アラズヤ商店

日々のナマキズ

目に見えるつもりなら、そんなものはもう古臭い

目が覚めて、今日は生ゴミの日だと気づいて飛び起きた。

いつもより少し寝坊をした。

他のゴミの回収と比べて、生ゴミの回収はスケジュールがタイトらしく、リミットは大体八時十五分くらいの感覚でいる。

三十分ほどの余裕を残しての起床だった。

 

連休明けもあって、仕事がない。

あって、ないとは皮肉なことなのだけれど、現実は”ない”ということに違いないので今日も働く気がない。

そんなことを見越したうえでの寝坊、ということにこそ違いはないのだ。

我ながら少々弛んでいる。

腐りたくなるときもあるのだ、人間だもの。

 

 

日頃からLINEで直接営業を掛けたり、お得なプランなども口頭で案内したりと、近頃はあたしらしくなく商売っ気をだして励んではいるけれど、そうした上で予約がないということならそれは単純に需要がない、必要とされていないということなのだから、諦めるしかないと思うことにするのだ。

日頃からの働きかけ以上に、他にやり残したことがあるだろうか。

そう考えると、案外ないような気がするのだ。

”ない”と言っても、それはやり切ったとかそういう意味合いではなく、”意味がない”ということに違いないはずなので、そこは勘違いしてほしくないところなのだ。

 

直接営業など、本当はやりたくないのである。

そんなことは鬱陶しがられるだけだ、ということくらいわかっているからだ。

それでもやる、ということがつまり仕事であって、”やるべきこと”ということではないのか。

勝手にそう思っている、ということだ。

曲がりなりにも攻めなければ、足りない気がしてしまう。

 

ノンキにやり過ごしているつもりはない。

やることをやったうえでの空っぽなので、やらないだけのことだと思っている。

これ以上、何かを直接仕掛けることにアイデアはないし、効果的とも思えないからだ。

 

 

”意味がない”と言った。

それは結局のところやはり”効果”ということで、しかもそれは双方向の話だとすら思っている。

宣伝することはもはや煙たがられるだけのことであって仕掛ける側にはメリット以上にデメリットばかりが張り出しつつあるし、宣伝されることに慣れた世間は確実にどんどん馬鹿げた感性ばかりを飼い慣らしつつある。

タピオカに行列するインスタ馬鹿に象徴されがちな性質、ということなのかもしれない。

消費行動など、所詮そんな階層に見る話、ということではなかったか。

 

もはや、直接的な取り組みにはほぼ”意味がない”と思っている。

ほぼ、と言うからにはまったくやらないでもないということには違いなく、自分自身で納得できる程度には、怠けている気がしない程度には働きかけているということで、もうそれ以上に取り組む価値はないと思っている、ということにこそ違いない。

もう、目的について直接的に取り組む姿勢というのは、おそらく大した価値を生まない、そういう世の中の構造になっているはずなのだと勝手に思っている。

 

 

だからこそ、絵を描いたり、描かせたりしている。

次は何をやろうか。

単純な取り組みでしかないし、商売には直接的な取り組みではない取り組みだ。

そういう取り組みの方が、難しいけれど断然の価値があると勝手に思っている。

無価値に沈む確立こそもちろん高いのは承知の上だ。

それにしてもそのくらい、目的について宣伝することこそ無価値化している、と思っているということだ。

世間は、利口そうに馬鹿げるばかりらしいのだから、こちらこそ勝手も何もあったものではない。

そんな態度でしかなくても、思いつく以上はやらずにはいられないということだ。

 

 

 

あたしは少し変わった髪の切り方をするし、仕上がりとして丁寧なスタイリングをすることにあまり意味を感じないような姿勢を貫ている。

お店でのスタイリングなんて、しょせんオマケのようなことだと思っている。

お店ばかりで綺麗にしてみたところで、どうせお客さんは自分ではちゃんと出来ないのだ。

それは出来不出来とか、親切不親切などということではなく、単純な基準みたいなことだと思っている。

乾かして終り。

そのカタチにこそ用があると思いながら切っている。

スタイリングは、見本としての提案に過ぎない。

そうでなければ、毎日のスタイリングなんて苦痛になるばかりだと思うからだ。

 

