アラズヤ商店

日々のナマキズ

ホリエモンは“センチメンタル”になど甘えたくないだけです。たぶん。

今朝もこうして早起きしつつ日記のようなことを書きながら思うのは、“実に便利な世の中であることだなあ、それにしても”のようなことばかりで、何しろ、日記と言いながらその実、記しているのではなくタイピングしているだけなのであって、紙やペンなど必要ないのだし、可愛らしかったりシステマティックであったりする日記帳を年末や年の初めにLoftあたりでワクワクと探し回る楽しみがない代わりに、年々かさばる“積み日記”的な履歴のやりどころに困る手間もない、といった実に合理的な側面が得られたりなんかもするわけなんですね。

自分の留守中に誰かにそれを盗み見られる心配もないし、掃除の途中あたりで思わず過去の日記を眺めだしてしまったばかりに手が止まり時間ばかりが徒にダダ流れる、といった非合理かつプライバシーの侵害といった事態に用心を計る手間もない。

 

必要なのは適当なパソコンとインターネット環境と電気だけ。

あと、早起きに負けない気合と脅迫の才能とか、それはまた別のハナシであるか。

 

どっちが良くて悪くて、といったハナシをしているのではなく、むしろ昔ながらの日記帳の方がお金が掛からなそうだし、ペンを走らせるのは単純に文字書きが上達するし、見返し読み返しも実は物理的にも手っとい早いのでいいのだけれど、例えばさっきから繰り返しがちな“合理的”という視点に立つと何だかそんなアナログな“持ち味”のようなこと如くが色褪せがちな気がしてしてしまうのは、事態としての優劣というよりは単純に、“時代性”とか“価値観”の違いでしかないのだろうと、個人的には思うものなのですがいかかがなものなのでしょうか。

 

まあ、取り立てて考えるでもないことではありましょうが。

 

 

そもそもあたしは“合理主義者”であるつもりはないのです。

むしろ、目的から若干ズレがちですらあるような余分な事情にこそこだわりがちであったり後ろ髪引かれがちな性分であったことは明らかで、例えば先程の日記帳とか、それをいちいち買い求める手間だとか、出来るだけ思い入れが持てそうなそれに出会うべき価値だとか、そんなことに積極的に関わりたがる性分であったはずなのです。

 

そういったことを語りたがる上でどうやらすでに明らかであるらしいことは、その文脈がすでに過去形らしくあることで、つまりあたしはすでにそういった“価値観”に基づいているわけではないらしい、ようなことについてわりと自覚的であるらしい、ということなのです。

明らか、と言いたがるわりには“らしい”連発、という文脈の不確かさであることにもご注目頂きたい。

これはまさに、あたしという単なる性分こそがさせることに違いないのです。

実に不確かな性分を抱えておるらしいのです。

まあいいか。

 

ミニマリズム”とか、“断捨離”とか。

要はヴィーガンでもファンダメンタリストでも何でもいいんですけど、何かしらの主義であったり方向性に自らを敢えて拘束状態におきたがる感じとか、単純にスタイルとかセンスらしく装いたがるような明確な行動意思のようなものはあたしには完全にあり得ないのですが、それにしても世間はやはり“シンプル”であったり“身軽な感じ”であることにはわりと興味深いところがある、そんな“時代性”のようなことを装いつつあるらしい流れであることは明らかで、それはつまり、日記帳であることよりは電力とその他様々なインフラが実現してくれるちょっと高価ではあるけれど、その後の実装にかなり“価値”の高い働きを見せるものにこそ“シンプル”とか“身軽な感じ”である実感のようなことを見出せるらしく、ご多分に漏れずあたし自身もその効果とか、実用性こそを殊更に実感させられている一人ではあるわけなんです。

 

日頃からの価値観を語るのにすでに一千五百文字を要してしまうことについて、表現的コスパのようなことは考えないものなのか。

やはりあたし自身については“合理的”でも“シンプル”でも、何でもなさそうなんであります。

 

 

”生活コストを見直す”

”経費削減”

 

なんて、日々のの生活の中では私生活でも職場においても“コスト意識”のようなことは意識したりさせられたりしがちなもので、つとに貧乏体質であるあたしなんかに至りましてはことさらに、そんな意識に人一倍傾きがちであることは自らも自覚するところではあるのです。

 

単純に“無駄をなくそう”と思いついたとき、以前なら真っ先に取り組むべきはやはり“無駄遣い”だとか、“整理整頓”だとか、わりとシンプルな”生活管理”的な意識から取り掛かるような、個人的な意識からのアプローチから見直したのち、効果としての全体像を獲得する、のようなスタイルが概ねのようなきがするのですが、あのかつてのISOだとか、そんな感じだったじゃないですか。

