アラズヤ商店

日々のナマキズ

”良き日”とは、自分ばかりのことではありませんでした。すみませんでした。

何だかんだ言いながら、結局きのうは新しいおサイフを買ってしまったアラズヤ商店です。

何のことって、アレですよ、”良き日”ですよ、きのうの続きですよ。

 

有言実行ならぬ、“支離滅裂”でも何でもいいじゃないですか、何かしら謂れのある日だというなら、一丁ノッてみるかあ、といった心意気は大事ですよね、の方を優先してみました、ということなんです。

お店に行ってみたらやっぱり、おサイフ見てる人がとても多くて、“ああ、そうなんだ。やっぱりみんなもそうなんだ”なんてな。

ハロウィンでも恵方巻きでも何もでもいいじゃん、そうやって世の中の経済は回ってゆくものなんだよな、なんて、たまにその一端に乗ってみた気がすればそんな適当なこと平気で言ったりします。

 

単純に、日常的に持ち歩くものを新調するのって気分上がりますよね。

そういうことも久々に感じさせられたというか、それだけでももう、何か得した気がするじゃないですか。

それにしてもおサイフって高いですよね、しかし。

そのくらいの気合を以て扱いなさい、ということなら、それもまた良き学びということで。

 

ちょっと心残りだったのは、おサイフ見ているときにあたしの傍らに車椅子に乗った男性の方がいらっしゃって、まあお見受けするところ年の頃はあたしとそんなに変わらなそうな感じの方だったのですが、何があったかと言いますと、わりと予想がつきやすいことかもしれないのですが。

 

やっぱり同じくおサイフを選ばれていた様子だったのですが、アレです、そうなんです。

おサイフを陳列している棚が一部かなり高いところがあって、その方がそこを見上げられていたんですね。

“ああ、見たいやつあるのかな。手、届かなそうだな”

って、やっぱり思うものじゃないですか。

あたしも当然そのくらいのことは察したものですから、“良かったら、お取りしましょうか?”くらいのことは持ちかけてみてもいいのかなあ、と思ったわけなのです。

 

あたしはめちゃくちゃ人見知りなんですけど、人見知りって、あらゆるシチュエーションにおいてとにかく他人とのコミュニケーションが軒並み苦手、というわけばかりでもないんですよね。

たぶん、“他人が苦手”とかそんな単純な要因ではなくて、“シチュエーションにもよる”という部分も結構、大きい気が個人的にはしているわけなんです。

つまり、話しかけて然るべき理由があれば、それはまた別な話しではある部分もあるのだよ(日本語)、くらいのコミュニケーション能力の欠片くらいなら持ち合わせてはおりましょう、ということなのですけれども。

そんなものですから、ちょうどその男性があたしのすぐ横に来られた隙にちょこっと、そんなことを思いながらよそよそ、と接近してみたものなんでした。

どれ見たいのかしら? なんてちょこちょこ横目で観察しつつ、横づけピタリ。

キモいでしたかね、なんて思いつつやっぱご不便されてることでしょう、って思うものじゃあないですか。

 

しかしながらそんな折、ふと、なんですね。

 

“何か、余計なお節介みたいだったらイヤだな。むしろ失礼な感じだったならイヤだな”

 

なんて、アタマのスミを過っちゃったんですね。

まあ、よくあることとは思うんですけど。

お店の人、お声掛けしてあげてくれないかな、なんてズルいこと思ったりなんかもしてな。

 

これってつまり、“人見知り”が理由なんかじゃないよな、と。

何か、勝手に“良かれ”として思い遣りぶったような余計な理由をこじつけて、結局ただのちょっとした親切を差し出しそびれただけ、みたいなものすごくケチ臭い後悔にまみれてしまったんだぜ、ということなのですけれども。

まじでダサかったな、と。

 

確かにそういったまったくの親切心のつもりで思いがけず他人を傷つけてしまうこともあるかもしれないし、例えばアレです、電車でお年寄りに席を譲るか譲らないかみたいな判断のギクシャクみたいなやつ。

譲ってみたら、年寄り扱いしたみたいにキレられる、みたいな。

 

