アラズヤ商店

日々のナマキズ

その先の“ギブ”

良かれ、としてきたはずのことが、案外誰よりも自分のためにこそ全然“良かれ”な感じではなかったらしいことに気付いてしまうとなんだかもう、実にアレですよね、本当に何だかアレな感じになりますよね。

 

“アレ”な感じなんですよ、実に。

実に“アレ”な感じなんですけど、でも果たして本当にそうなのかなあ、とももちろん思うんですけどもね

だって、そうじゃないですか?

“良かれ”としたはずのことが、案外自分にとって全然“良かれ”な感じでなかったらしいことに疑問を感じるということはつまりいわゆるところの“ギブ アンド テイク”的な精神にかなりというか、完全にもとるような魂胆のような気がしてしまうじゃないですか。

そうじゃないですか?

 

 

“ギブ アンド テイク”

 

平たく言えば、“与えて、得る”ってことですか。

もしくはもっと精神的に前向きに表現するなら、“欲しがる前に、与えよ”みたいな心構えのようなことだと個人的には受け止めているんですけど、間違ってますかね。

たぶん、そんなにズレたことは言っていないつもりなんですけれども。

 

 

これまでの人生でも、あたしはわりと“ギブ アンド テイク”という精神というよりはマナーのようなことには案外慎重なような姿勢を心掛けて暮らしてきたつもりではいるんです。

自分でそういうことを言ってしまうのも何だかアレな感じなんですけど。

アレな感じなんですけれども、といった言い訳をしたがることすらも、もしかしたらそれを知る誰かに対する“謙遜的言い訳的建前ごと”的なギブだかテイクなのかよくわからないですけれど、まあ先駆けての気遣い的な何かのようなものがさせること、言わせることではある気がするじゃないですか。

編集がタイトでなくてすみません。

何しろ起き抜けですから、あたまが回りません。

実に甘っちょろいことですよねえ。

 

 

行列待ちがそもそも嫌いですし、嫌いなだけに、その順番の先を争うことも努めて気に欠けないことにしています。

夕方のスーパーとかでのレジ待ちなんかでも、イライラと待ち並ぶのは好きではないので、タイミングよく順番が空いたような気がするまで、何度もぐるぐるとレジの辺りを行きすぎてはいつまでもお店の中を歩き続けることになってしまうことが、かなりあります。

 

お正月のテレビで、まあ大体二日頃だと思うのですが、初売りの福袋に殺到する人たちの話題を目にするのが嫌いです。

そんな時代はとっくに終わっているのに、一体どんな景色なのだろう意味がわからん、のような気分になるからです。

 

“先行予約受付中”みたいな優先的な焚きつけに出会うと、むしろ引いてしまうかなり薄情なタチです。

たとえ大好きなアーティストのライブチケットだとしても、“早めに確保しなければっ”のようなことを考えたことがあまりありません。

CDとか書籍とか、予約特典的な販売手法もかつてはよく見られたと思うのですが、個人的には案外その特典がむしろ“かさばりもの”みたいな気がしてしまって、けっこう通常版の方を選びがちのようなところがあったりします。

この例えは、あまりよくなかったかもしれないなあと書きながら思っています。

だって、差し出す側の戦略ですもん。

悪意ではなく、戦略。

積極的に売り出すための、戦略。

積極的な仕掛け、商売。

それを効果的に加速させるために思いついた、特典。

それに反応したくない客なんて、差し出す側からみたら、あまり期待値の高い客とは思いませんよね。

商売になる相手とは、考えにくいですよね。

まあ、あたしの場合もちろん買うには買うんですけど。

 

 

買うには買うんですけど。

ハイキタコレ。

 

そんな感じですよ。

まじで商売って、こんな感じなんですたぶん。

あたしがこれまで“良かれ”としてやってきた商売って、こんな感じこそを優先的に扱って何とかやってきた感、みたいなのがすごいんですよ。

 

だって、“特典なんてかさばるし”って思っているお客に、余計なモノ押し付けたって単純に逆効果でしかない気がしてしまうのは、当然ともいえる心理じゃないですか。

つまりそれって差し出す側、つまり商売をするあたし側からの“ギブ”のつもりではもちろんあったわけなんです。

そんな感じを先ほどと同じく要約してみるとたぶん、

 

“押しつけとかしないから、嫌いにならないでちゃんと出掛けてよね、待ってるからね”

 

みたいな感じなんだと思うんですよ。

訳し方が何だかキモいのはアレなんですけど。

 

全然悪くないでしょ。

必要なときに必要なものだけ欲しいだけ、みたいな人には全然悪くないというよりはむしろ、親切なくらいでしょ。

ものすっごい消極的に親切でしょ。

 

具合いいばっかりで、誰もそんなもん感謝したりしないでしょ。

 

ハイまたしてもキタコレです。

“感謝したりしないでしょ”

 

あたしがギブした末に手に入れたいものは例えば、“感謝”ってことなんでしょうか。

あたしはお客さんに“感謝”されたいんでしょうか。

文脈的には完全にそんな感じらしいんですけど、どうなんですか。

 

 

そんなはずねえだろアホかナメんな。

 

 

と、ハッキリ申し上げたい。

感じ悪くても結構、ナメんな、なんであります。

 

