アラズヤ商店

日々のナマキズ

イデオロギーを自ら鬱陶しがるとは何ごとか

この十五年間というもの、基本的に何もかもを一人でこなしてきたので、もちろんながら悩んだり迷ったりすることはとても多かったように思うのだ。

 

会社や組織に所属していても、事情は違えどやはり悩んだり迷ったりすることは少なくなかろうとは思うのだけれど、あるいは自分の意思や考えとは全く別の理由に煩わされることも多くむしろ大変なこともあろうかとは思うのだけれど、ずっと一人で何もかもを曲がりなりにもこなして生きてきた者としては、同じく悩んだり迷ったりしてくれる仲間がいたり、助言をもたらしてくれる上司や支持を仰いでくれる部下などがいてくれることは、やはり支えや励ましにはなってくれるはずのものと想像するだけでも、些か羨ましく思うところがないと言えばウソになる。

 

しかしながらどうして、一人で生きることを選んできたのかと考えてみればやはり、先に上げた”羨ましい”と思うことの反側面、様々なものやことが存在する煩わしさのようなことを、あたしは案外遭遇する前の時点からすでに、まったく煩わしく面倒くさく、あるいは最も苦手なことのように想像して、早い段階から排除してしまった結果のような気がするのだ。

 

 

近頃の世の中はいよいよとても便利なもので、やりたいと思ったことがすぐにその場で、誰の手も煩わすことなく、お金こそ全くかからず、簡単に出来てしまう方法がものすごく増えたと思うのだ。

昨日も、とても便利な手段を以て、効率よく営業活動に努めた。

つまりは、かつての”チラシ広告”のようなことに違いない。

 

あたしが商売を始めた十五年前は、チラシ一枚を配るにもまずはPCで自ら慣れない原稿を作成を行い、出版会社や新聞店などに入稿を依頼して印刷に回り、折り込みの期日や枚数、配布地域の打ち合わせなどを経て、実際にチラシが目的地域に配布されるのは動き出してから一か月後、費用はチラシの配布規模にもよるけれど、安くても概ね四、五万円前後が相場で、そうした結果反応として費用のテンパーも戻れば成果が得られたとするようなレベルの話が当たり前にまかり通っていた世の中だったから、あたしは早速馬鹿馬鹿しくなって広告活動というものを一切当てにしないことにしてしまったのだ。

 

しかも、メリットばかりを謳う広告に反応する客層というのは極めて流動的な層で、反応がいいなりに離脱率も高く、メリットを得たがることに人一倍こだわるので理不尽だったり常識のない要求を惜しまないタイプの人も多いので、案外デメリットも少なくはないのだ。

 

理由はそればかりではないのだけれど、ここ数年の間、新規開拓はとても大切であるとは理解しながらも、あえてそれには取り組まない方針でやってきている。

 

いつの時代も結局、あらゆる広告の手法が溢れていて、何だか面倒臭く、メリット以上にデメリットも多い気がしてしまうとなると、何だか意味もなく、古臭いだけの作業のような気がしてきてしまったからだ。

 

けれど、やはり世の中とは常に変わりゆくものなのだとも、つくづく思わされたりもするのだ。

 

情報が溢れすぎて、広告宣伝を鬱陶しがってばかりいたはずの多くの人が、自分が一体何を必要としているのかすら、わからなくなってきてしまったらしいのだ。

大概のものはすでに手の中になって、より上質なもの、便利なもの、お得なものが魅力的で、けれどそんな情報こそが溢れるほどに多くありすぎて、一体どれを何を選んだらいいのかすらわからない。

 

とんでもなく馬鹿げた話ではなかろうか。

溢れすぎて、むしろ損をするのが怖い、失敗したくない、何がいいのかわからない。

その為にはやはり情報が必要で、わかりやすく教えてほしい、正しい答えや損しない方法を、あるいは答えそのものを教えてほしい。

もはや、本来の目的など、自分の目的や判断こそ二の次で、与えられる情報にこそ判断をゆだねたがるばかりらしいのだ。

 

 

来店履歴に基づいて、販促のLINEを直接送りつけたりする。

少し前までのあたしなら、まったく考えられない話だ。

けれど、今こそそういうくどいような試みが必要な気がものすごくしているのだ。

それはむしろ、販促とか宣伝などを目的とするつもりではなく、今も昔も所詮大きな宣伝や大衆的な価値観ばかりに迎合して安心したがるばかりの相変わらずな世間に対する、アンチテーゼのようなつもりでいる。

 

マス広告ではなく、直接広告ということだ。

この上なく迷惑で、鬱陶しがられる手法。

今さらみたいな厚かましさ。

けれど誤解してほしくないのは、それは今の世の中には思いついた瞬間に個人レベルでも実行できる手段がいくらでもある、というただ当たり前なだけの現実をまさに実行して見せているだけなのだ。

それを相変わらず”鬱陶しい”などと考えたがる古臭い考えを、ふるいにかけたいようなつもりでいるだけだ。

そんなものは、近い将来にもどうせ効果的な関係など気付けるはずもないと考えるからだ。

 

自分で考えて、必要なことをすぐさま実行できる。

そんなあまりにも便利な現代の価値観を、思うように操りたいと当たり前のように考える。

それを効果的に受け止めて、便利に使いこなせる、楽しめるような人こそと有効で友好的な関係を築きたいと考えるのは、当たり前のことではないだろうか。

その為に有効でアクティブな手段が、今の世の中にはそれこそ溢れている。

それがあたしはとてもいいことで、楽しいと思えて仕方がないのだ。

 

一人きりでも、誰の手も煩わせず、理不尽な”成果”のような非常識にやる気をそがれることもなく、出来も不出来もまさに自己責任らしく実感できるアクティブな今の世の中はとても心地がいい。

プレッシャーも不安も期待も実感も、全部自分のせい、という心地よさ。

 

仕掛けることで思いつかれる”鬱陶しさ”など、リトマス試験紙を観察するようなこととさほど変わらないと、もはやそんな気分ですらいる。

つまらないもの、とわかりやすく判断できることすら効果的なことだ。

 

何もせずにはいさせてくれない今の世の中の仕組みはとても厳しいけれど、あらゆる手段が手軽に用意されていることは、やはりありがたくて仕方がない。

そんなあれこれの手段を用いて今日は何が出来るのか、そんなプレッシャーばかりが朝から酷い。

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