アラズヤ商店

日々のナマキズ

“やりたいこと”に潜む潜在意識レベル貧乏

やりたいことや、手に入れたいものは考えるだけでもたくさんあるのだし、やりたいことをやりたくて、手に入れたいものを手に入れたくて毎日頑張るのだし、毎日は何もそのためにだけ頑張るものでも頑張れるものでもないのだけれど、努めて思うことは、やりたいことはあるし、手に入れたいものがあるということを常に意識していたいものだ、ということだったりするのです。

 

おこがましくも。

 

 

じゃあ、例えばあたしは何がやりたくて、何を手に入れたいのか。

それを言葉にして明らかにしてしまうのはなんとも照れくさいことだし恥ずかしくもあるのだけれど、今気づいたんですけど、“明らかな言葉にする”ということも案外、簡単じゃないぞ、と。

 

“やりたいこと”と考えたときに、案外そのつもりで思いついてしまうことがむしろ“やりたくないこと”であったりすることって、ないですか?

いま、考えたら完全にそうだったので、いきなりそんなこと言っているんですけども。

 

“やりたくないこと”

例えば、“タイムカード押したくない”というのは、人生を通じてあたしがわりと言い続けていることなのですが、結果、人生ずっとそんな風に逆らうハメにあっているというか、自ずとそういった方面に自身のコマを進めている気がしているんですね。

もちろん、タイムカードを押さなければならない環境に身を置かざるを得ない時期ももちろんあったのですが、まあ頑張りましたけど、それにしてもそうして始まる一日というか、そういった職務に付き合わされることが本当にもう辛くて辛くて……。

 

“タイムカードを押す”程度のことさえ我慢出来れば、今現在のあたしの暮らしよりもよほど多くのモノを、豊かなモノを与えられた、手に入れられたはずであることはもちろんあたしみたいな“愚か脳”にもわかるのですが、“わかる”と“出来る”はどうやら別ゴトらしく、あたしには所詮向いていないだけのことでしかなかったんでしょうね。

そんなあたしの都合ばかりで、人生の序盤に強烈に影響を受ける我が子は堪ったものではないですよね、いやマジな話しで。

いろいろなことがありましたし、まあそれにしても何とか無事に、よく育ってくれたものだなあと、日本って何だかんだ言ってもよく出来た国であることよ、なんてすっとぼけるしかないんですけれども

 

脱線。

 

 

でも考えたらアレですね。

“やりたくない”に従った結果、“やりたい”らしい結果にはなっているんですもんね。

“タイムカード押したくない”と思い続けた結果、あたしの毎日には確かにタイムカードは存在していませんもんね。

それどころか、近頃に至っては時間間隔がいよいよ希薄になってきて、何時にお店に行こうかも予約時間次第ですし、おうちに帰ろうも仕事の状況次第ですし、仕事がないならないなりに、するべきこと“やりたいこと”のようなことを案外考えなければならない状況になるというか、させられている気がしないでもない、と。

 

そうして改めて、“やりたいこと”とは何ぞや? と。

案外この流れから思い当たるには、例えば“時間に縛られたくない”とか、“余計な都合に影響を受けたくない”みたいな、かなり感覚的というか、精神的な制約から逃れたがるような“マインド”に傾いたような欲求に一纏めに出来そうな気がしないでもない気がしてきたぞ(日本語)、と。

あたしはたぶん、そんなことによるストレスに逐一敏感に、ときには怠慢ですらありながら、日々の暮らしを困窮に陥らせてまでも、それにしても“何かが違う”という所詮感覚的違和感のようなことにこそ逆らえずに、こうしてタイムカードが存在しない暮らし、極力時間に指図を受けない暮らしに生きている結果になっているらしいのです。

それが正しいのか間違っているのか、ということは別問題としてなのですが。

 

少し言葉は違ってしまうのだけれど、“暮らしたいように暮らしている”ということ。

物質的、経済的には決して豊かではないけれど、精神的にはかなり納得のいくレベルで過ごせていることは、自分なりにもかなり明らかなつもりではいるのです。

生活、人生としての安定よりも、毎日の精神の不満や不安定の方が自分には辛かったと、案外ハッキリとして生きているつもりではいるのです。

その結果の、ボロいクルマ、相変わらずのアパート暮らしということなんですけど、実際のところ、あたしは素敵なクルマに乗りたいとも、立派な家を建てたいとも熱心に希望したことがなかったりします。

そもそもそんな器ではない、という自身への見積もりの低さもあいまって、そんな感じということ。

 

