アラズヤ商店

日々のナマキズ

あたしは、何を払いたがるのか。

何度試みたところで、ダメになることの方が多いのは仕方のないことで、何しろはそれはかつての誰かが言ったらしい“人間だもの”というそれ以上なく心休まる言い訳がアタマの隅を過ってしまうからなわけで、しかしながらそんな心休まる言い訳をアタマの隅でほのめかすのはかつての誰かではなく、間違いなく自分自身であることは明らかなので、つまり引用主、のようなことには違いないので仕方がないと、今日もこうして脅迫の如く明け方の三時、四時と小刻みに目覚めながらそして五時、何も五時とまではこだわるまでもなく努めて早起きをしていると自らを言いくるめられる程度の時刻に起きればいいだけのことを、何故か五時を過ぎてしまうとアタマの隅どころではない心のどこかの何かが折れてしまいそうなことは明らかなので、しかもそれは“人間だもの”とはとりあえずはまだ行かないつもりで入るようなので、起きてしまうらしいのです。

 

起きてしまったのだ。

猫のコマさんこそやけに義理堅く一緒に起きだして、ストーブの前で丸くなっている。

こういう時間こそが好きなのだ、猫という生き物は。

と勝手に思って、思うことで勝手に愛しくなるということは案外ありがちなことなのだとつくづく思うのです。

本谷有希子さんの『異類婚姻譚』で、同じマンションのとある一室で暮らす猫をその飼い主と共に群馬の山奥に捨てに行くというシーンがあるのだけれど、そのシーンばかりは、猫飼いの一人としてもはや物語としてばかりではなく、むしろまさに単純に猫飼いとしてとても心苦しく切なく、もちろん愛猫との別れというほとんど恐怖とすら言える心許なさに心臓なのか脳神経なのかよくわからないけれどとても肝心な感じのところをざわざわと揺さぶられたもので、その前後の場面は描かれながら、猫一匹が山に取り残されるその瞬間は描かれなかったことはせめてもの救いで、あるいはそれを書いてしまうと感情がブレるというか、加速しすぎてしまうのが人間である、人間だもの、のような意味において作家としてそれはあえて避けたかったようなところがあったのではないのかと感じさせらなくもなかったのだし、それは読者にとって、それに出会う人間にとってといったこと以前に、作者自身がそこまで感情を昂らせては冷静に作品と向き合えない、扱い損ねてしまうような恐れを持ったように、それはもちろんクレバーな意味で、プロとしてという意味なのだけれど、それにしても何よりはきっと、この方もまた一人の猫飼いであることなのだろうなあと、そこまでのリアリティーをむしろ必要とはしないれっきとした感性の下に眺められる方なのだろうなあと、ひしひしと思わされたものなのでした。

 

朝っぱらから個人的すぎる書評でした。

どうかしておる。

が、今に始まったことではないので良いではないかカタいことを言うでない。

 

 

この三日間で、小説を六作読み漁ってしまった。

新しいものもあれば、かつて楽しんだ良書もある。

とりあえずなんだか急に読書熱が噴出して、とにかく読書がしたいらしいので、壮絶にヒマであることも助けて素直に従うことにしている。

きのうも蔦屋に行って、ずっと気になっていた今村夏子さんと、『コンビニ人間』で唸らされた村田沙耶香さんのデビュー作を買ってきて、さっそく今村さんは読んだ。

よくわからなかった。

すごく平易な言葉遣いというか、文面自体もすっきりとした印象で、たぶん少し余裕をもってまた読み返したくなるのだろうなあ、と。

続けて取り掛かった村田さんは、のっけからクセの強い内容で若干引いてます。

あたしにとって“読みやすい”と思わされる性質のものはもちろん圧倒的にこちら側で、けれど書き出しから案外文体がごつごつとしているというか冷えているというか、案外取っ付き辛くて構えてしまったような気分でいます。

まあ、所詮読むのだけれど。

音楽も小説も、その人のデビュー作品というのはつまり初期衝動と言われるものには確かに近いものが詰まっている感があって、棘がわかりやすく存在するような気にさせられてその人本人に触れさせてもらえるような気にさせてもらえるところ(日本語)が、何だかイイ、とよく思わされるものですという気が勝手にします(日本語)

 

 

にもかかわらず何故、遅ればせながらデビュー作を漁ったり、ずっと気になっていた作家さんに遅ればせながら手を伸ばすことになるのかというと、そんなに熱心に情報に網を張っているワケではないということはもちろんなのだけれど、単純に食わず嫌いであったり、知らないものを嫌うという実にわかりやすい損な先入観がさせることであったりと、結局のところ自らのセンスのない意志において食いっぱぐれている、という側面は多分にあるような気がしています。

