アラズヤ商店

日々のナマキズ

年末には関係ないが、感謝はある

クリスマスが過ぎると、世間の年末ムードは一気に加速する。

 

と、世間では常套の如く言われがちなのだけれど、加速してみたところで所詮の残すところ一週間弱、勢い付けて頑張りぬこうっ! というよりは、ここまで来たらもう終わったも同然、さっさと片付けて美味しいモノでも食べながら一杯やりたいぜ、というのが本音といったところではあるまいか。

 

あたしは完全にそのクチだ。

もう終わりである、今年なんてものは。

残り一週間弱、何かを余分に企んでみたところで得られる成果などたかが知れている。

何しろ、宝くじとか、ノリでもそんなものは買わないタチなのだし。

 

 

31日の抽選日に、心躍らせますか。

まことに楽しみなことでありますな、宝くじ購入者の皆様におかれましては。

まじで当たったら、ものすごいことになってしまいますな、十億円。

ご好運をお祈りします。

 

でも、もし本当に当たったときは、あたしには内緒にしておいてほしいです。

そもそも参加していない人間に慚愧の念を植え付けるなんて酷なことは、後生ですからやめてあげていただきたい。

来年も地味に励んで参る所存ですのでどうか。

運とかコツとか、そんなものは当てにせず持ち前のショボい実力で食いしばる予定なのでどうか。

 

 

……つまり。

こんなことばかり言っているやつが、宝くじなんて当たるわけないのだ、所詮。

運とは、恐らくそんな性質のものなのではあるまいか、所詮。

信じない人には、所詮縁のないものに違いないのだ。

 

つまり、信じて買った人、ご好運をお祈りいたします。

31日、決戦の日。

 

 

 

年末宝くじを買わなかったあたしは、年末らしい商売こそしていないのですが、年末らしい気分ではあるようで、わりと気ぜわしく様々なことに思いを馳せるものなのです。

 

f:id:arazuya:20191113154526j:plain

 

意味なく波平など張り付けつつ。

 

最近ようやく気付いたことがあって、それは自分がわりと自給自足型の人間であるということで、とくに強調するべきは”自足型”ということのような気がしていて、そんな性質を端的に表すとしたなら例えば、”ディズニーランドに行ったことがない”というややも肩透かしのような、先日のM-1におけるかまいたちさんの”トトロ観たことない”的な特殊性のようなことに尽きる些末さではあるのだけれどつまり、行きたいと思ったことすらないことに違和も卑屈も思いつかずにいられる性分、ということなのだ。

 

お金を払って遊ぶ、ということが馬鹿馬鹿しいとかそんなことを言うつもりは毛頭ない。

行ったことはないけれど、何だか素敵な感じだし、楽しそうであるし、演出やサービスも素晴らしいらしい。

人々はそれを体験したいと思うのだし、参加したいと思う、そういう生き物に違いないのだ。

 

あたしはけっこう、そういう生き物ではないらしいことは昔から気付いていたのだけれど、自分以外の人々にもそういうところがわりとある、といった思い込みこそをわりと信じて疑わないところがあったような気がするのだ。

そんなことに、近頃ようやく気付いた。

 

なぜ、ディズニーランドにあまり興味が持てないのか。

それは文字通り、興味が持てないから、ということに尽きる気がするのだ。

”ディズニーランドに何を求めるのか”と考えると、あたしは案外明確な答えが浮かばない気がする。

 

遊びに行く。

家族と素敵な時間を過ごす。

ちょっと贅沢な非日常を体験したい。

 

何でもいいし、みんな素敵なことだ。

けれどあたしはそれとまったく同じ意識において、”ディズニーランドである必要はまったくない”と言い切りたいようなちょっと、おかしな性分なんである。

 

いや、興味がないとはつまり、そういうことではないのか。

あるいは、需要がないとか。

 

遊びに行く。

家族と素敵な時間を過ごす。

ちょっと贅沢な非日常を体験したい。

 

そのために、なぜディズニーでなければいけないのか。

それはたぶん、あたしが”ディズニーであるべき必要はない”と当たり前の如く考えるのとまったく同じ心理において、”ディズニーでなければならない”はずで、単なる対立軸として存在する正論に違いないのだ。

 

どっちが正真正銘の正論か、などということを言いたいのではない。

 

どちらの立場から見ても、”そんな人もいるさ”といったようなことを言いたいんである。

いまいちよくわからない感じではあるのだけれども。

 

 

たとえばあたしはこんな商売をしていて、当たり前に思っていたのだ。

人は自分の欲求やアイデアについて、常にカッコいい自分とか、素敵な自分というイメージに対して常に積極的で、興味深く、それについて何らかの具体的な期待や欲求を常に抱えているもの、と当たり前に考えていた気がするのだ。

 

