アラズヤ商店

日々のナマキズ

何かのせいにしてしまいたい嘘ばかりのこと

友だちがいない。

 

唐突に深刻なことを言ってしまうのは、もうほとんどクセのようなものだと思って諦めている。

諦めきれないばかりに普通に友だちがいる感じを装いつつ、連日の残暑の下似非友人にすがりながら心の脂汗を吹き出している自分の姿を、精神状態を想像してみてほしい。

よほど楽ではないか、正直に諦めてしまったほうが。

 

 

今に始まったことではない。

人生ずっと、あたしには友だちというものがほとんど存在していた記憶がない。

一緒に登下校したり、教室の一角で戯れたり、部活動に勤しむ、そういう仲間は確かにいないこともなかった。

けれど、小学校の修学旅行はほぼほぼ記憶にないし、中学の修学旅行は班分けが最悪で、仲のいい子が一人もいないうえに当時好きだった子は一緒、という地獄で花を摘むようなヘヴィーな三日間を強いられ、記憶の自己防衛らしく無意識のうちにも積極的に忘れたがったのか何なのか、具体的な記憶はやはり覚束ない。

修学旅行 is Hell

そればかりではない、席替え、給食、委員会、当時の学校生活の至るところに、あたしの些細な地獄は潜みまくっていた気がする。

水泳が嫌いだった、というかそれ以上にスク水が嫌いだった。

ご飯給食のコメがいつも柔らかくてムカついた。

名簿が一番後ろだったせいで、まだパンツ姿でいるうちに女子たちがゾロゾロとなだれ込んでくる地獄は月一で訪れた。

あたしはけっこう、順応出来ない子どもだったのだ。

近頃の教育現場は、どうなのだろう。

現代の順応できない子どもたちのことが気がかりだ。

あたしはただの面倒で内気なだけの子どもだったのかもしれない。

近頃のちょっと面倒な感じの子は、すぐにASDだのADHDだのと頭文字で名付けられて、文字通り要するに何なのかよくわからない気質らしくカテゴライズされて、時と場合によって足りたり足りなかったりするよくわからない生物らしく扱われがちで、何だか大変そうだ。

あの子、何だかヘン。

そんなあたしを今風に言い換えるなら、”ANH”ということになる。

明日には忘れてしまいそうな頭文字語ではないか。

All Night Hokkaido

何だっていいのだ、そんなことは。

 

 

 

そんな人間でも、あした幸せになりたいようなことはやはり考えるのだ。

もちろん、あしたはおとといであったのだし、昨日であり、今日、また明日ですらある。

つまり、毎日しあわせになりたいと思っている。

あたしに限ったことではない。

幸せになりたくない人間など、いるはずがないのだ。

そうしてあたしも粗末なりになりたいしあわせに向けて努力をしているのだ。

あなたが知らないだけのことで、あたしはけっこう頑張っている。

もちろん、その基準はあたしによるもの。

あたしスケールに従ったものには違いない。

 

一日の勝負は、朝にあると思っている。

起き抜けに、ストレッチと筋トレを欠かさない。

鍛える目的ではなく、単純に腰痛持ちだからだ。

努力の甲斐あって、近頃はくしゃみをしても腰が砕けることが少なくなってきた。

タイミングにもよるが、くしゃみっぷりが確実に頑丈になりつつある。

くしゃみ is easy

地味に最高だ。

ここ数年、くしゃみはシンプルに恐怖でしかなかったのだから、この喜びはデカい。

それを済ませると、すぐに朝食の準備&弁当作りが始まる。

朝のキッチンは段取りが命。

最高のボケ防止である。

冷食は使わない。

最低三品は作る。

野菜、彩りに気を配る。

なぜなら、あたしは古い日本人だからだ。

魯山人は知らない、けれど美味しんぼミスター味っ子も知っている。

食というものに、何だか余分な要素を注ぎたくなるジェネレーションということだ。

オイスターソースさえあれば、味付けなんかどうにかなると思っている。

割と乱暴な味覚だが、不味いとは言わせない。

傷ついてしまうからに決まっているだろう、馬鹿なのかいキミは。

 

 