スタイリング剤は便利だし素敵にしてくれるけれど、余計なものを髪につけるのは所詮気持ちが悪いことには違いはないし、実際にはお客さんはそんなにも熱心ではない人がほとんどだ。

 

f:id:arazuya:20200114100604j:image

 

あたし自身も今は完全にトラディショナルなスタイルにハマっているので、毎日ポマードは欠かせない。

そんなスタイルが完全にキていると思っているし、苦手だからと言ってスタイリング剤を毛嫌いして中途半端なスタイリングに甘んじるのは所詮ダサいやつがすることだと普通に思っている。

 

でも、やっぱり余計なものは極力少量で済ませたい、とも思うのだ。

 

男女ともに、手櫛で収まることが基本。

それがあたしの考える一番親切な仕事だと思っている。

せっかくのカットの仕上がりを、アイロンで仕上げてさらに素敵になった気にさせることも一つのサービスなのかもしれないけれど、それが単なるごまかしでないことはやはり祈りたいものだとは思う立場だ。

何とでもなる、とは様々な意味で言えることではないのか。

明日の朝、それに気づくような仕事は何だか恐ろしいじゃないか。

自分で出来ない仕上がりは、例えばオマケ程度であってもいいはずじゃないか。

あたしはけっこうそんな、ズレたところがある。

 

あたしがどこをどう見て、どうやって切るのか。

そんなことは、いくら世の中のサービスが便利になろうと、伝えられるはずはないと思っている。

ロボットが完全な手の動きを手に入れたら、理美容師すら職業として危うくなる、と簡単に言い切る世の中のナンセンスを鵜呑みにする世間のリテラシーに、宣伝らしく伝える価値など完全にないと、個人的には当たり前の如く思うのだ。

ハッキリと、馬鹿げている。

人間は、マネキンなのか。

そんなこともわからないのか。

正確な仕事など、そんなことにはもはや大した価値はないし、理由にも目的にもならないらしいのだ。

だからといってつまり、良くも悪くもそんなことでいいとあたしも思っている。

迎合ではなく、協調といった意味のつもりだ。

 

 

だからこそ、ということなのだけれど。

だからこそ、あたしは関係ないことにこそ価値を植える必要があると考えるらしいのだ。

目的に対して、本来の価値が意味を持たないなら、それはもうただのオマケのようなもののつもりでも、十分なのではないのか。

ロボットで適うなら、それでいいらしいではないか。

そんな程度のことに歯を食いしばるようなことばかりを思いつきたがって、自分ばかりを救いたがるような精神論にばかり逃げ込んで、一体何の意味があるというのか。

とても感じが悪いかもしれないけれど、これはかなりの本音のつもりで言っている。

 

やることなら、十分にやっている。

 

その結果、必要ないとされないのなら、やらないまでのことだ。

それはとてもハードな戦い方に違いないことなのだけれど、仕方がない。

どうせそうなることはわかり切っているし、自惚れるわけではなくただただ当たり前にあたしは少し早めにそのことに気付いているだけで、世の中は、とくにこんな田舎こそはまったくアンテナが低くて古臭い感覚にしがみつくような文化だから伝わらないだけで、個人的にはそんなものはもはやどうでもいいと、完全に思っている。

 

つまらないし、くだらないとさえ思うからだ。

 

 

同じ目的において、未だに古臭くしがみつきたがるようなこととは全く違う新しい価値を訴えることに手抜きをしているつもりはないし、効果的な方法を模索するばかりで怠けているつもりは毛頭ない。

これまでの正論なんて何一つ価値なんてないと思っているからこそ、全然わからないのだし、そうでなければ面白くないじゃないか。

ネットで調べたら知れるらしいことなんて、所詮使い古された過去のことばかりでしかないのではないか。

 

 

今日は髪を切ったりはしない。

けれど、他にやれることはいくらでもあるらしいこのとっくに始まっているこれからの世の中の価値観には、個人的にとても期待している。

 

だたそれだけのことを理由に、今日はいきいきと”働かない”という選択をする。

それがこの先を見据えたあたしなりの”働き方”という選択だと、まったく疑いなく思うべきのような気がして仕方がないからだ。