アラズヤ商店

日々のナマキズ

目に見えるものなど、目的のうちにも入らん時代だ

長らく商売で生きてきたけれど、自分には商才なんてものはカケラもないことはいい加減に理解しているし、自覚こそ果てしなくしている。

 

何なら、実は商売に対して歯を食いしばるような思いで取り組んできたつもりこそ、ツメの先ほどもないのかもしれない、とすら思っている。

 

だからと言って、何もぐうたらと怠け通してきたつもりはないのだし、むしろそれでこの十五年を何とか生き抜いてきたということなら、ある意味商才以外の何かの天才かもしれない。

 

実力も実績もないが、自己評価だけは異様に高いタチだ。

運命線は切れ切れにボヤケまくってはいるけれど。

 

 

近頃、お店の壁にお客さんと絵のような、落書きのようなことをしまくっていて何となく思ったことがある。

 

「絵、描いてってよ」

 

と差し向けると、大概の人は「ええー、無理だよ。絵心ないし」と似たようなリアクションを返してくる。

まあ、当たり前というか、ほぼ常識的な反応ではあると思う。

 

けれど、その先が問題のような気がするのだ。

 

 

「絵心ないし、無理ムリぃ」

と頑なに拒否し続ける人と、

 

「えー、まじで? いいの? テキトーだよ?」

なんて言いながら、渋々描きながらだんだん楽しくなってきてしまう人がいる、ということだ。

 

今のところその割合は2:8くらいの感覚でいるから、案外アクティブな反応を示してくれる人が多いことをとても嬉しく思っている。

もちろん、2割の人の中には本当に絵を描くことに自信がなくて、恥ずかしいと思っているだけの人もいるのかもしれないし、あるいはまだこのお店と、その主人であるあたしとの距離がまだそこまでアクティブなほどではないと感じられている人もいるのかもしれないから、そこはこちらの鋭意努力が必要ということに違いのないのだとも思う。

 

そして同じ意味において、商売としてではなく、商売に歯を食いしばって挑んできたほどでもないと思っている人間として思うことは、2につくか、8につくか、という人生の選択のようなことだったりもするのだ。

 

「絵心ないから」

 

という謙虚さは、ある意味良識に近い謙遜という距離感、あるいはマナーのようなたいどであることは、さすがにあたしのような人間でもわかるのだ。

けれど何となく思わずにいられないのは、時代は常に移り変わってゆくものだ、というざっくりとした感覚のようなもので、例えば「絵心ないから」という謙遜は、受け止め方次第では、他者に対する自己設定欲求の高さを無自覚に白状しているような、いささかバランスを崩しつつある、ある種の時代性の欠如のようなことを思いつかずにはいられなくさせられるのだ。

 

誰でも自由に発信できる時代、と言われて久しいのだけれど、SNSに溢れかえる”発信”なるもののほとんどを”発信”などと受け止めている人はそうはいないはずで、そのほとんどはただの自己表現欲求のあられもない姿でしかないことくらい誰でも理解しているはずなのだ。

 

みんな、自分のこと知ってほしい。

承認してほしい。

 

そんな程度の欲求など、”時代”という単語にひとくくりにされて所詮何の価値もない”時代”において、個人が即興で仕出かす絵だの落書き程度のものに、例えば”絵心”なんてものを必要としたがるなんてことはある意味、ナンセンスでしかないような気がしないでもないのだ。

 

むしろ肝心なのは、「描いてってよ」と差し出されたら、「マジで?! いいの?!」なんてさっさと真に受けて楽しめてしまう、つまりそんなノリの良さがあるのか、ないのか、というその単純な分岐が今とかこれからという時代に対する適性のようなものを如実に表すような気がするのだ。

 

上手下手を期待するのもされたがるのも、何だか窮屈な話ではないか。

単純に、そんなことに一体どんな価値があるのか、意味があるのか。

 

大抵の大人は、絵なんか描かない。

そんなことを言っているあたしこそ、中学の美術の授業以来、絵など描いたことはただの一度だってないのだ。

けれど、何だか絵を描きたくなったのだから不思議なものなのだ。

しかも、自分ではなく、お客さんと描いたほうが絶対楽しいだろう、という端からそんな魂胆込みでのことであることも白状してしまうのだ。

 

描いてみなければわからない。

けれどそれは、上手下手の話ではないのだ。

絵なんか描けそうにないけれど、それにしても思い切って描いてみたら一体どんな気持ちになるのか。

それは目的ではなくただの偶然でしかないはずなのだけれど、そんな偶然に自ら出向く”遊び心”があるか、ないか。

それはこの先の時代に生きる人間としての適性のようなものを大きく分ける一つの理由になるような気がしているのだ。

 

”絵心”なんてなくても、”遊び心”があれば、何だか楽しい。

 

そういう些細な発見には、けっこうな価値があるような気が何となくしている。

だからやはり、全員のお客さんと楽しめるように、もっと、歯を食いしばるわけではないけれど、楽しい商売は企まねばな、とは思うのだ。

 

f:id:arazuya:20191220111527j:plain