アラズヤ商店

日々のナマキズ

”めんどうくせえ”は、たしかにめんどうくせえ

”矢継ぎ早”

 

意)続けざまに素早く事を行うこと、さま

 

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矢継ぎ早に、さまざまなことが起こりまくっている。

 

”矢継ぎ早”などと言いながら、実はそれはあたし自身が何某かのことを続けざまに行っているのではなく、続けざまにさまざまなことが起こりまくっているだけなので、少なくともその様相は能動ではなく、受動的であることに間違いはない。

 

 

そんなときに思い浮かべがちなワード。

 

”めんどうくせえ”

 

実にいい響きだ。

その一言で、すべてのことをうやむやにしてしまえそうな、それでも全然平気でいられそうな若い予感がムンムンと溢れている。

布団をほっかむりしてふて寝するのび太より、ややもアグレッシブで傲慢かつ繊細な割り切りの気配。

 

全然、友だちになれそうな気がしない。

 

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そう、お友だちにはなれそうにないのだ。

 

時間とともに、人はやはり臆病になるものらしい。

”臆病”と”めんどうくせえ”は、相いれない性質であることを知るらしいのだ。

しかもその性質は結構ギリギリの境界線上にあるらしいから、あたしにはまだ過ごし足りない時間がお控えなすっているらしい。

 

もちろん、あまり気乗りはしない。

何しろそんなことは、”めんどうくせえ”からだ。

 

しかしながら、長らく時間を過ごすからには”めんどうくせえ”だけを理由に、けっこう散々な目に合うことは少なくなかったりするものなんである。

 

あたしはそんな”散々”を過ごしてきた典型みたいな生物である自信が、かなりある。

まさに散々な人生を、今現在も過ごしまくっているのだからその実感はかなりのものなのだ。

 

 

”めんどうくせえ”は、誰にも聞こえない

 

”誰か助けてっ”と叫べば、この世はけっこう助けてくれるものらしい。

らしい、というのはつまり叫んだことがないからで、でも、そうらしい気が何となくしている、ということに過ぎない。

街を歩いていて、”助けてっ”なんて悲痛な声が聞こえたとき、聞こえてしまったとき、あなたならどうする。

 

あたしは何も出来ないが、傍観していられるだけの潔癖さも、たぶんないのだ。

ただ、オロオロする。

見過ごせないだけで、ただオロオロして見せる。

何も役に立たないけれど、薄情に見捨てることはできないイイ人、のフリをする。

 

冷たい人と思われたくない自分のためだ。

 

”助けてっ”は、あたしを試す究極の選択問題なのかもしれない。

 

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”助けてっ”と叫びたくなるときくらい、いくらでもある。

何しろあたしは超ド級の臆病者だ、何事にも耐性がない。

すぐに音を上げたくなる。

”めんどうくせえ”なんて、弱弱しく強がりたくなってしまうのだ。

 

しかしながら、”助けてっ”と言ったことは実はない。

案外コソコソと、あらゆる困難をかき分けて今日まで生き延びられている。

我ながら、案外しぶといところがあるらしいのだ。

それがいつも偶然みたいな感じであることももちろん否めないのだが、”助けてっ”とはまだまだ言えそうな気がしなかったし、”めんどうくせえ”なんてことには誰も耳を傾けるはずもないことくらいは知っていた気がする。

 

本当に助けてほしいときには、ちゃんと助けられてきたことこそもちろん知っている。

 

 

馬鹿にすら、”経験”というものは態度や学びを与えるものらしいのだ。

そんなことを、今頃になっていよいよ実感しているのかもしれない。

かなり、ひしひしと。

相変わらずギリギリではあるけれど、偶然らしくなくかき分けて進んでいる。

そんな実感が何だかすごい。

 

”実感”が伴うということは、何かしらの”働きかけ”のようなものがあることに、あなたはお気付きだろうか。

そうなのだ。

偶然ばかりでもなく、あたしはハックしている。

 

そんなつもりもなくはない、ということだ。

 

 

努力や行動ばかりでもないこともある、のかもしれない

 

”かき分ける”などと言いながら、実はあたしはそんなに無理をしていないことを知っている。

自分のことなのだから当たり前だ。

 

あたしは近頃”矢継ぎ早”にさまざまな事象に追い立てられている気がして仕方がないのだけれど、実はあまり頑張っている感じでもない。

もちろん、そんなさまざまな事象のそれぞれについて、あたしは真摯に対処していることは間違いない。

めっちゃ大変なんである。

いや、それほどでもないか。言い過ぎた。

 

大変なのだけれど、予期するほどにはどれもこれもが大したことなく切り抜けられている気がしている、ということなのかもしれない。

しかしながら、それはなぜなのか?

