アラズヤ商店

日々のナマキズ

言い訳に”正義”は付きもの

多くの人々が”仕事始め”であるはずの今日、そんな”はず”などということはとんだ誤解ってもんですよね、と力いっぱい思っているアラズヤ商店です。

 

みなさま今年も張り切って、それぞれの思いの下、頑張って参りたいものです。

 

あたしはすでに仕事始めを終え(ヘンな日本語)、通常の日常が(ヘンな日本語その二)始まっております。

 

だからどうした。

 

 

世の中には年末年始こそ忙しくお仕事されている方々など少しも珍しくなく存在しているわけで、おかげさまでそうではない多くの人々が楽しく快適な年末年始が過ごせるわけでつまりやはり、おかげさま、ということなのでしょうか。

 

ちなみにあたしは”仕事サボり初め”もすでに終えまして、昨日さっそく積極的に仕事をサボり、端からそのつもりで予定していた初詣に行って参りました。

昼過ぎからはすでに予約がなかったので、端から働く気がなかったのであります。

年初から、まあまあな心構えではありますな。

f:id:arazuya:20200106115507p:image

 鳥居の下のモヤモヤは人外などではない

 

 

 

 

 

しかしながらよりにもよって、何という詣で方でありましょうか。

そうした結果の”末吉”ということなのでありましょうか。

 

いえいえ。

そういう受動的な、悲観的な、自嘲的な考え方は何よりもよからぬ魂胆であることよ、それにもましてつまらない根性を生やすことなんであるよ、とさっぱりと学び取って久しいあたしはつまり、それでよいのだ、という魂胆でこそあるわけなのです。

 

 

”年の初めから仕事をサボるなんて、けしからんっ!”

というのは至極当然かつ真っ当な考えなのでしょうし、もちろん正しいとあたしも思いますし、何ならそういった”態度”のようなことには人一倍信頼としての基準を置きたがる人間だったつもりではいるのです。

 

自分で言うか、と。

 

まあまあ、とりあえずその程度には気の小さい人間です、ということなのですけれども。

何しろ商売人として勝手に生きていく、ということは案外身寄りのないような生き方には違いないところがありまして、となると人間はどこに忠心やら信心やら精神性のようなもの、その根拠らしきを仮託したがるのかと言いますと、案外、”正しい行い”とかそういったものすごくシンプルなところに、おもには日常的な生活態度としての評価軸のようなものを自らと自らを見下ろす存在のようなものにアピールしたがりがち、のようなところがある気がするのです。

そんなことを基本にしてその先、更なる強固な意志として補完したくなるものが信心たる”宗教”とか”なんとかセミナー”的な、わりと自分自身からその根拠をむしろ抜き取りたがるような方面に走りがちであるところがまた面白いところではあるのですが、念のために表明しておくならば、あたしには”その先”的な趣向は今のところありませんの誤解なきようお願いさせていただきたいところではあるのです。

別に宗教とかなんとかセミナーを否定したい立場であるようなことを言っているのではありませんから、そこのところも誤解なきようお願いしたいところではあるわけです。

長い。

 

そんな屁理屈からの、”仕事サボり初め初詣”とは、一体どういったことであるのか。

 

答えはカンタン。

予約がなかったから、なんであります。

ショボいぜ、まじでショボい。

でも現実なんだから仕方がない。

 

まじで、仕方がない、と思うんですね、近頃に至っては殊更に。

うちは完全予約制なので、予約がなければ仕事がないことは確定、という環境なのです。

そんな状況において、”仕事をサボるなんて、けしからんっ!”という断固たる正義に基づいて店内の明かりを煌々と照らしつつエアコンを稼働させお湯を沸かしお茶を飲み、掃除をしたりネット界隈で仕事だったり仕事ばかりでもなかったりするアレコレに労と時間を費やしてその結果、”予約なし”通りに何ごともなく通り過ぎる時間をもって”真面目に勤める”とするのはしかし、どんな正義であろうかと。

 

そうすることで、一体どんな正義がまかり通ったものなのかと。

 

 

日頃から怠けた結果の今日のヒマ、ということなら明日以降のために何かしらを努めて然るべきが”態度”ということであることはあたしのようなクズにすらわかることなのですが、生憎ながらあたくし、クズながらにも日頃から怠けている意識はこれっぽっちもなく、いや、これっぽっちとまでは言い過ぎかもではありますが、少なくとも怠けて許されたがるような”態度”で生きているつもりは爪の先ほどもないつもりではおりまして、何なら普通の人よりは余分に、ズレたような努力は惜しまず振舞ってつねに折れる寸前の心を叩き起こして馬鹿を振舞っている自覚はかなりありますので、その結果それが商売として響かないのであればそんなものは世間の方がアホなだけだ、と自信をもって受け止めることにしているので、つまり堂々と”サボる”を選択するべきとすら考えるものだったりするわけです。

