アラズヤ商店

日々のナマキズ

腰が治ったわけではないことくらい知っている

ああした方がいいよ。

こうした方がいいよ。

これだとああなるかもしれないから。

それだとこうなるかもしれないから。

 

何を言っているのかわからないのはあたしの文章であって、他人の言うことではないはずなのだけれど、他人の言う正しいことがだんだん何を言っているのかわからなくなってくることも、少なくもないらしい気がしているのはあたしだけですか。

 

若い頃から腰が猛烈に悪いのです。

“腰が猛烈に悪い”という日本語からすでにどうかとも思うのですが、たぶんわかるはずのとおり、若い頃からものすごく痛い状態のまま人生を過ごしています、ということですその通りです。

 

大愚和尚さんの動画を観ていたら、“人間が感じる腰痛の原因の八割方が、自らの心に抱えている怒りの感情からくるものだということが、最新の医療の研究から明らかになったのだそうです”という情報を得て、もちろんあたしは“そんな馬鹿な”などということはお得意の爪の先ほども思うことはなく、“まじかっ、そりゃえらいこっちゃっ”と、信望して止まない大愚和尚さんから授けられた情報を少しも疑うことなく純粋な知識として受け入れるわけなんです。

 

が。

あたしが若い頃から抱えている“腰痛”は、大愚和尚さんが言われるところの筋骨関節それぞれの状態が概ね不備なく健常と思われる状態において自覚する“腰痛”というものではなく、明らかな損傷として腰椎が分離骨折していることを原因とする“腰痛”なので、怒りの感情などと言われてしまうともろにハッとしてしまうような感情子こそこれまでの人生常に抱えて生きてきた自覚はゴリゴリにあるので、よもやあたしも、とも思いたくなりもするのですが、実際には余分な原因もちゃんと抱えているので痛いものは痛いのです、構造的に明らかに。

 

が。

そんな構造的欠陥からくる痛みとしてして自覚するあたしの“腰痛”なのですが、なぜでしょう、近頃は痛いなりにも痛くない、とまたしても日本語としてどうかと思うような言い回しをしてしまうのですがつまり、痛いなりにもあんまり痛くない、という小康状態にあってこうして起き抜けからこたつにどっかと座り込んでブログを書いていたりしても、案外ジッとしていられる、一先ず柔軟をしてから行動に移らなければみるみるうちに筋肉が硬直してきて立ち上がることも歩くこともままならなくなるような有り様だったあたしの腰が、いきなりジッとしていられる、痛くない、という日々がここのところ安定的に続いているわけなのです。

日課としていた柔軟と筋トレこそ疎かにしてしまえるほど、という情けない告白も含めて、その快調さこそをご理解いただきたい所存なのです。

むしろ、余計なことをして筋肉を、障害部分を下手な刺激に晒したくない、などと考え始めてしまうほどに、無条件に調子がイイ。

 

僥倖。

 

 

考えてみると、あたしはたぶんだが、けっこう無理を重ねて生きてきた気がしているのです。

二十歳で親と死に別れて以来、いよいよ自分ばっかの人生、というものをひたすらに生きているのですが、とにかくヘンな人生なので、それなりに大変だったのです。

大変なだけで、ぜんぜん儲からない。

大変なだけで、健康でない。

大変なだけで、お別ればかりに遭遇する。

やめておきますが、そんな不遇ばかりにぶち当たる人生だと、もう完全に勝手に思い込んで生きてきたわけなのですが、そんなことこそについて大愚和尚さんがおっしゃられるところの“怒り”という感情を自らの腹のうちに丹念に練り込んできた自覚は恐ろしいどころではなくほぼ悪趣味レベルでゴリゴリにある、ということは先にも申し上げました通りですので割愛します(日本語)

 

 

つまり、精神的にも身体的にもさまざま苦しいような状態にあっても、あたしはけっこう当たり前のつもりで無理をして働いてきましたし、明るく図々しく感じ悪く情けなくしかしながら、サボることもなく生きてきた自負は自分なりにもあるわけで、損状況にあって常に“腰痛”を抱え続けてきた、ということなんであります。

実になげえ付き合いなんだぜ。

おじいさんになったら湯治場で暮らすようにしなさい無理ですよ、と二十歳のときからお医者さんに言われているような有り様なんだぜ。

 

 

そんなあたしの“腰痛”が、どうしたものか痛いなりに痛くないときている。

一体どうしたことか。

 

人類としてはいささかミニマムな感じのあたしの脳みそが想像するには、しかもそれはついさっき思い至った結論であるのだけれど、つまり、あまり働いていないから、ということではないのかということなのだ。

何しろ、年末から年明けの間ほとんどまともに働いていない。

単純に、体を酷使していない、ということだ。

 

痛い箇所が明らかにある分、それをかばおうとして周辺の筋肉が疲労することで発症する“腰痛”

それはつまりぶっ壊れているあたしの腰に言わせればむしろ“健常”とすら言えなくもない状態であって、骨折部分が滑らないように、まだ筋力で支えていられる状態にはある、とも理解できないこともないということなんです。

そうして、筋肉が疲れている、ということ。

 

そしてもう一つ、気に病んでいない、ということ。

何気にこちらの方がデカいと、個人的には考えているのだ。

大愚和尚さんが言われるところの“アレ”だ。

 