なぜ、大したことなく切り抜けられている気がするのか。

 

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あたしは近頃、とみに心掛けていることがあるのだ。

 

それは、”気にしない”ということだ。

 

言い方は何でもいい。

”何とかなる”でも、”なるようにしかならない”でも何でもいい。

つまり、努めて楽観的であることを常に心掛けるようにしている。

ともすればそれは、とても無責任な態度のように思われてしまうかもしれない。

しかしながら実際には、重苦しく思い悩むことなく、要件に対する対処も素早く、事態そのものこそ順調に推移している気がするのだ。

そんなことが、”矢継ぎ早”に巻き起こりまくっている。

結構へとへとで、夜は爆睡どころではなく、猛爆睡である。

そんな言葉、聞いたことない。

 

しかしながら、元来考え込みがちで心配性の真性ネガティブマインダーであるあたしにとってそれは、”事件級”ともいえる大転換のような気がしてしまうのだ。

 

”思い悩むほどにも現実は、それほど困難なものでもない”

 

近頃あたしは、マジでそう思っている。

考えなくてもいいから、動いてしまえば案外どうにかなってしまう。

努力も覚悟も結構だけれど、まずはシンプルにやるべきことをやる。

 

そうして何だか、ネガティブなあたしは近頃やけに軽やかに事態を乗り越えられている気がしているのだ。

 

 

がまんくらべみたいなのだ

 

そんなあたしを畳みかけるかの如く、事態は矢継ぎ早に何ごとかをけしかけてくるらしいのだ。

未だに予断を許さない状況は続いている気がしている。

何が待ち受けているのかは、ちっとも心当たりはないのだが、あたしの人生は常にけっこうそんな感じなのだから、それはもうほとんどクセみたいなものだ。

 

いちいち滅入ってもいられない。

 

というか、滅入るほどでもない、というマインドを掴んで離さないことに努めている。

それはあたしという人生の”クセ”のようなものとのがまんくらべみたいなものなのかもしれない。

 

実際の事態がどうなるかは問題ではなく、そういったことに気持ちを飲み込まれてしまったら何もかも上手くいかなくなってしまいそう、という確信だけがある。

あたしはつまり、その確信に徹底的に従っているらしいのだ。

 

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そういう態度のようなものが、たとえ偶然であっても、むしろ偶然らしく引き寄せてくれるものは絶対にあると思っている。

 

 

自分が一番、信用ならんのだ

 

信じていい自分と、絶対に信じてはいけない自分がいる。

しかしながら残念なことに、あたしは”絶対に信じてはいけない自分”のことの方が圧倒的に好きだったのだ。

 

”好き”とは、とても楽ちんなことだ。

なにしろ、疑いたくないし心地こそいいから、信じたいのだ。

裏切ることこそおっかない。

しかしながら残念なことに、あたしは元来の”ダメ女好き”だったりするんである。

わがままな女の子って、まったく女の子っぽくてキュートじゃないか。

 

あたしは、やっぱり馬鹿なんである。

 

 

馬鹿なので、”絶対に信じてはいけない自分”のことを信じてもいいことにするために、もっとシンプルにやるべきことがある、ということにちょっとだけ気付いたのかもしれない、と生意気にも思っているのだ。

 

やりたくないことは、案外それほど面倒でもない。

いや、なかった。

過去形にすることが、案外キモのような気がしている。

 

つまり、ダメなものですら突き通せるために、やるべきことこそをシンプルに信じて早いところ片付けて、ダメなものをダメばかりでもなさそうなものにする余裕を蓄える。

理由を埋める。

それは、無駄なメンタルを消費しないことと案外無関係でもない気がしているのだ。

 

 

”やりたくない”という自分は、信用ならん。

なぜなら、それは”好きなもの”を守りたがることでしかない気がしてしまうからだ。

 

好きなもののために、無理せず共に戦う。

ただ生きていくだけなら、それは案外そんなに大変なことでもなさそうだ。

 

そんなことを思いながら、割と慎重に、しかも楽観的に”がまんくらべ”に挑んでいる。