ヴィーガンっぽさ”とか、まあまあな感じだったじゃないですか。

ミニマリスト”でも別にいいんですけれども。

 

そんな意味において、近頃は“コスト意識”というものはその見直し方すらも割と合理的というか、直接的な経費、固定費のようなもの発生するのだけれど、結果として節約になる、例えば“固定電話とか、もういらなくね?”であったり、”カット野菜とか、普通に便利じゃね?”なんて、かつては無思考レベルでとりあえず装備するべきであったり抵抗を思いつくものであったはずのものが、いつの間にかその効率や便利さといった観点において日常的に標準化してしまったことはわりと多いような気がしていて、事実あたしのお店からも固定電話が姿を消してからかなり久しいわけですし、お客さん用の雑誌も月々何千円も購入していたものが、今はiPadの読み放題で固定費として月額たったの四百円で済んでしまったりするわけです。

 

インターネット環境であったりその為のデバイスが必要であったりと、必要になるものは恒久的であって比較的高価なものが必要にはなってくるのだけれど、それをどこまで“コスト”と見なすのか、といった判断こそもやはり“価値観”が思わせることらしく、電話は連絡手段であって、日記はあくまでもパーソナルな記録手段であって、つまり何が言いたいかといえば、その目的についてわりと特定的に機能することが多く、単純作用に特化してそれぞれが存在しているという“効率の悪さ”ということなのだと考えるわけですよね。

インターネット環境があれば、それは連絡手段のみならず情報手段や制作、企画、記録管理とか、かなりの目的も踏まえた“手段”として活用が見込めるわけで、あるいは電話という直接的な効果に時間を奪われることこそを“コスト”と見なして削除してしまえる、という判断も可能になってくるわけです。

 

それが良いか悪いか、といった“価値観”はまた人ぞれぞれということではあるのですけれども。

 

 

単純な“目的”という意味において、“効率”とか“合理性”のようなことに熱心に言及されているイメージのある人の代表が例えばホリエモンさんだったりするのだと思うのですが、個人的にはあの方の考え方に賛同を思いつかされることはわりと多いタチだったりします。

割り切りがハッキリしているような、“原理主義”的な達観の気配が強いようなイメージを持たれる方もあるいはいらっしゃることとは思うのですが、それもまたそれぞれの“価値観”こそが思わせることのはずなので、つまりそれぞれということには違いないのでしょう。

 

ただ、あたしが個人的にホリエモンさんの考え方に賛同したく思わされがちな理由というのは、案外そういった“合理性”のようなことに聡い、つまり明瞭な判断力であったり知性がもたらすらしい皆さんもよくご存じのあの威力爆発と言っても過言ではないような生き様に憧れる、感化される、といった感じであるよりはむしろ、ホリエモンさんご自身がそもそもそういった姿勢であるらしいことに“合理性”や“価値観”のようなことを思いつくつもりなど毛頭ないような佇まいでおられることで、“何でそんなこと気にすんの? っていうかいちいち考えないよそんなこと”なんて調子でつねに嘯きがちな姿勢こそを譲らないらしく標榜されがちなところだったりするあたりに、あの方独特のイラ立ちのようなものを感じさせられがち、考えさせられがち、であったりするような気がしているわけなんです。

 

実際、たぶんなんですけど、あの方があらゆる話題について意見や考えを求められる際に口々に語られることは、ホリエモンさんだからこそ、といった知見や専門的にな意見であるらしいことはもちろんなんですけど、それ以上にあの方が根拠として語ろうとされている真意のようなものは常にもっと他の意図にあって、それが例えば“価値観”であったり“時代性”といった“効率”とか“合理性”のようなことを、まるで呼吸の如く当然として受け入れて生命活動の如く発揮する、その“疑いのなさ”のような、つまりはちょっと極端な言い方になってしまうのかもしれないのだけれど、ある種の“時代的善良さ”のようなことを思いつかされないでもない気にさせられるわけなんですね。

“イラ立ち”というのもつまり、“何でおまえらそんなこともわかんねえの?”と少しばかり口は悪いけれど、要は“おまえらが思っているようなことなんて、もうとっくにどうでもいい時代になっちゃってるんだから大丈夫なんだよ、心配しすぎなんだよ”という豪放磊落みたいな誘い、見通せる者だからこそ差し出せるらしいシンプルな良心、のようなものと受け止められなくもない、というごく間接的な信望を思いつかせる、ということなのですけれども。

 

 

