アラズヤ商店

日々のナマキズ

おみくじはランキングなんかではない

年末の宝くじは買いますか。

 

年が明けたばかりなのに、といってももう半月が過ぎてしまったから、ばかり、という言い方こそどうかしている気がするけれども、それにしてもこのタイミングで今年の年末のことを尋ねるのはちょっと、どこかがイイ感じにほぐれすぎてる人みたいでアレなので、去年の、ということにしておきましょうか。

 

買いましたか? とくれば、そういえば、ということなのですが。

 

晦日には宝くじの抽選と年越しそばを求める人たちの行列が夕方あたりのニュースで取沙汰されるのが定番のような気がしていたのですが、あまりテレビを見なくなったせいなのか、単に酔っぱらって虫食いの如く記憶を失くしてしまったのかよくわからないのだけれど、そういえば、ちっともそんな話題を見かけなかったぞ去年は、この年明けの頃は、ということなのですが。

 

 

年越しそばは、虫食いあとの記憶の隅に確かにあるので、食べました。

宝くじは、記憶も何も端から買っていません。

買ったことすら忘れてしまったのかも、というまるでドラえもんの掴みのくだりみたいなことも完全にありません。

宝くじ売り場、というあの場所に並び立つことからすでに苦手な気がしているので、そもそも買う機会がありません。

ネットでも買えるようになったとはいえ、どこにアクセスするのか、といったことから知らないので、検索履歴もないですしつまり、買っていません。

もういいですね。

 

宝くじ、なんてそんなもの当たるはずがない。

と、“宝くじ否定派”人はよく言います。

 

あるいは、

 

買わなければ当たらない。

のようなことも、“否定でも賛成でもない的アクティブ派”くらいの人は案外よく言ったりもします。

 

あなたは、どちら派の人ですか。

 

あたしは、“否定でも賛成でもなく単純に買わない派”です。

条件を出した意味がないですね。

馬鹿の論調ですね。

 

“買わなければ当たらない”には、案外賛成派なのかもしれない、とは思うのです。

当たり前すぎて、ぐうの音も出ん。

ぐうの音、とは何ぞや。

言葉を見失ったところで、ぐう、とも言ったことはないぞ。

 

いや、誰もみんなそうだから。

それわかってたら、もう十分だから。

なんてな。

 

 

つまり、そんな理解の仕方って、察し方のようなものってあるじゃないですか。

ということなんですけど。

 

 

全然話が変わるのですが、個人的には今年を“スピリチュアル元年”なんて、勝手に思っているようなところがありまして。

え、ヤバい?

あたし何かヤバいこと言ってますかね。

 

まあまあ、ヤバいか。

 

いや、何でヤバいんですか。

さっきの宝くじのどっち派? みたいな感じになってなくないですか、それ。

 

 

なんてよくわからないことを言いながら、“スピリチュアル”なんてことこそ全然よくわかってないんですけど、何となくそんな言い方とよく似ている気分であるらしいことだよ、といったつもりにおいて言っている、ということなんであります。

 

端的には、“思ったもん勝ち、言ったもん勝ち”みたいなマインドのようなものとか、そんな感じでしょうか。

触ったもん勝ち、とかでも何でもいいです。

よくないか、何か痴漢の言い訳っぽいか。

 

つまり、“買わなければ当たらない”には、確かに似た感じのマインドではあるかな、ということなのですかれども。

 

 

昨日は朝から実務系の仕事、というと何だかもうばっちりと職業的な話みたいに聞こえてしまいそうなのだけれど、あくまでもあたしンちのお店の実務、という意味合いにおけるネット界隈作業ということのですけれどもだったら最初からそう言え、的なことなのですけれども、上手い言い方がスルっと出てこなかったばかりにこんな書き方になっています。

朝の五時台の脳みそなんてそんなスペックで何とか息してるみたいなものには違いないじゃないですか。

あと、指先だけ動かすくらいで精一杯じゃないですか。

ミスタイプばっかでイライラするじゃないですか。

そんなレベルの脳みそ活性で書いているんですけれども。

 

 

いや、っていうか。

 

つまりそんな実務系のお仕事をさっさとやっつけてしまったらもうすることがなくなってしまった(かなしい)ので、ただお店にいても仕方がないと思いつくままにそのままお店の前を通過いたしまして、イオンでお花を買い、お墓参りに向かい、それに飽き足らずさらにとあるローカル線の終着駅である温泉町にあるとある神社? お寺? 観音様? そう観音様をお詣りに参って(日本語)きたというまさに“スピリチュアル元年”魂まる出しの突発行動を繰り広げておりました。