近頃“ギブ アンド テイク”というほぼ美徳のように扱われてきたらしいマインドワード(そんな言葉あったっけか。まあいいやニュアンスでわかって)が、その意味を徐々に曇らせがちに思われつつあるのはつまり、そんな誤解の影を踏みがちに扱われ始めたという側面もないような気がしないでもない、とまたしても曖昧な表現になってはしまうのですけれど、所詮その貫通度のようなものが、これまでとは明らかにその精度のような、使い勝手のようなことを疑われ始めているということには違いないのではないのかと、個人的には感じていないでもないということなんです(日本語)

 

あるいは単純に“ギブ アンド テイク”というメッセージそのものが、時代感覚に対して古びたものになりつつある、とか。

間違っているとまではいわないけれど、完全にフィットするものではなくなりつつある、ということなのですけれども。

 

テイクは後回しで、とにかくギブしてギブしてギブしてギブしてギブしまくる、ということを定説の如く唱えられていた人は少なくないですけれど、もちろんそれは間違っていないというよりむしろ、人間の態度として圧倒的に正しいとあたし自身だけでも信じて疑わないものなんですけれど、ですけれど、何だかやっぱりアレなんですよ。

 

アレなんですよね。

 

 

”テイク”っていう誤解、ってことなんですかね。

 

つまり、”与えて、得る”という要約の仕方がたぶん、間違えているというか、いや間違えているのではなく例えば、視点がズレている、みたいな感じっていうんですかね。

何だかそんな違和感が何だかやっぱりムズムズしてしまうんですよね。

何だかとても、アレな感じなんですよ、何だか。

 

“得る”ということはやはり、自分以外の誰かから、ナニモノかから“与えられる”ということなんですかね。

つまりはそれが誰かにとっての、ナニモノかにとっての“ギブ”になる、ということなんですかね。

そうして世間における“ギブ アンド テイク”という精神は巡り巡る、と。

 

いや、完全にそうでしょ。

間違いないでしょ、そんなの。

そうあるべきでしょ。

 

 

ウチはな、“商売”やねん。

“商売”しとんねん。

 

何故に関西弁なのだろう。

それはあたしの中から不意に表出する、何か。

誤解を嫌いたがるような何か、がさせることのはずなんである。

 

なんてな。

 

 

商売なんてものは、差し出した末にその対価としてお金を頂戴する、ただそれだけのことじゃないですか。

本当に、それだけのことじゃないですか。

 

それだけのつもりでやっているのに、その上に“感謝”を求めたがっているだなんて、失礼なこと言うんじゃねんよコラ。

って、言ったのあたしか。

そっかそっか、とんだうっかりさんなことだなや。

 

 

“感謝”こそ、こちらが思いつくことなんであって、差し出すもののはずなんである。

そんなことくらい、端からちゃんと理解している。

 

これはまさに“キレイゴト”ですよ、完全に。

 

“キレイゴト”なくして商いが出来ますか。

そんなことこそ、ナメんな、とハッキリと申し上げたい。

あたしはそんな“キレイゴト”こそをずっと裏切りたくなくてやってきた、そんな自覚ばかりはチカライッパイあるんです。

“キレイゴト”完全肯定というハイパー自惚れ全開におきまして。

 

“キレイゴト”であるからこそ、遠慮するんじゃないですか。

慮るんじゃないですか。

 

“押しつけとかしないから、嫌いにならないでちゃんと出掛けてよね、待ってるからね”

 

だったんじゃないですか。

 

 

でもそれは、やっぱり商売という目的をちゃんと実践したいらしいことにようやく気付いたらしいノロマなあたしにとって、少しも楽しくないことのような気がしてきてしまった、ということなのだと、個人的には思っているのです。

 

もっとゲスいことを遠慮なくやらかして、小銭をかき集めたい、ということではないんです。

単純に、あたしが”商売として差し出すべきギブ”ということについて、その理解や目的に対する態度を改めたいような気がしている、と。

ものすごくそんな気がして仕方がないと、いうわけなんです。

 

そんなことを言いたいがために、朝っぱらからこんなにもキレのない長文を垂れ流しております。

よくわからん自分にこそ、お付き合い申し上げておるわけです。

 

 

“商売”をするあたしが差し出すべき”ギブ”

それが何なのかは少しもわからない、何てことはこれっぽっちも言うつもりはないのです。

むしろ、何をしたいのか、するべきなのか、その最初の一歩のようなことは完全にわかっているつもりでいるし、それを臆さずに実行することばかりをここのところ繰り返してばかりいるのです。

 

言うなれば、これまで信じてきたはずのあたしなりの“ギブ”の、完全に逆さまのようなこと。

 

そんなつもりには違いないようなことを、完全にやりまくる気概から逃げないことばかりを自分に言い聞かせています。

“キレイゴト”すらも、完全に真っ逆さまを目指す見通しに違いないつもりでいます。

 

そんなあたしなりのこれからの“ギブ”を、鬱陶しいなあとか、押し付けないでよ、と受け止めたくなる人は世間においてはむしろ当然の如く優先される心理ではあるはずとはおもうのですが、所詮あたしは“商売”という仕組みを、それが生み出してくれるはずの充実のようなことを楽しみたいと考えるだけの人間なので、それを“良かれ”と思って慮ってばかりいては、あたしなりのその先の“ギブ”は差し出せないのではないか、とやはりそんな気がしてしまうのです。

 

所詮嘘でしかないような慮りで、その先の“ギブ”なんて絶対に差し出せるはずもないと、そんなものはつまらないと、完全にそう考えている、という朝っぱらから図々しい感じの白状を堪え切れない、イヤな感じ。

 

何だかアレですよね。