その印象はときに冷ややかとすら見受けられなくもないし、味方によっては傲慢であったり横暴のように未だに映りがちなところもあるのかもしれないんですけど、そんな“印象論”のようなことにいちいちかまけたがることこそ古臭い、”もうそんな時代じゃねえよ”と切り捨てんばかりの割り切りの良さには、ある意味懇切丁寧な案内よりもよほど、丸出しの分配の意識のようなことを個人的には感じさせられないでもないのです。

 

あるいは個人的に一番考えさせられるのは、あの方がおっしゃられるところの例えば“結婚とか人生の無駄”といったアグレッシブなメッセージ。

その真意、のようなことなんですけど。

 

結婚して、子どもが出来て、家を建て、クルマを買い、子育て大変、お受験、就職、孫の面倒、と言い出したらキリのない“家族”とか“人生”にまつわるコストを節約すれば、人生で二億弱の無駄なコストが節約できる、のようなことをおっしゃられているのをどこかでお見受けして、つまりはあるいはそんな“打算”と思えなくもない明瞭な”人生設計論”のようなことを全面にうちだしてフィーチャーされていたわけなのですが、もちろんホリエモンさんご自身もそればかりが真意ではないことは了解した上でもそういったアプローチを受け入れる、それを許容させる姿勢にこそ秘められているのかもしれないあの方だからこその真意のようなものを想像する、ということなのですけれども。

 

ものすごく“合理主義”らしく、“効率至上主義”らしく思われがち、受け止められがちなホリエモンさんらしいのですが、その実、個人的にはもしかしたらあの方は普通の感覚よりもよほど人間臭い“センチメンタリズム”のようなものこそを裏切れずに、あの強烈な人生を生き続けている人なのではないのかと、考えさせられなくもない気がしているのです。

 

”結婚とか、人生の無駄”

 

というメッセージは、単純にそれにまつわるコストについての話などではなく、あの方なりに“負担”らしく感じさせられるコスト、つまりはあの方が人生において成し遂げようとすること、それを実現するために確保するべき担保するべき“効率”に対して悪しく作用しかねない“コスト”というものの最たるものが、もしかしたらあの方にとっては人生におけるあらゆる“センチメンタリズム”ということなのではないのかと。

それをいともたやすく、やり切れなくやるせなく生み出しかねない“結婚”あるいは“家族”という存在に対する恐れにも似た憂慮、ややも失礼な言い方にはなってしまうのだけれど、すでに結婚、離婚も経験されて子どもも授かっているというむしろありがちなくらいの来歴におけるあの方なりの後悔や責任やノスタルジー、あるいはやはりセンチメンタルということになるのかもしれないのだけれど、そういったことに対して、あの方はあの方らしく、世間が勝手に思いつきたがる“ホリエモン像”のようなものとは全く似ても似つかない、むしろとても人間臭い思いや傷のようなことを、日常生活でも油断すれば常に脳裏をかすめてその“効率”を墜落させかねない”センチメンタリズム”というあの方なりの何よりの“良心”のようなものに極めて誠実に向き合われた結果として表出してしまう“傲慢”らしく受け止められがちな印象や態度を、個人的には想像させられずにはいられないわけで、それは正解も不正解もなく、あの方にはあの方なりの戦いが今も常に続いているのに過ぎない、というあの方個人に限定した上での“センチメンタリズム”すらも、単純にそのあまりにも個人的すぎる”良心”という性質のようなことこそを、何だか信頼したくさせられる、ということだったりするわけなのです。

 

何言ってるのかわからなくなってきた。

そもそも日本語として破綻してる気がする。

まあいいや。

 

 

そんなことはつい先日、今は別々に暮らしているムスメと外食をした日の夜に、少し寝付けずにいた布団の中でボーっと思い至ったらしいことで、とてもこう何でしょう、意欲が沈む感覚というか、なんともやるせない気分を思いつかされた気がしているわけなのです。

そういった感情は、親としての立場を持つ人なら誰しもが思わずにはいられない感情のはずで、あるいはむしろ人間らしく当然の如く思い遣って然るべき感情であることは理解出来るのですが、やはりなんともやるせない気分ではなることだなあ、と。

 

やるせなさに、少しばかり沈みかけるらしい気分を思いつかされたわけなのです。

 

が、しかしながらちょっと待てと。

何故に家族のこと思い遣ることで、気分を沈ませることがあろうかと。

離れて暮らす家族を心配するが故に、思いつかなければならない不安や後悔で鈍らせる気分とは、何たるやと。

 