観音様、なるものが何のなのかググる手間すら惜しみつつ。

 

スピリチュアルどうした。

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去年の暮れに一回。

年初に一回。

そして、昨日。

 

って、つまり引いたおみくじの数なんですけど。

 

何度も引いたら意味ないじゃん、と思った人は案外“宝くじなんて当たらない派”の人が多そうな気がしないでもないんですけど、気のせいですか。

よくわからないですけど。

 

“否定でも賛成でもなく単純に買わない派”といたしましては、案外真に受けない感じの態度といたしまして、気が向いたら何度でも引いてみたらいいじゃん、のような調子におきましてむやみやたらにという意味ではなく何となく、というスピな感じにおきまして引きたければ引いてみたらいいじゃん、の如く引いて参ったわけなのですか、文脈おかしいですかね。

見返すのもうしんどいです朝っぱらから。

 

 

おみくじ引くなら、一番はやっぱ大吉ですか。

 

なんて言い出したらすでにもうオチは見え見えな感じなのでさっさと先を急ぐぜ、といった展開におきましてつまり、あたしは案外”良い”とされるおみくじを引いてしまうと嬉しいけどむしろ不安になるというか、“え、今くらいの調子でもうサイコーな感じに届いちゃうんだ、そうなんだ、へえー”なんて、例えば盛り上がりまくった大晦日の翌日、元旦の朝の静けさの中で“ゆうべのあのテンションは一体何だったんだ”みたいに思いがちなのとよく似た感じのテンションにダダ下がりがちなところがありまして、そういうのって何だかわかるでしょ。

 

まあ、欲張りみたいな所詮態度の悪いことではあると思うんですけど。

先に言った“思ったもん勝ち”という態度ならむしろ、さっさとハッピーになっとけ、ということには違いないんですけど。

 

 

“凶よ、来いっ”

みたいなところがありまして。

いきなりすぎますか、そうですか。

 

 

豆知なんですけど、元来おみくじには比率というのがあったのだそうで。

つまり、大吉から凶に至るまでのそれぞれの配分比率、ということなのですけれども。

昔はどこのおみくじも、つまりその“元来の”と言われる比率を守っていたらしいのですが、要はおみくじも縁起物、という心意気におきまして時代と共に特に“凶”の配分量をだんだんと少なくしていくようになったらしいんですね。

みんな、そんなものをたまのおみくじで引いてしまったら落ち込んでしまう、引かされたお寺なり神社なりまで嫌いになっちまう、ということを懸念された上でのこと、ということなのですけれども。

 

現在、そんな“元来の”比率を守っているのは浅草の浅草寺だけなのだそうで、ようやくお話は本題に返り咲くのですかつまりあたくし、初めて浅草寺でおみくじを引いたときに見事に“凶”を引きまして、若干引きつつも(しゃれでないぞ)何だかちょっと感激しまして。

 

“マジもんだっ、マジもんの凶だっ”

 

なんて。

アホなんですかね。

もちろん確かに、その後しばらくというか人生一貫してと言ってしまえばそれまでのことなんですけど、要するに楽ではない日々が続いたわけなのですが。

 

 

わかりますよね。

つまり、今が一番下のほうが、あとは上るだけのような気になれるから何だかイイ、ってことです。

つまり、去年の暮れからずっと“どうせなら、凶がいいな”とずっと思い続けていたわけなんです。

アタマおかしいですかね。

 

そして昨日ついに、”凶”

出ました。

思わず、「うおっ」と小声が洩れましたよね。

やっぱ複雑なものですよ、そりゃそうだ。

 

しかしながら、つまり“念じれば通ずる”みたいなものなのではないかと。

激ポジティブ。

劇ポジティブ。

どちらでもよい。

 

ポジティブ、という思想の取り方は案外むしろ苦し気な感じがしなくもないのであまり好きではないんですけど、つまりあたしなんかの考え方としては“引き寄せ”というかやっぱり“思ったもん勝ち”その結果、みたいな気がするタチのようなところがありまして。

 

だって、すごくないですか?