”予約くんな、初詣に行きたいんじゃっ”くらいのことを普通に思っていたわけなんであります。

ちょっと馬鹿っぽいんですけど、しかしながらどうなんですか? ちょっと考えてみてください簡単なことです。

 

所月早々ヒマそうなザマを晒しつつ、”正義”のようなことばかりをふかしこんだ結果救われたいものは何か? と考えればその答えは実にカンタン、”真面目にやっていればいつか救われる”のようないわゆる無気力系他力本願自己弁護以外の何ものでもないことは明らかなはずと、クズなあたしこそ平気で決定づけてしまえる実にひ弱な”態度”には違いないもののはずなのです。

 

 

クズですか、あたしのような考えは。

だったら、世間はヒマそうな店を見て”可哀そうだから寄ってあげようか”などと思うものなんですか。

 

 

そんなものじゃない普通の世間を散々生きてきて思うことなんですけど、恐らく世間はそんな”態度”にはほぼほぼ興味なんてないです。

少なくとも”消費行動”においては、ほぼほぼ無価値と言っても過言ではないはずです。

むしろ、積極的にそんな薄暗いような”態度”からは遠ざかりたがるのが世間というものだと、かなりクズっぽいあたしなんかは普通に思っていたりします。

 

誤解してほしくないのは、良い悪いとか真面目不真面目とかそんな無邪気なハナシではなく、その結果もたらされるらしい”運命”のような顛末を無根拠に信望したがるような結果無思考でしかないような”正義”とか”努力”などというものは、とっくの昔に過去のモノになってしまっているはずだとあたしみたいなクズは完全に思っている、ということです。

 

だって、そう思いませんか?

必要としてくれない時間に、本来の目的とは一切関係ない例えば”辛抱”に時間と精神を費やして、その結果何かしら通じてくれるらしい”結果”だの”正義”ってつまり、自分にとってのどんな根拠をもたらしてくれるんでしょうか、クズなりに甚だ疑問に思わずにはいられないのですが、何かおかしなこと言ってますか?

 

必要とされないならこっちこそそんなものはさっさと見限って、もっと必要なことややりたいことに時間や労力を費やして、楽しかったり満足したりした方がまた次の仕事に向かえる気力や意欲やアイデアにこそ繋がってくれそうな気がするし実際にそのために判断して覚悟して行動しているわけであってそれはつまり”根拠”ですらあって、薄暗くただただ耐え忍ぶように歯を食いしばって祈りつつ偶然みたいな幸運を願うだけ、精神論に逃げ込むだけなんて、むしろただの怠け者の言い訳みたいな気がしてしまうんですけど、何かおかしなこと言ってますか?

 

あたしも努力くらいします。

嫌われる覚悟でLINEの絨毯爆撃くらい平気でやりますし、販促のためにプランのアピールも現場でのヘンな企画とかも面倒がられてもやります。

基本的にはたぶん、面倒だし迷惑、とお客さんには思われることばかりだとわかりきったところでやっています。

所詮そんなものだ、とすら思っています。

態度悪いですが、お客さんはお金なんて基本的には払いたくないんですから、こちらから訴えることは基本的には搾取される予感でしかないんでしょうし、迷惑であって面倒でしかないのは当たり前に違いないのです。

誰だって、売りつけられるような感覚は心地いいはずはないですし。

 

 

だったら、薄暗くジッと耐え忍んで、無駄な電気と時間と精神を消費して待ち続けろと。

それが”正義”だと、”仕事をサボるなんて、けしからんっ!”と、言いますか。

そんな阿呆はさっさとドラえもんに昭和まで送り返してもらいなさい、と力いっぱい言いたい。

こんな便利な時代において、そんな魂胆はむしろ卑怯でしかない気がするし、思考回路こそ北京原人並みではないのかと。

 

 

お店を開けていれば”働いている”という意識に逃れられるような精神性で生きるつもりなんて毛頭ないです。

そんなクソ恐ろしいような浪費は御免ですまじで。

今年もそんな”態度”でこそ望みたいと、心底思っています。

何も関わりのない眺めるだけの人間が印象だけで思いつきたがるようなつまらない価値観に付き合うつもりはこれっぽっちもないんだぜ、なんて感じの悪さにこそ嘘臭くてもいいから時代性のようなものをちゃんと植え付けて、やりたいことでちゃんと生き抜きたい。

