アラズヤ商店

日々のナマキズ

日本語は便利で曖昧だからやさしくてもムカつく

人に思いやられている。

 

自分で書いておきながら、複雑すぎて考え込んでしまいそうな言い回しだ。

文章を分解して解説したくなるが、そんなことは面倒だし、思考の不調に追い打ちをかけるだけでしかなさそうなのでやめておこう。

自分で書いておきながら、びっくりしてしまうではないか。

不調だったのか、あたしは。

不調だなんて、なんとも自惚れた自意識ではないか。

そもそもあたしは人生そのものが不調といえば不調なので、そんなことは今さら気にしたものでもなんでもないのだ。

そんなことより、新しいPCのキーボードに全く慣れない。

タイプする指の感覚が完全にipadの間隔でマヒしている。

しかしながら言っておくが、”感覚”と”間隔”は誤変換ではない。

さすがのあたしもそこまでトンマにマヒってはいないのだ。

 

 

友人の髪を勝手に切ったら、”似合わない”とかなんとか色々とブツクサ言われた。

ナチュラルなくせ毛の動きに合わせて切っただけなので、そんなことは知ったことではないんである。

普通にイラっと来たので「この方が普通だし自然だ、ヘンなパックリ分けのアタマはやめたまえ」と全然お節介でも迷惑でもなんでもないことを言ってあげた。

 

またしても「似合わないんだよ」ときた。

 

「頑固か」

あたしにはもはやそうとしか言いようがなかった。

実に当たり前のことだ。

面倒くさがりが無造作にかき上げてヘンな風に跳ね散らかすパックリ分けを前提にして切ることも、それが要望ならしかと受け止めてお応えすることもプロといえばプロなのかもしれないが、そんな気持ちの悪いことをこの先もお応えし続けるなんて御免なんである。

そんな”プロフェッショナル”なんて、まっぴらなんである。

 

「おまえだっつうの」

友人は遠慮がないんである。

もちろんあたしも遠慮するつもりなど、これっぽっちもない。

 

 

人生、道半ばなのだ。

また急にヘンなことを言っている。

いや、そうでもない。

目の前の道を左に曲がるはずのところを右に行ってみたところで、目的地にたどり着けないことのほうが実際には少ないものだ。

つまりあたしのよくやらかす急な感じはそんな感じに過ぎないはずだから、驚いたり戸惑ったり、やさし気に思いやって付き合ってくれるみたいな感じを出すのはもう、やめてほしいのだ。

おわかりいただけるだろうか。

これもあたしがよく言うやつだ。

 

 

道半ばどころか、結構後半戦に踏み込んでいる気すらしている。

何しろあたしは年金などちっとももらいたくないくらいのタイムテーブルでの人生設計なんである。

ウチのネコは現在9歳で、あたしはその死に顔を見たくないと思っている。

そんな感じのタイムテーブル、ということだ。

さすがにそれは生き急ぎすぎとも思うのだし、あたしがいなくなってはネコは恐らく無事には生きていけそうにはないので、とても辛い気はするがその生涯を常に安心のもとに過ごさせてやりたいものだ、くらいの覚悟や思いやりのようなことは惜しんではならない気がしている。

つまり、あたしの人生設計というタイムテーブルは若干伸びることになる。

 

伸びるのだが、あまり興味はないんである。

実に生意気なことを、下手をしたら守護霊様に殺されかねないようなことを言っている。

興味がないはずはないので、真に受けないでほしいんです守護霊様。

我ながらそんなに期待するほどのことでもなかろうぜよ、くらいのつもりで言っているだけなのだ。

そんなあたしがあたしとして、近頃は人生の設計変更のようなことを企んでいることを知る人は案外少ない。

あえて言わないが、そのことを件の友人に話してみた。

 

「そっちのが向いてんじゃねえの」

 

「向いてんじゃね」とヘンなイントネーションで言わなかった友人は、もはや立派な大人である。

けれど何だかあたしは思ったのだ。

 

”似合わねえやつに切ったから、ヘタクソとか思ってんだろおまえ”

 

あたしは常に子どもじみているから、仕方ないんである。

だからといってそれにしても、友人のその言い方がなんだかあたしはとても突っかかったのだ。

突っかかって、何か言わなくてもいいことを言ってしまったのかといったら、そんなはずはないんである。

遠慮はないが、無遠慮に腹を立てたがるほど距離感に疎いつもりもないのだ。

それよりむしろ、何だか嫌な感じがしたということなんである。

友人のその調子はなんだかやさし気で、思いやりじみた言い方のような気がしたからだ。

あたしの15年のキャリアが、友人による思いやりっぽさのようなものにまんまとナメられまくった気がしたんである。

やっぱヘタクソと思ってんじゃねえか。

所詮そんなことを思ったのも、やはり嘘ではないのだ。

 

 

知ってはいたが、あたしの人生は友人のやさし気な思いやりのごとく、ナメられたものなんである。

それに純粋に腹を立てるつもりなど毛頭ない。

友人にナメられるまでもなく、あたし自身が誰よりもナメているからだ。

あたしはあたしなりに考えて抵抗し続けてきた結果、こんな感じなのだから、仕方がないんである。

 

”よしよし”と、”やれやれ”の二種類が存在するのかもしれない。

あたしはあたしのナメられがちな人生に”やれやれ”とすっかり思いやられつつ、せめて”よしよし”と思いやるフリでもしながら自らを誤魔化して、今日もダラダラと暮らしている。

相変わらずあまり働く気がない。

そんな自堕落なやつを思いやってくれる者など、あたし以外にいるはずはないのだ。

要するに、あたしはダラダラと生きる自分を救済することばかりに未だ精一杯、発展途上も甚だしい有り様なんである。

我ながら何だかすげえ思いやり方だ。

けれどそんな見苦しいような自惚れすら投げ捨てて、手首を切ったりヘンなクスリにやたらと詳しくなるようなくそダサい自己愛じみた生き方よりは、余程マシだとは思っている。

迷惑甚だしいことこそ、承知の上なんである。

これでもけっこうコソコソ暮らしているのだ。

それはそれで、案外楽ではないんである。

 

 

友人は、”やれやれ”をベースにして”よしよし”を放り込んできた気がするのだ。

何しろあたしのろくでもなく波乱万丈な人生をよく知っているのだから、そんな気がしてしまうのもわからないでもない。

あたしは友人に”思いやられている”と感じたらしいのだ。

 

 

何だかたくさんの”思いやり”の種類を書いてしまった気がする。

たくさんの、と言いながらその区別が果たしてあるものなのかどうかは、実はあたし自身もあまり判然としないながら書いているのが正直なところだ。

判然とするなら、ムカついてケンカの一つも仕出かすのではないのか。

そうまではしないまでも、ヘソを曲げたりしたものではないのか。

何しろあたしは遠慮がないから、その区別には一定の判定基準が存在し得る気がする。

 

 

「なんでも思いついたことをやってみるのはいいことだよな。勉強でもなんでもさ」と友人はらしくもないことを恐ろしいほど年寄り臭く言った。

しかも余計なことまでも、遠慮なく言いやがるのだ。

「まあ結局、何するにも結果出すのは地アタマのいい奴って決まってんだけどな」

 

 

やっぱりお前、ナメてるべ。

あたしは思ったんである。