはありつけぬまま、廃人のごとくヘンな漫画を読み耽ってしまう働かないおっさんを想像してみてほしい。

生活保護受給資格なんて、そうそう簡単に与えてはならないようなありさまである。

 

 

今日はなんだか、miwaさんが叩かれている。

萩野くんを軽くこすりつつ、悪いのは妊娠したmiwaさんばかりのような気運が強い印象だ。

さすがアスリート、オリンピック近いもんな、イメージ大切だもんな、守られてんな。

おめでたいにしても何もこんな時期にこんなタイミングで、などとディスられている。

残念ながら、何を言っているのかあたしにはまったく意味がわからない。

萩野くんに恨みも嫌悪も何もない、でもどちらかというと、大也くん推しでいたほうが日本人的にドラマにありつけそうだ、などとそれこそ好き勝手なことを考えている。

何しろ二番目的なほうが、肩入れしやすいのが日本人の習性というものだ。

勝手に二番にするなと言われてしまいそうだが、そんな欺瞞を自ら着込みたがることもなかろうお節介ども。

女子フィギュアだってそうだったではないか、世界フィギュアのタイミングにおいてランキングで上位にいた坂本ちゃんより、メディアは紀平ちゃんを盛大に扱いたがっていたではないか。

あれだけ囃し立てた真凛ちゃんはもうダメだとでも言うつもりなのか。

宮原さんの才能のごとくパッとしないあの不遇ぶりは一体どうしたものか。

 

 

ヤバい、壮絶に気色悪く脱線してしまった。

 

 

無意識とは、恐ろしいものなのだ。

気が付けば脱線しているし、ヘンな漫画を読み耽ってしまう。

もしかしたらそれは、まんまと思う壺、ということなのかもしれない。

スマニューの当たり障りのなさ、主観の入り込まなさはつまり、思う壺ということなのかもしれない。

壺だ。

偶然すごい発見にたどり着いてしまった。

”スマニュー、壺説”

ちょっと話題を読みかじるだけのつもりが、サクサクと読み耽るうちにヘンな漫画まで読まされている。

つまり、ド壺。

 

 

リーダビリティだけに優れた空っぽの壺。

何だかアレに似ている。

あたしの熱心なファンならもうお気づきのことと思うが、熱心なファンなどそもそもいないからいちいち言わなければならない。

”行列”だ。

あたしの大嫌いなやつだ。

空っぽの壺で一先ず用が足りてしまうらしいことと、タピオカ飲みたいは似ている。

ヘンなことを言い出して、実に申し訳ない。

しかしながら、どことなく漂う”とりあえず感”のようなそれほど理由など必要としなそうな感じが、一過性であることを承知の上でサクサクしていやしないか。

大体わかればそれでいい。

流行ってるならそれでいい。

 

それでももちろんいいのだけれど、おっさんにはなんだか物足りないんである。

タピオカ飲みすぎて手術する羽目になったタイだかベトナムだかの人、まじで自分なさすぎみたいで切なくないですか。

素直ってことなんですか。

どうでもいいまじで。

 

 

まず結論を書いて、その根拠を示す。

端的な具体例を挙げて説得力を持たせ、納得させたら念押しとしてもう一度、結論を述べる。

 

上手なブログ記事の書き方、といった指南は大概こんなことを言っている。

気になるワードに紐づけてたどり着く読者にはこの上なく親切な文章設計ということなのかもしれない。

けれど、あたしはそんなことはどうでもいいと思っているのだ。

そんな風に手取り足取り世話を焼いてもらってようやく読める人なんて、大概熱心ではない人ばかりと相場は決まっていそうなものではないか。

あたしが何とかペッパーやなんちゃらログを情報と思いたがる人を嫌うのと少しも変わらない理由だ。

 

成功法があって、それを皆が知りたがって実行すれば皆が上手くいくかといえばもちろん世の中はそんなはずもなく、やりたくもないあたしみたいな人間はようやく重い腰を上げて仕事に行くか、などと思い立つ頃合いなのだ。

働くよりも、成功法からはみ出した無駄な長文に掛ける時間のほうが余程長いのだから、人生はもはや絶望的な見通しですらある。

 

 

あたしには空っぽとしか思えない記事には思う壺ほどの価値があって、半日悶々としながら書き上げるあたしの空っぽなブログには当たり前らしく価値がない。

近頃に至っては、あたしの周辺から如実に人が離れていく気すらしている。

やはり価値がない、という証左かもしれない。

 

 

不安になって、寝起きにいきなりスマホで”人が離れていく”というまるきり地獄みたいなワードでググってみた。

”嫌われる人の原因3選!”みたいなやつはとりあえずシカトした。

どうせ心の毒にしかならないし、指摘されたところで人間なんてそんなに器用に変われるものとも思えないからだ。

あたしのことが嫌いなやつなんて、あたしは嫌いだ。

たぶんそういうところだ、ということくらいわかっている。

”人が離れるときは、人生のステージが上がる時だ”といった向きの記事も目に付いた。

三つくらい読んでしまったが、胡散臭くて読み応えはなかなかのものだった。

すっかり満足した。

 

 

結論、あたしはもしかしたらとてもヤバいステージに上がろうとしているのかもしれない、という気付きにまんまと行き着いた。

気付きのある、とても価値のある記事だと思う。

少しは見習いたいものだ。