 

ところがそれ以上に思うことは、あたしは基本お金がないので、気持ちはあってもお金は基本ないので(あえて二度言う)、かなりぶっこふ率が高い、というかなり根の深い原因を抱えている側面も、そんな理由としてかなりの領域を占めている気はしているのです。

 

ぶっこふ、つまり“ブックオフ”ということ。

お判りでしょうが、漫画書籍ゲームスマホ古着その他もろもろの買取販売業の”ブックオフ”さんのことです。

しつこいですか、すみませんそれはどうも。

 

あたしはぶっこふの百円均一の小説コーナーが一番の得意で、漫画コーナーとかには一切足を踏み入れない、そんなとこで立ち読みなぞしていようものならオタクとか、馬鹿とか変態とか引きこもり予備軍とか思われかねない、という全く時代遅れかつ殺人級の偏見にまみれた人間なので、小説の棚にだけ用がある、という態度を一切崩さないくそ最低なぶっこふユーザーとして、単純に時代の波に自ら遅れたがるはぐれたがる、という奇特な境遇のうちに暮らす者だったりするわけなのです。

この世はオタクの天下だというのに。

変態の天国だというのに。

 

単純に、ケチとか、最低ですな。

うん、最低だ。我ながら。

 

 

いや、知っている。

ずっと気付いていたのです、そんなことくらい。

 

 

やっぱり、アレですね。

ありがたいです、“新しいおサイフ”

またお話しが続いてしまうんですけど。

 

一粒万倍美と天赦日の合わせ技“めちゃくちゃ良き日”に新調したおサイフの初仕事として、あたしは“書籍を購入する”というミッションを選択させていただいたわけなのでした。

買いたい、とかねてよりアタマの隅にあった書籍の数々はすでにありますから、そんな折やはりアタマの隅に過るのはそう、“ぶっこふ”なのであります。

 

アレも欲しいコレも欲しいもっと欲しいもっともっと欲しい。

あたしの“夢”は、ぶっこふさんの百円均一の棚に咲く貧乏まみれでケチ臭いばかりのアダ花であることよ。

 

 

いやいや。

そんなことがあるか、と。

 

せっかくの新しいおサイフに、初っ端から中古書籍の購入などというややも手加減臭いミッションを授けるとは、果たしていかがなものかと。

百円均一の小説棚を“聖域”呼ばわりしたあたしが、舌の根も乾かぬうちに“中古書籍の購入など”呼ばわりとは果たして、ナニモノのつもりかと。

 

まあ、確かにそうなんですけど。

いや、だからこその“新しいおサイフ”ということなのですけれども。

 

 

これも気付きだ。

そうだ、気付き。

好きなものに敬意を払わないなんて、出来れば安く済ませたい、手に入れたい、などという魂胆は果たして、本当に“好き”などと言えたものであろうかと。

 

確かに、そうであろうと。

”新しいおサイフ”というその存在が、そんなことすらもあたしのこのクソ根性に清々しく吹き込んでくれようものとは。

 

“良き日”万歳なのであります。

 

 

好きな作家さんが、憧れのような作家さんが身を削るかの如く紡ぎだしてくれた最高の文章に、たとえ社会的流通対価としての六百円ないし八百円程度(あたしは文庫派)の支払いにケチのような負担を覚えてどうする、と。

こんな田舎の片隅で支払われる何百円かが、その一部が大好きな作家さんの印税として支払われる、ということをあたしは考えなかったのだろうかと。

いや、考えないことはなかったはずなのだけれど、社会的に流通する一形態として、お安く読める機会があるならそれもよいではないか、というごく個人的な目的意識のみに甘えていた、努めて甘えていたことは明らかで、つまりそれはつまり、その程度の“価値”としてしか、自らの内に認めていなかったということには違いない気がしてしまうではないですか。

 

 

“価値”という言葉に、近頃ことあるごとに考えさせられることが少なくないのです。

 

“価値”とは、一体なんぞやと。

世の中にあって、“価値”と考えられるものの最たる基準は恐らく“値段”のような気がするのですが、いかがでしょうか。

基準としては、明快に明確にそのものの“価値”を一元的に定めてくれる価値基準であって、むしろあたしたちの社会はそれを目当てにアレコレと目まぐるしく稼働しているといっても過言ではないはずですよね。

 

このクルマは、ヨンヒャクマンエンです。

と、クルマのメーカーさんが言う。

 