って、それこそまじでそんなことあるんですかね。

急に思ったんですけど。

ただのコントネタですかね、もしかしたら。

だったら何だか、あまりよくない気もするんですけど、そんなことを言いだしたらキリがない気ももちろんしますし、実際、微妙な空気になることもないような気もしないでもないですし(日本語)。

 

 

ハイキタコレです、“空気”。

 

やっぱり、“空気”って何だか、ダメな感じの扱われ方しちゃったよなって気がものすごくしますよね、近頃いよいよ特に。

あの、“空気嫁”ってやつですね、“空気読め”。

 

“察する”とか、欲目には“思いやる”くらいの気遣いも含まれたものとして、ちょっと極端ではあったかもしれないけれどとても時代感覚的な意味での“慮り方”のような、つまり“良識”のごとく、そんなマインドのようなものはものすごい勢いで世間に拡散されたはずで、あるいはそれを誰が呼んだのか“空気”とか、“読む”なんてワードセンスもすごく刺さったところもあったのだとは思うのだけれど、まったくそんなセンスそのままに、”人間的良識的センス”としてまったく疑いなく世間に装着されてしまった時期というのが、つい近頃までのことだったはずなんですよね。

 

車椅子でご不便されているらしいことは、ごく個人的にお見受けする感覚として明らかと思えるのに、“良かったら、お取りしましょうか?”なんて、店員でもない自分が声を掛けたら、気持ち悪がられてしまうかなあとか、ご不便されていることを見下げているように思われたら、不快に思わせてしまったらイヤだなあとか、つまり例えばそんなことすらも慮った風なつもりでしかいられないことが果たして本来の“空気を読む”という感性が思いつかせる“良識”として正しいことであったのか、本当に思いやりのある思考の取り方だったのかなあと考えると、やっぱりあたしの中ではハッキリと“NO!”だったはずなんですね。

はず、ではなくハッキリと後悔しているわけなんですけれども。

 

あたしがそんなくだらない逡巡とやり取りしているうちにその男性はいなくなってしまったんですけど、結局何だか、そんな身勝手みたいな思い上がり臭いような後悔にしばし暮れてしまいまして、要するに自分サイズばかりで何だか格好悪かったなあ、と。

 

自分のためにおサイフを新調することは出来ても、せっかくの“良き日”に当たり前の親切をしそびれてしまったら、何だか心意気としては嘘だよな、とはやはり思ってしまいますよね。

自分にガッカリ、というやつですねつまり。

 

あたしはアパレル経験もあるので尚更なんですけど、商売人という立場としてはやっぱりお店の方にお声掛けしてほしかったなとはやはり思う部分もあって、でもそれはそれこそ人様のお仕事のことだからあまり言いたくない気もしますし、商売ってつまりそういうことだよな、ともやはり考えさせられた気もしているわけなのです。

 

イイ商品を売っている、魅力的な技術を売っている、といったメリットを訴えることももちろん必要だけれど、それ以前にもっと簡単な部分での”気遣い”のようなことがあってこその商売だよな、とは努めて心掛けたいとは改めて思わされたわけなのです。

 

ただ、やっぱり一番にはそんな“商売目線”とか、商売人自らが語りたがるような欺瞞的な視点ではなくて、もっと単純に、“当たり前”みたいな心の働かせ方、差し出し方のようなことを、くだらないような小利口なような言い訳に化かして見損なってしまうことは、“ダメだよな、コミュニケーションとして単純にダメだよな”と、かなり心に渋いことを思いつかされたものなのです。

 

せっかくの“良き日”に、“良きこと”を簡単にしそびれてしまった、という後悔。

 

せめては、“良き日”であるからこその“心苦しき良き学び”であったと、受け止めたいものなのですが、やはり我ながら残念な振る舞いであったなと。

 

良き学びを与えられた“良き日”でありました、ということなのでした。

 

 

つまらない“空気”などいう言い訳に怖気づかずに、当たり前のことを当たり前に振舞えるような、単純な人間になりたいと、力いっぱい気付かされた“良き日”でありました。

 

ということにするべきだと、単純に思うこととします。

さっそく。