“凶、こいっ”って、どこか怯えながらのずばり“凶”

 

もってなくないですか。

もってるな、わし。

って思いたくならないですか。

 

 

たぶん、試しみたいなところがるのだと思っていてやっぱり、個人的には偶然みたいなものに預けたがることが案外嫌いなんだと、近頃なんだかよくわかってきているところがありまして。

 

わかりますかね、言ってること。

 

そのつもりで行きたいものだなあ、といった心意気におけるところの“凶”って、何だか試したものにちゃんと試されてる気がしてくるんですよ。

させてもらってる気がする、という方が正確なのかもしれないです。

 

“買わなければ当たらない”

ならぬ、

 

“その気がなければ話にならん”

あるいはやはり、

 

”思ったもん勝ち”

みたいな価値を、ちゃんと教えられているような気がしてしまうんですよ、個人的には。

 

ポジティブぅー?

 

そうでなくて。

 

 

おみくじ。

あれって、運のランキングとかそんなものじゃない気がするんですよ。

どんな考え方でもいいから、引いたものを見てどう受け止めるのか。

考えるのか。

そういう態度が、思考が、行動が、つまり例えば今年一年の自分というものを決定するのではないのか、実現させるのではないのか、という気が個人的にはするんですよ。

 

そんな意思にあっての、時代と共にその配分量を手加減されてしまったという“凶”に巡り合える、というそんなタイミング。

怖い気もするけれど、どうせならそっちと会いたいなあ、というタイミングでの、という偶然ならぬ“思ったもん勝ち”を証明されるかのような応答。

 

何だか、悪くないじゃないですか。

良し悪しではなく、ちゃんと試させてもらえるのか、自分は。

試す価値があるのだな、今年も。

という、実感。

 

まじで最高です。

 

 

お店でジッとしていたら、巡り合えないこともあるでしょ。

え? 仕事サボるからバチあたるんだぞ、って?

 

そんなこと考えかたこそ、逞しく裏切って、意思や意志を働かせてなんぼ、という時代にとっくになってると思うんですよ。

平日の昼間に街をウロウロしていると、営業されている同業のお店さんの様子とかも見れるじゃないですか。

それって案外いい観察にもなることで。

 

よそさまのことは、よそさまのことなので別にいいんです。

みんな頑張っていることくらいわからないはずないのだし。

むしろ、そういうことに刺激を受けるべきだと思うし、比べて卑下することでもないと思うのだし。

 

そんな意味でも昨日思ったことは、“ウチ、案外ちゃんとがんばってんなー”なんてあんがい自惚れたようなことだったりもするんですね。

もう長いこと商売させてもらっているんですけど、それは道々にある他のお店さんも同じことで、この商売ってそんなに大儲けできる稼業でもないんですけど、案外つぶれない稼業でもあるらしくて、長らく続けていらっしゃるお店さんは多いんです。

 

そんな中でも案外見受けがちなのが、”変わらないなあ”という良くも悪くも代り映えしないような“生存感”とでも言いましょうか、つまり“そのまま”みたいなことなのだと思うんですけど。

 

つまり、あたしの飽きっぽさみたいなことが案外、とりあえず動いては見えてるな、ということなんですけれども。

自分で言うのもヘンなんですけれど、ウチはけっこうヘンなお店ですから案外変わり映えはしてるっぽいな、と。

地味にですけど。

お客さんによくおっしゃっていただける「来るたびにどこか変わってるよね」という、つまりそういうこと。

 

当たり前と思っていたんですけど、それも案外あたしなりのちょっとした才能みたいなことのつもりでいてもいいんじゃないのかなあ、何てことを思ったりもしたんですね。

あたしなりの営業努力でもあるんでしょうけど、もっと単純なところで、例えば“居心地いいところにしたい”くらいのつもりでしかないようなところが明らかにあって、一所懸命というよりはわりとワクワクしながらやってるところがあって、それが長年を経てのウチのお店らしい“変わり映え”になっているのなら、それも悪くないなあ、なんて気もしないでもないということなんですけど。

 

けっこう暇そうなんですよ。

でも、歯を食いしばって空っぽのお店を開け続けるのも辛いですけど、思い切って遊んじゃうのもけっこう、勇気要るんですよ。

どっちがいいの? 真面目なの? って考えると、あたしなんかは“古くせえな、そういうの”って、どうやら考えてしまう。

 

全然不真面目でも、怠けているつもりでもないんです。

むしろわざとやっているくらいのところがあって、つまりそれはまだまだ死なないための、“凶”を引けるというその確率こそを楽しんで昇っていきたいという態度、そういうやり方考え方をしっかり実践したいという意志が、はっきりあるんです。