この服は、イチマンハッセンエンです。

と、アパレルブランドさんが胸を張る。

 

ウチはカット料金、サンゼンゴヒャクエンでっす。

と、あたしもなんか適当に言ってみる。

 

そんな値段設定のようなことを、世間では“価値”の基準として扱うということなのでしょうか。

いえいえ、そんなことはないでしょうと。

値段はあくまでも差し出す側のただの都合であってつまり、“値段”

よく通販番組なんかで聞く”希望小売価格”なんて、嘘か建前かよくわからないアレみたいなものでしかないのではないのか。

希望、って何そのフワッとした言い方。

真面目に払った方がマヌケみたいな言い方。

ちゃんとハッキリ言ってくれよ、君は一体いくら欲しいんだい?

なんて思わされないでもないですよね。

え? あたしだけっすか。

そうすか。

そうすか?

 

 

結局のところ、世間は“値段”は“値段”であって、それを購入する意思とその“値段”が釣り合うものと思わなければ、買わないはずなんです。

それは、差し出す側が設定した“値段”について、それを必要とするお客さん側が想像する“価値”と釣り合ってこそ、見合ってこその“買う”という行動につながるということで、こうして言葉にしてしまうとまったく当たり前ですし単純なことなんですけど、所詮“価値”って、そういうことですよね、ということです。

 

あたしは大好きな作家さんの書籍を手にすることに、その文章に触れることに、その程度の“価値”しか見出さない、見出せない人間なのかと。

つまりこれはぶっこふさんをディスっているのではなく、あたし自身が払うべきとする“価値観”という話で、せっかくの“新しいおサイフ”を、初っ端からそんなケチのような“価値観”に付き合わせるのは、何だか粋ではないよな、のようなことを思ってしまったということなんです。

 

そんなことを言いたいがばかりにこの長文。

作家さんへの敬意を見損なったようなことばかりをしているから、こんな有り様なんであることよな、なんて。

 

“価値”って、ヤバいですよ。

まじでヤバいです。

 

 

あたしはもろに商売で人生を生きている人間ですから、”カットサンゼンゴヒャクエンです”なんて言っているのはあたしンちばかりのただの都合で、お店がヒマならそれはお客さんがそんなお金払うほどの“価値”は感じていません、ということと何も変わらないということには違いないはずなんです。

これはヤバいです。

キツい。

毎日軽く死にたい。

いや、そんなことは簡単に口にしてはいけない悔い改めよ愚か者退散。

 

 

ああ、なんてことでしょう。

ウチのお店には、“価値”がないんです。

 

黙らっしゃい。

言霊を舐めたらあかんぜよ。

 

 

しかしながら、現実問題。

営業努力も、セールスもしますけど、お客さん自身がその“価値”を認めていなければ、そんなものは努力でも営業でも何でもなく、完全にただの迷惑でしかないことは明らかですよね。

感情って、そういうものに違いないじゃないですか。

 

 

さあ、どうする。

 

という迷いや恐怖こそが常につきまとうのが“商売”というものなのかもしれなくて、常にそういう感情と戦うことこそが“商売”というキビしさであるとは思うのです。

本音を言えばそれ以外にも思うことはもちろんあるんですけど、その優先順位というものは確かにあるはずのようなことを思うと、やっぱり自分はまず“商売”として何を振舞うべきなのか、といったことにはやはり意識を働かせるべきと思うので、まあ、いろいろ考えますし、考えるばかりもよくないですから適切に、自分を励ますこともします。

 

長らく商売というものは、それが差し出す目的に対して設定する”値段”について、消費者がそれを適切な“価値”として認めるのか否か、というせめぎあいの中で営まれてきたものなのだと思うのです。

もちろんそれはこれからも変わらない“基準”ではあると思うのですが、そんなことに加えてこれからの“商売”というものは、すでに行き渡ってしまった“サービス”とか“商品”という目的以上に、そこから離れてなお“価値”になる“理由”のようなことが、しかも極めてパーソナルな共有関係において必要になってくるような気が個人的にはしているので、なかなか考えるべきことはいよいよ複雑であることだなあ、悩ましいことではあるなあ、と思わされるわけなのです。

ヤバいです。

キツいです。

 

でも、面白いよな、と。

 

こんなことを言いだすと、言いたくなることは山のようにあるのですが、そういったことこそは“価値”という意味を自分らしく考えたがるこれからの“価値”として、慎重に意思や思考や言葉に変えてゆかねばな、慎重にな、たまには大胆にな、なんて考えたりもするわけなのであります。