それはつまりあたし自身のことに違いなく、あたしはわりと格好をつけたいしおしゃれもしたいし、もっといい感じやらちょっと違う感じやら、少しくらい人と調子が違ってもいいじゃん、くらいのことは普通に、常に考える欲張り気質で、手相にも丸出しのとおり先取り気質の夢見がち気質、お節介で執念深いストーカー気質、財運は身に付かず知恵と才能にからかわれるがごとく散財する楽天家、夢想家。

 

一体何の話をしているのだっけ。

 

 

つまり、何かに優れているとかおしゃれに意識が高いとかそんな鼻の高いようなことを言いたいのではなく、単純に自己表現欲求が無駄に高い、我が強い、自意識がかさばって実に醜い、といったようなことを言っているのだけれど、わかるだろうか。

 

あれ、それも何か違う気がする。

 

要するに、アレなんである。

世間とは、わりと依存性が高いモノ、というか受け入れることに大らか、というか欲することについて自家発電的作用が低いというか、このまま続けると絶対にディスる方角に走るのに決まっているのでやめておくのだけれどつまり、与えられることばかりに慣れている人が多すぎやしないか? ということなのだ。

 

欲しいモノはあるけれど、それに適うもが何なのかはわからない。

 

わかるだろうか。

欲しいけど、何が欲しいのかはわからない。

妙なハナシかもしれないけれど、あたしはどうやらそんな感じの人が世間にはどうやら少なくない気がして仕方がないらしいのだ。

長年商売をしながら、ずっとそんな気がし続けている。

 

つまり、そんなことを思いながら、それについて効果的にコミットしていくことを猛烈に嫌ってきた、というあまりにも消極的かつ残念な実感が確実にある、ということに違いない気がするのだ。

 

欲しいものを探すのではなく、与えられることでそれが欲しかったのだと納得したがる、そういう人がやけに多いような気がして、絶望的に毛嫌いしてきたのである。

単純に、あたしはわりとそういうことに興味がなかったからだ。

先取り気質丸出しにおいて。

自分以外の人も、そういうものではないのかと、心のどこかで執念深く信じたがっていた気がするのである。

お節介気質丸出しにおいて。

 

 

ウチのお店は、おなじみの皆さんに繰り返しお出掛けいただくばかりのどちらかといえば閉鎖的な商圏で、あたし自身が売り込むようなことを嫌うタチである以上、お客さん自身の思いつきに依存する関係性のみで、これまでずっと成り立ってきたのである。

履歴を見れば一目瞭然、ほぼ全員と言えるお客さんに、それぞれの来店周期でお決まりのように足を運んでいただいていることは明らかで、商売としてとても健全かつ良心的無味無臭、つまり何も問題はない。

 

問題はない。

 

果たしてそうなのか。

 

 

 

それが、この度あたしがようやくのこと思いついたこと、らしいのだ。

つまり、ウチのお客さんにも言えることなのだ、ということなんである。

実に当たり前のことだ。

 

ウチのお客さんだって、あたしと同じ考えばかりでもないということ。

あたしはそれについて、良かれとしてコミットしてこなかったのではないのか、ということなんである。

お客さんは、髪を切りたい。

その単純な理由について、あたしはあたしの感覚のみでしか考えていなかったのかもしれない、ということ。

希望観測的に言えば、あたしはお客さんというものはなんだかんだ言いながら、わがままな欲求をちゃんと持っているものと思っていたんである。

希望を聞く、とはそういうことだとばかり考えて、信じて疑わなかった気がするんである。

まあまあトンマ。

 

だから、”ネット戦略とか死ね” だったんである。

 

それは今も基本的には変わらないのだけれど、それを理由に全てを十把一からげに勘違いするのはくだらん、と思ったんである。

今さらではあるのだけれど。

 

あたしは、大概のモノへの反射的反発がヒドい。

それはもう性分として、人生として仕方のないことなのだとは思っている。

しかしながら、それをコントロールすることをあきらめることは、何かが違う気が何となくするんである。

 

 

お店の壁に絵を描いてもらって気が付いたことは思いのほか多い。

あたしは反発がヒドいのだけれど、ヒドいなりに思いつけることがどうやらもっと他のカタチであるらしいことに、少しずつなのだけれど気づき始めている気が何となくしているんである。

 

あたしなりに良かれとしながら、もう少し違うことを仕出かしてみて、それが通用しないくらいならさっさと諦めてもいいではないか、という言い方はアレなのだけれど、いい意味での割り切り方のようなことを、もっと試していきたいと猛烈に思うんである。

 

ディズニーにはあまり惹かれないタチらしいなら、それらしくもっと惹かれなさをちゃんと肯定できる具体的な理由を提案できなければ、所詮ただの言い訳みたいになってしまいそうな気がするんである。

 

そんなものは、ディズニーのことなんかあれこれ言ってはいけないはずなんである。

あたしはあれこれ言いたいので、そのためには店がヒマでもアタマの中は常に忙しいのである。

 

実にいい年末である。

もう一頑張りしたいものなんである。