商売はお金の話などではなく、関わるものとしてのまさに”精神性”の話だと勝手に思っているので、待ち続けるだけで努力したようなつもりに逃げ込みたがるような商売なんてしたくもないし、迷惑がられてもいいからちゃんと必要としてくれる人のためにこそしっかりとお役目に立てる商売を目指して、サボれる時には嬉々としてサボる。

 

なんてな。

ちょっとアタマおかしいかもな。

 

 

その結果、末吉ときた。

そんな現実をどう受け止めたものか。

 

去年の暮れとこの度の初詣、おみくじを引くような機会に二度ほど恵まれたわけなのですが、そんな二度のおみくじに共通していたのが”慌てるな”といった内容のことだったわけなのです。

微妙です。

さすが末吉(二度ともだしな)

 

せっかく腹の中は案外はっきりとしていて、わりと覚悟も決まっているようなつもりでいるのだけれど、”慌てるな”と。

地味に苦しいお告げではないですか。

 

あたしは単に、空回りしているだけなのでありましょうか。

年末年始を通じて、ちょっぴり複雑な気分を抱えております実際のところ。

しかしながら、”仕事をサボるなんて、けしからんっ!”として待ち続けることだけを”正義”のように振舞って、自分こそをたぶらかしたがるような商売なんて、そんな”正義”に甘えるような退屈さなんて、本当にただの時代遅れでしかないような気がしてしまう。

自分の空回りにすら気付かせてくれない”正義”なんて、信用ならん。

そんなものを”良識”などと呼べるほど、もう世の中はあらゆることを求めてなんかいない気がするんですけど、何かおかしなこと言ってますか?

 

 

 

 

商売を目的として、必死に耐え忍ぶようなことがいつか実を結ぶなんて、そんなのどかな時代はとっくの昔に終わっているはずですよね。

 

目的を目的としか考えない人には、アピールなんてすればするほどただの迷惑でしかない。

でも勘違いしてはいけないのは、それは少しも悪いことなどではなく、むしろそうして振り分けられる理由や本当の目的こそがこれからますます大切になってくることは明らかということで、つまりクズなりにあたしはけっこうこれからの、というかとっくにその変化は始まっている今とこれからの時代にかなり期待しているところがあって、だからこそこれまで”正義”とか”良識”らしく叫ばれていた”仕事をサボるなんて、けしからんっ!”的なくそつまらない屁理屈をことごとく裏切っていきたいような気が、ものすごくしてしまうわけなのです。

そんなひ弱な魂胆で救われるほど、もうこの世の中には余裕なんてないはずだし、のどかでも欲しがりでも何でもないはずのような気がするのです。

 

それぞれが自分なりに自分を覚悟をして鍛えて、そうして振舞うものをただの迷惑としか思わないような古臭い思想の持ち主なんて、あっさりと切り捨てる。

そうして必要とされないばかりならそれは確かに必要がないはずのモノであることはいよいよ正確に明らかになることだし諦めもつくことのはずだから、納得も出来ようというものじゃないですか。

 

おみくじに助言あるいは戒め的な意味合いを思いつくことはあっても、”運”とか、そんな馬鹿げたものに自分の何かを任せて過ごしたがるとか、安心したがるとか、本当にいやじゃないですか。

 

決定的な意思を持って”サボる”

 

ムスメが今日から仕事始めなので、その前に今年の新しいお守りを持たせたかった。

タイミングは昨日しかなかったので、むしろラッキーだったとすら思っています。

あたしは末吉だったけど、ムスメはやたらに話してしまったらもったいないくらいのものは頂いて帰ってきたから、やっぱり”サボり初め”は正解だったと勝手に思っています。

 

世間の”良識”や”正義”が何と言いたがるのか、しかしながらそれを鵜呑みにするばかりではなくちゃんとクズならクズらしく、自分の意思を確認してコントロールする、覚悟して行動できる、つまらない価値観に振り回されない、そんなことを意欲的に意識しながら今年も進んでいきたいと、”慌てるな”と言われてしまったけれど、それにしても漫然としているつもりなどない一年を今年も過ごしていきたいと考えます。

 

めちゃくちゃくだらないし、勝手なことばかり言ってます。

でも、いつまでも古臭い考えに自覚もなく囚われて苦しんでばかりいるよりは、ずっとマシだと思っています。

 

みなさんもご一緒にどうですか。

ウチは、売りつけてるつもりなんてこれっぽっちもないんだぜ。

損得とかまじで言ってんのかアホか、くらいのことは本気で思ってるんだぜナメんな、と言いたい。

 

 

 

感じ悪いですか?

その考え方、古臭いんじゃないですかね。