つまり例えばホリエモンさんがおっしゃられるところの“結婚とか、人生の無駄”といった発言は、それが意味する真意のようなものとはむしろ、“そんな身勝手みたいな、独りよがりみたいな弱弱しいセンチメンタルに付き合ってはいけない。そんなものはむしろ、大切な家族に対して失礼ではないか”といでも言わんばかりのソリッドな感情の告白ではないのかと。

そんな照れ臭さということではないのかと。

自分以外のモノに依存したがることを断固として拒否する強硬なまでの態度、それは極めて良心的な目的意識であることに違いなく、つまりとても“合理的”な、目指すべき目的に対して極めて誠実な態度であって、それを目指す覚悟こそを自らに課すための断固たる宣言に違いない、などとややも興奮気味にあたしなんかはカイシャクしたがってカンシンしたがって仕方がなかったりするわけなのです。

 

そうしてやはり、思うわけなのであります。

あたしは全然、”合理的”などではないのだな、と。

 

“効率”だの“コスト削減”などと造作もないことを謳いつつ、固定電話を排除したり、インフラに傾倒することで標榜する“合理化”など、所詮ヴィーガンだのミニマリストだのといった何とかイズム的な囚われと何ら変わりのない上っ面のことでしかないのだなあ、と。

 

どうして自分はこんな暮らしをしているのか。

その目的や真意は何にあるのか。

 

そんな意識にこそ誠実に“合理的”に効果を発揮できる頑丈な意思を、他人がどう受け止めようが誤解しようがそんなことは関係ない、と強硬に貫けるような“センチメンタリズム”との向き合い方こそを、その必要性や覚悟のようなことこそをホリエモンさんには想像させられるわけで、学ばされるわけで、たとえそれが誤解のようであったりしたとしてもそれはそれで構わない、と、近頃そんなようなことを思い浮かべてしまったことをすでに六千文字の上を費やして非効率に書き散らしておるわけです。

今日は月曜だし休んじまおうか、などと鈍らなことを企みつつ。

 

 

理論や手段のようなこと以前に、まずは自分自身を躾けるような態度というものは実に大切なことだなあ、と思わされるわけです。

良かれとして蝕むような“センチメンタリズム”に拘泥して例えば“親”として存在するべきとする”良心”のようなことは、もはや“良心足り得ない”ということが、だんだんとバレ始めてきていることに、実はあたしですら気付き始めている気がしているんですけど、あなたはどうですか。

 

子どもの受験が、就職が、結婚が、子育てが、孫が。

何かにつけ“家族”という関係に思いや心や不安は付き物で、あるいはそんなことばかりを理由に頑張ったり悩んだり楽しかったり苦しかったりすることが人生であるらしいことを全面的に受け入れて対峙して戦う、そんなお父さんお母さんおじいちゃんおばあちゃんが、あたしのお客さんにも本当に多くて、本当にアタマが下がる思いなんですけど、それと同じくらいに、そんなに依存してばかりいたら、見えるものも見えなくなっっちゃうかもしれないぜ、なんてものすごく無責任かつ馬鹿げたことを思いつかないでもなかったりするのです。

あたしみたいな”非合理的”な人間風情でありながらも、ということなのですが、最低ですか。

 

けれどもしかしたら、そんな皆さんの”アタマが下がる”ような思いに向けてこそ、例えばホリエモンさん言いたいことはあるいはむしろとても開放的で優しい、これからの時代を見据えた上でのとても“合理的”な考え方のその一端を示したものなのではないのかと、個人的には思えなくもないわけなのです。

 

家族のために、それを憂うような頑張り方、食いしばり方なんてそれぞれがそれぞれに望みたいことなどでは絶対にないし、そんな思い入れ方はむしろ相手にも、自分の人生にこそこそ効果的ではないし、失礼ですらあるんじゃないですか、むしろ傲慢な考えですらあるんじゃないですか、とあたしみたいなタチの人間には聞こえるわけなんです。

 

あたしはあたしらしく考えて、善良で自分を発揮したところで例えばムスメにとっての“父”として、固有のものとして存在したい。

ムスメのために自分を犠牲にしているなんてことは、爪の先ほども思われたくない。

 

というのは案外、あたしなりの“良心”であって、ムスメに対する“品性”のようなことですらあると、思っているんです。

そればかりは結構、“合理的”な向き合い方だとは思っているつもりなのです。

 

ムスメのことを心配するがあまり、常に気分を曇らせがちであるなんてことは、なにしろムスメに対してこそ何より失礼な気がしてしまうのだし、そんな窮屈な思いなどさせたくないと当然の如く思うわけなんであります。

 

そんなことばかりが、せめてホリエモンさんの思考と少しばかり通ずる気がしてしまう、というそんなお話でした。

 

意味わかんないですねまったく。