食事と弁当の準備が済んだら、食う、ではなくなぜか掃除に突入する。

武士は食わねど高イビキなのだ。

ちがう、クイックルワイパーだ。

ハンディタイプの掃除機とクイックルワイパーを携えて、仏壇、テレビ周りを手始めにリビング、キッチン、廊下、寝室と床を這いまわる。

我が家は狭い上に短毛のネコが暮らしているから、抜け毛の量がハンパではないのだ。

掃除機の充電が一回で空になるほど吸いまくってひとまず終了、間髪おかずにネコのトイレ掃除、当日に該当するゴミ出しとスケジュールは枚挙にいとまがない。

トイレ掃除にはマジックリンではなく、クレンザーを用いる。

長らく暮らすうちに、液体ではぬぐい切れない黄ばみが染みついてしまうのは致し方ないこととはいえ、許せないからだ。

すげえ固めのスポンジにクレンザーをまぶして便器だろうが何だろうが立ちどころに素手でガシガシと磨き上げる。

ドラマ”とんぼ”の長渕式だ。

さすがに便器を舐めるようなことはしないが。

風呂はいつも上がるときに洗ってしまうので、朝の掃除における注目度は案外低い。

髪の毛とか張り付いていなければ基本オッケー、と思っている。

行動にも心にも手抜きがあってこそ保たれるのが精神の正常というものなのだ。

あたしの掃除のあまりの勢いにすっかり怖気づいたネコが寝室の隅で小さくうずくまる頃ようやく一息、朝食となる。

 

ルーティンなどと言うつもりはない。

毎日長渕式なんて怠け者のあたしには土台無理に決まっている。

しかしながら、その日の精神というものはすでにそんな瞬間に決まってしまうもののような気が、何となくしないか。

そんなことを理由にあたしはここ二、三日というもの、すっかり心が死んでいるのだ。

死にたい、くらいのことは人間ならいつでも思いものではあるまいか。

しかしながら今朝辺りは、歯を磨きながら風呂場のシャワーの当たりを眺めながら、首を吊るのに具合よさそう、などといったことをつい想像してしまう自分がいたことを知っている。

賃貸暮らしとしては、反社会的破滅思想だと自覚している。

”死ぬ”ということは、そんな堅苦しい一般常識を乗り越えた先にコロリと転がっている程度のものなのかもしれない。

そんな気がした、ということだ。

一線、とかいうやつだ。

 

 

実にくそ間抜けな気分のせいで、ここしばらく続いていたはずの隔日スケジュールのブログ更新さえ途絶えさせてしまった。

今日も書きたくなかったが、書かないと余計にシャワーを見つめてしまいそうなので必死に書いている。

かなりどうでもいいことばかりだ。

言っておくが、メンヘラではない。

割と興味がない感じになりがちな性分なだけだ。

朝からけっこうひっつめて暮らしているのだけれど、あまりいいことがない、というよりはむしろ嫌なことばかりが続けざまに巻き起こっている気がしている。

 

とてもお世話になった、口が悪くて心が優しすぎるべらんめえみたいなおばあちゃんが亡くなられた。

さんざんお世話になったお客さんで、ちょっと参っている。

いつかも軽く死にたくなったときに、本気で叱ってくれたおばあちゃんだ。

 

「あたしが死ぬまで、ちゃんと髪の毛切ってくれや、頼むで、馬鹿なこと言うもんじゃないでっ」

 

呆気なく、役割が終わってしまったのだ。

せっかく頂いたはずのお叱りが、すっかり台無しだ。

わかっているのに、何だか調子が戻らない。

少し、家庭でも問題が起きがちなこともあるのかもしれない。

朝から根を詰めたように掃除しまくって、何とか清々したような気になるしかないなんて、何だか才能がなさすぎてあんまりな気がしている。

 

 

近頃、いろんなことで評判が悪い。

あたし自身のことだ。

そんな気がしているということなのだけれど、身に覚えがなければそんなことは思うはずはないのだから、たぶんあまりよくない気がしている。

そういうことを何度も何度も乗り越えて、気が付いたらいい歳になってしまっていたのだから、これもそのうちに過ぎ去るだけの退屈みたいなものだと思っている。

 

けれど、そんなことすらどうでもいいと思いたくなるくらいには、すっかりいい歳になってしまった気がしている。

そのくせ、何もない。

そういうことを理由に、例えば”しあわせになりたい”などと願ってしまうのは、やっぱり何かが違う気がしてしまうのだ。

全然やる気がしないのに、相変わらず気分ばかりが忙しないのだ。

掃除ばかりに囚われることも、何だかケチ臭い気がして何だか嫌になってきている。

 

年末の大掃除など思いつくまでもなく清潔に一年を終えられることが、今年の目標だったはずなのだ。

何だかちょっと、調子が狂ってしまったみたいで情けないのだ。