人ぞれぞれ、“人生”というものに向けてリアリティをもって思い描くものって、本当に“人ぞれぞれ”なのだなあ、と人生も半ばを過ぎてよくよく思わされるものなのです。

 

 

あたしは、精神が辛いばかりにいろいろと多くのモノを、拒否して生きてきたものだなあと、良くも悪くもしみじみと思わされる今日この頃です、と。

根性ナシだなや、と。

一体何を言いたいつもりなのだろう、全然わからなくなってきた。

 

 

しかしながら結果、“やりたいこと”と“手に入れたいもの”が、案外似通ったモノになってきたような気もしないでもないんですよね。

つまりあたしは“タイムカードに縛られない暮らし”がしたくて、“精神的な制約を極力受けない暮らし”を手に入れたかったということなんだと思うんです。

 

”旅行に行きたい”とか、“薪ストーブのある家を建てたい”、という感じでは全然なかったというか、なかっただけ、ということ。

 

近頃思うのは、何にもない気がしてた毎日の暮らしに、あたしがいつもずっと願っていたこと、欲しがっていたものはまるきり普通にあったな、ということに近い、そんな“感覚”のようなこと、いつの間にかそうなっていた、のような“実現の仕方”のようなことで、その不思議さのようなことなのかもしれないなあ、ということなんです。

 

あたしはかねてから思っていることがありまして、それは“人というものは結局、やりたいことしかやらないし、出来ない”ということなんですけれども。

 

お腹が空いたから食べるし、眠いから寝る、みたいなこと。

それではちょっと単純すぎる例えなのかもしれないですけど、そんなにも違わないことでもある気がしています。

食べたいのに食べない、つまりダイエットとか、アレだって“食べたくない”っていう“やりたい”をやっているのだし、夜更かしすることもまた然り、“眠りたくない”をやってるということ。

 

極端な話、引きこもりとか、アレだって薄暗いような恨み深いような顔つきでいようがいまいが、世間からつまはじきにされたつもりでいたって所詮、つまはじきにされたくていじけたような顔をしているわけで、世間につまはじきにされた、正当に扱われない人間だなんて思われたくないけれど、結果そうなっていたり思われてしまう状況にあるということは、“そうしていられる”ということで、つまりは”そうしていたい”ということにはそんなにも違わないはずだと、個人的には普通に思うところがあります。

けっこう冷たいところあるしな。

仲の悪い夫婦となんかもそう、離婚せずにいがみ合っているばかりいるのは”そうしていられる”ということで、”そうしていたい”らしい何らかの理由や欲求のようなことは必ずあると、個人的には勝手に思っているところがあります。

そうでなければ成立しない何かを必要としている、と勝手に思っていたりします。

 

 

つまり人間って案外、“やりたいこと”とか“手に入れたいもの”なんてことをいちいち考えたりイメージするまでもなく、そこに向かってまるで無意識の如く歩みを進めている、進めてしまうものなのではないのか、と。

良くも悪くも、自分の願うこと、望む結果に無意識のうちに向かっている、と。

 

 

何か、すっごい便利っぽくないですか。

 

 

ものすごく身もフタもないような言い方をしてしまった。

ですけれどもしかし、あたしたち人間にはそんな無意識レベルでの“実現力”とか“実行力”のようなものが備わっているのだとしたら、そんな素敵なサイキックってないじゃないですか。

なかなか強烈な威力じゃないですか、と。

それぞれの個人レベルにおいて。

 

ヘンなハナシなんですけど、例えばあたしはかなりの貧乏なんですけど、そんなことすらそんな“サイキック”に照らしてしまうとつまり、あたしは“貧乏になりたかった”ということなんだと思わないでもないところがある気がするんです。

それどころか、それにはものすごく実感も自覚もゴリゴリにあって、つまりあたしは生まれながらの貧乏育ちも祟ってか、“お金は悪”のような意識が、かなり強烈に染みついていることを実はものすごくよくわかっているんです。

商売をしながら、お客さんからお金頂くことを心のどこかでまるで“罪”のように思っているところがある。

これは、まじの本音です。

 

どうしてそんな人間が、“商売”などというものに自らの半生を費やしてきてしまったものなのか。

人生って、まじで不思議なものですな。

皮肉なものですな。

 

 

いやいや。

そうではないですよね、むしろ納得ですよね、何だか我ながら。

こうして書いているうちに、今わかった。

急にわかりました。

 

“タイムカードを押したくない”