あたしは曲がりなりにも自営業の商売人なので、働かすにいると確実に死ぬし、誰も助けてなんかくれない世間におけるクソくだらない微小生物なんです。

ですから、命の話よりは単純にまずは世間的に死ぬのはいやだなあと思うものですから、死なないための方策を都度計りながら生き抜いてきたことは自らにもあきらかではあるのです。

最高で一日二十時間週六稼働で生きていた時期もあるくらいですから、案外気合入ってます、我ながら。

いや、普通に辛かったですけれども。

つまり、そんな行動原理こそが人生においてクセになっているようなあたしのことですから、“まともに働いていない”などという事態となれば、通常ならジッとなどしていられるはずもないのです。

しかしながら。

 

ジッとしている。

 

ジッとしているのだ。

とは言っても、まじで何もせずにボーっと突っ立っているだけ、あるいは臥せっているだけというわけではないから勘違いしないでほしい。

現状において出来ることをちゃんとこなしたうえで、我ながらわりと穏便な精神状態で過ごしている、ということなのだ。

 

つまり、大愚和尚さんがおっしゃられるところの“怒り”の感情。

 

あたしははっきり申し上げました通り、辛かったんです。

なんでこんなに要領の悪い生き方しか出来ないんだろう、選んでしまうんだろう、耐えてしまうのだろう、投げ出してしまわないのだろう、とずっとたぶん、怒ってきたような気がしているのです。

もちろん、自分のせいなのだけれども。

でもやっぱり、どうしても不思議としか言いようがないくらいには、理不尽なことに出会いすぎてきた人生のような気がしてしまうんですね、だって人間だもの。

 

運命、という言葉は案外とてもニュートラルな感情において、他人を生かしも殺しもしない、つまりやはりニュートラルに認識存在するもののような気がしています。

 

朝っぱらからおっかないようなこといってるなあ、我ながら。

 

 

つまりとりあえず何が言いたいのかというと、やはり”怒り”ということなのだと思うのです。

今現在、あたしのものすごく状態のよくない腰、それはあくまでも物質的物理的にという意味なのだけれど、そんな腰に“怒り”の感情がわりと作用していない状態なのではないのかと、悪影響を与えていないっぽい状態にあるということなのではないのかと、かなり本気で思えなくもない気がしているのである。

 

本当についさっき、思いついたことではあるのだけれど。

ふと、思い当たってしまったということなのではあるのだけれども。

 

 

あたしは今年のことを勝手に、“スピリチュアル元年”なんて名付けて呼ぶことにしているのです。

実にそんな気分であることよ、ということに過ぎないのだけれど、どうしてもそんな気がしてしまう、ということにこそ自分なりに結構価値のようなことを感じている、ということです。

 

ちょっとどうかしている、と思いたくなるくらいにはヒマなんですけど、それにしてもこれまでとはちょっと違う向き合い方が出来そうな自分と、近頃毎日会話している気がしています。

それもかなり熱心に。

それはもしかしたらある意味甘やかし気味な感じである気すらしないでもないんですけど、へんな話、努めてそうするべきとすら思っているフシがなくもなりません。

 

何しろあたしはこれまでずっと、辛かったんですから。

 

そして、やっぱりあまり幸せではなかった気がしているんですな。

それはものすごく罰当たりみたいな言い方には違いないのだし、実際たくさんの人に助けられて励まされて救われてきたはずなのだし、自分でもそれはわかっているし感謝もしているのだけれど、何だろ、単純にそういうことばかりでもないでしょ人生ってものはさ、という何だかよくわからないけれどかなりはっきりとしたような“揺り戻し”のような感情やら思考のようなことに、突き動かされているような気がものすごくしているんですね。

 

怠けるつもりも怠けているつもりも少しもないのです。

少しくらいあるか。

今まで以上に頑張る気合は漲っているんですけど、はっきりと、今まで見たいな辛いばかりの頑張り方はもうしないぞ、と自らの心に誓うものがはっきりとあります。

そういう頑張り方は、この先はもうダメなんだぞ、という判断のような意志がはっきりあるんです。

理由は少しもわからないのだけれど。

 

そんな心境であることについて“スピリチュアル元年”などと名付けたがっているのかと思うと何だかものすごくくだらないように思えないでもないんですけど、あたしはこれまでの人生において、むしろそういう心境や判断や単純に勘のようなことをあまり信用して過ごしてきてあげられなかったような気が、ものすごくしているわけなんです。

 

自分で言うのもアレなんですけど、アレあんですけど、でもそういうことも自分で思っているだけではなくはっきりとどんどん言葉にも行動にも表していくべきだとやはり思うものなので言ってしまうんですけど、あたしは案外勘がイイので、それをこれからは自分にもちゃんと働かせてあげなければならない気がしているのです。

人のことばかりやけにわかってしまって、何も大変なことなどないのにどうしてこの人はこんなにも苦し気でしかいられないのだろう、などと酷いことばかりを思ってきた気がしているんですけど、近頃はそんなことについてすらまったく別の考え方、向き合い方のようなことが出来るようになりつつあるらしいことに気付いています。

へんな言い方をしてしまった。

 

上手く言えないのだけれど、何だかそれにしてもこれまでとは調子が違う自分と、毎日丹念に会話を重ねているつもりでいる、ということなのではあります。

 

それなりに、楽ではない毎日ではあります。

しかしながら、なんとも新しい気分ではあるので、しっかり勘を働かせてつつ“怒り”のようなことこそをすっかりと忘れていきたいものだなあ、と思っているわけなのです。