アラズヤ商店

日々のナマキズ

いい一年でした。惜しむつもりもない。

明日は、クリスマス・イブだ。

 

のっけから意味のないことを確認してしまう。

無自覚とは恐らくはそういった感覚に違いなくて、つまり、時事ネタとかイベントネタとか、その時々で誰もが普通に思い浮かぶようなことの大概は、そんなに面白くなかったりするものだ。

 

なので、クリスマスについてあえて触れたいようなことは思いつきたがらないこととしたいと思う。

というか、思いつかない、というのが正直なところで、それにしても少しばかり関連のありそうな話題を引きずり出すとしたら、つい一か月ほど前、夜な夜な酔っぱらいながらスマホを弄っているうちに何がどうなったのかその経緯は少しもわからないし心当たりも下心もやるせないような企みも、つまりまったく何ごともなかったのだけれど、翌朝になって気付くと一通の確認メールが届いていて、そこには”ご予約いただいた内容についての確認です”のようなメッセージがあり、「ご予約ぅ?」と、朝からかなりまぬけな独り言を声に出してしまったりしたことがあった。

 

よくよく内容を確認すると、12月24日にとあるレストランでのクリスマスディナーの予約、といったことだったんである。

二名様で。

 

……誰のことやねん、そんな素敵な予約。

 

である。

 

しかしながら、そんな身に余るほど素敵なリザーブトラブルにのんきに巻き込まれているわけにはいかないのである。

行けるものなら、行きたい。

しかしながら、そんな素敵なクリスマス・イブを素敵に過ごせるようなセンス以前に、そんな素敵な夜を共に過ごしてくれる素敵な相手がそもそもいないんである。

 

つまり、超真性他人事、だったんである。

 

恐ろしく身に余るほど予約した覚えのない素敵な予約を、ソッコーでキャンセルしたのはいうまでもない。

しかしながら、そんな際に心のどこかで想像する欠片もない誰かとの恋に破れてしまったような、すこしだけ青っぽいような感傷を思いつかされたのは、なんとも複雑な気分であった。

なんだかちょっとクリスマスチックな、粋なチープトリックではあるまいか。

 

 

……いや、何だそれ。

恋愛事情に乏しすぎて、受け止める脳みそが完全にどうかしている。

 

 もうよい。

クリスマスに何かしらを思いたがるような歳ではない。

じじいで何が悪い。

 

 

深刻な時事ネタということなら、”年末”ということに尽きるではないか。

令和元年に、水木金土日曜日は、もう存在しないのだ。

終り、ということは実にシンプルにそういう単純な事実でしかないのだと、個人的には思うものなんである。

だからと言って、そういったことをいちいち惜しみたがるような気分を思いつきたがる趣味も、案外なかったりするのだ。

 

なにしろ、人生とは”お別れ”の連続でしかないのだからな。

極端なことを言えば、人生は生まれてからこっち、ひたすらに終りとの対面が続くもののはずなんである。

まともそうに、何だかものすごい詐欺っぽいことを言っているかもしれない。

 

しかしながら、勘違いしないでほしいのだ。

あたしは何も格好つけたような気取ったようなことを言ったつもりは毛頭ないのだ。

むしろ、いやまさに本当に、それとは真逆のことを言ったつもりのはずなんである。

 

生まれてこの方、ということなんである。

たぶん、すっかり飽き飽きしているのに、決まっているのだ。

何しろ人間というものは飽きっぽい動物なのだし、かく言うあたしなどそのド典型みたいな雑な生き物であるのだからハッキリと言ってしまう。

 

 

飽き飽きしてんです、お別れなんてものにはな。

 

 

ごはんを食べるのは、お別れです。

目の前にあるオムライスとのお別れです。

 

お風呂に入るのは、お別れです。

今日見た自分の裸は、明日にはもっと歳くって見苦しいものになってる。

今日を生きた自分という垢とのお別れです。

 

猫を飼うのは、お別れです。

今日も一日元気に過ごしてくれた猫の一日分の癒しとのお別れです。

 

お気に入りの服を着たって、それをカタチどる繊維の何本かとのお別れなのだ。

 

 

いちいち気にしていたら、アタマおかしくなります。

世間はあっという間にタピオカを馬鹿にし始めるじゃないですか。

 

つまりお別れは日常で、それに付きまとうセンチメンタルこそあまりにも日常的に鍛えられ、鈍感化して、極めて選択的な意思として、”泣ける”なんてコントロールに重宝されたりして楽しまれてしまうものですらあるのだ。

 

お別れ、なんてことに思いつきたがる何某かなんてことは、所詮あてにならん。

もしかしたらそれは、品性のようなものについての話ですらあるような気がするのだ。 

振り返ることはときに惜しまないけれど、過ぎ行くものを惜しむつもりは毛頭ないのだ。

 

 

今年は大変な年であった。

個人的にはとても大変な年だったんである。

色々なことがあって、実にイレギュラーなイベントに振り回された一年だったんである。

しかしながら、結果思わされることは ”楽しかった” だったりするんである。

 

いちいち大変なことが付きまとった一年であり、何かに憑かれている、追い込まれているような気にすらさせられなくもなかったのだけれど、それにしても今年のあたしは、自分で言うのもアレなのだけれど、実にタフであった。

 

困難に、割と打ち負かされないアイアンメンタルな一年であった。

 

とても苦しく不安な場面にぶち当たること数多ではあったのだけれど、そんな事実や感情に打ち負かされずにさっさとぶち当たってどうにかしてしまおう、といった気概が通底して機能した一年だったような気がしている。

 

今年のあたしはあたし自身に対して実に効果的な、精神的パトロンとして存在し得ていた。

 

お金は少しもない、ただ精神だけを支えてくれるパトロンである。

まったく意味がわからない存在だ。

だが、そんなもんばかりに励まされた一年だったような気が、どうしてもしてしまうのだ。

 

 

最新の医療によって実証された事実の一つとして、多くの人々が抱える”腰痛”の原因、その八割がたが”怒りの感情”によるものである、ということが示されたのだそうだ。

まじか、としか言いようがないではないか。

 

指一本触れない胡散臭いハンドパワー系整体師も、アマゾンの原住民たちの心のよりどころであるシャーマンも、まんざらでもなくなってしまいそうではないか。

プラセボでもシャーマンでも何でもいい、つまり人間とは案外、いややはり”気の持ちよう”のようなところが色濃くあるような気に、いよいよさせられるではないか。

 

具合が悪くなれば、結局のところ最寄りの病院に向かい、主には西洋医学による診断に基づき治療を受ける文化に生きる一人の人間として、とまどいがないと言ったら嘘になってしまう。

しかしながら、実は個人的には、心はそっちのような気がずっとしていたのだ。

 

 

 

今年はいい年であった。

稀ではなく大変なことの連続する一年ではあったけれど、振り返ってみると何だか、とても気に入っているのだ。

それは単に、気分の話でしかないのだけれど、そんなことこそが一番大事なような気が、やはりしてしまうんである。

 

そんな一年を近く終えようとしているに当たって、やはり来年も自分なりに向かう気にこそ従って、自分というパトロンを信じて面倒にこそ早目に対処して、精神を健全に保てる余裕を出来るだけ多く持ちながら、自分らしく自分以外の物事に少しでも役に立てるような一年を過ごしたいと、今年以上となる一年を目論まずにはいられないのだ。

 

残りの一週間を、感謝を込めて慎重に過ごしたいと思う。

惜しむつもりなど、欠片もないんである。

 

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