それは何故なのか。

あたしは時間に縛られるのがイヤだからとばかりに思っていたけれど、それも確かにそうなんですけど、その根っこにあるものはつまり“お金”というものに対する意識だったのかもしれないです。

 

あたしはもうそれこそ本能レベルで“お金は悪”と感じさせられているわけですから、つまり“タイムカードを押す”という行為は“全然好きではないお金を得るために時間を拘束される目印”ということ、その象徴としてあたしはものすごく違和感を、拒否感を思いついていたわけで、それは何しろ“悪”と感じさせられている“お金”のために“精神的な制約を受けたくない”という無意識レベルの欲求を手放さなければならないわけですから、考え方次第ではあるけれど、少なくともあたし自身にとっては極端な言い方をしてしまえば何も得るものはないし、そのくせやりたくないこと、一番イヤなことを強要されるわけですからそれはもう、苦痛以外の何ものでもないのは当たり前のことだったんですね。

 

あたしは“お金は悪”ということを、“タイムカードを押したくない”と言い換えていたに過ぎない、ということ。

そうしてあたしはつまり、自らの意思で貧乏を選び取っていたらしいんですよね。

商売人として“お金は悪”という意識に縛られながら、それにしても“悪”には違いないらしい“お金”のために”タイムカードなんて押したくない”し、“お客さんからお金をもらって申し訳ない”と、ずっと思い続けてきたわけです。

 

あたしは、“商売”には向いていない。

“お金”にこそ、向いていないということだったんですね。

 

 

しかしながら。

すっかり世間では今、強烈な“パラダイムシフト”があちこちで起こり始めている、とあたしみたいな馬鹿さ加減でもひしひしと感じさせられる、そんな状況にある気がして仕方がない昨今、というわけなんです。

あたしは相変わらず“お金”そのものには今一つ積極的な意識は持てずにいるのだけれど、例えばそんな“パラダイムシフト”のような動きには、そんな世の中の流れのようなことにはものすごく興味があって、何もないような生き方のわりには、いえ、だからこそなのかもしれないんですけど、現状に留まる感じにはあまりこだわりがなくて、変わるべき理由を思いついてしまったなら変わるべき、じゃんじゃんやりたいように変わるべきと普通に考えるタチで、ですから今現在のまだまだその先端ばかりではあるけれど変わりつつあるその流れには、ものすごく好意的な印象を、興味を、賛同を思いついているわけなんです。

 

そうして結果、例えばそんな“パラダイムシフト”が目指す方向であったり理想のようなものが表すもの、結果として示しやすい基準として存在するものが相変わらず“お金”であるなら、あたしは何だか、ずっとこれまで個人的に抱え込んできた“お金は悪”という意識を、時代に合わせてちゃんと塗り替えていくべきだよな、と本当に今さらながらにその思考のようなものを変えつつある、努めてそう自分に働きかけることを意識するようになりつつあるんですね。

そう仕向けているつもりでいるんですね。

 

もちろんこれからの時代、“結果”として目指したいもの、手に入れたいもの、そんなものの中心になってくるのは多分“お金”とは違う、それに代わるそれ以上の“価値”を持つものにハッキリと移り変わっていくらしいことはあたしレベルの馬鹿の理解にとってすら明らかなことらしく、もちろんあたし自身も“お金”というものに対する意識を改めながら、それ以上に移り変わっていく“価値”というものにこそ期待していることは言うまでもないのです。

 

“やりたいこと”

“手に入れたいもの”

 

具体的にイメージすることすら難しい気がしてしまうくらい、“こと”や“もの”に溢れて満たされたこんな時代だからこそ、無意識レベルで突き進めてしまう“何か”のようなごく個人的な“サイキック”な人生を、あたしは何だか改めて信じたいような気分にさせられているわけなんです。

せっかく“良き日”に新調したおサイフですから、積極的に大きなお金を、なけなしの大きなお金をわざとらしく差し込んで、“お金って、イイよね”と、これまでのあたしにとってはさも下品のようなことをあえてボソボソとつぶやいてみたりします。

なかなかヤバめの景色ではあります。

しかしながら、何だかそれも悪くねえな、と思いたがることそのものを客観的に仕向けて楽しんでいるところがあります。

 

そんな“パラダイムシフト”も、何だか悪くねえな、と。

 

 

あなたにとっての“やりたいこと”や”手に入れたいもの”は、何ですか?

その根っこにあるらしい“理由”に、“パラダイムシフト”は起きていますか。