アラズヤ商店

日々のナマキズ

ウチの壁画は、バベルの塔みたいなものですたぶん。

去年の暮れから突発的に始めたお店の“壁画”ならぬ、落書き。

 

“きみのツメ痕をちょうだい”などと銘打って、つまりはこんな手作りだらけらしいお店を作りながら、それにしてもあたし自身ばかりであれやこれやと趣を重ねることについてある日突然、馬鹿馬鹿しいような気がしてきてしまったのが全ての発端ではあるのだけれど、そんな趣旨も何もほぼ理解されぬまま、誰よりもすっかり飽き始めているあたしがいるのです。

 

わずか半月余りで、書き足す余地を即座に思いつくには明らかにみっちりとしてややも戸惑うくらいの雰囲気には仕上がってしまった感のある“壁画”

“無理ムリ、絵心ないから”と、どんなお客さんでもほぼ百パーセントの確立で口々に言い逃れては、筆を手に取ることすら憚られるように感じさせられる程度には奇妙な“仕上がり感”を標榜しつつある“壁画”

一人のお客さんが二度めの筆を入れるタイミングを待たずして、異様な存在感のみを纏いつつある“壁画”

 

果たしてそれは、当初より目論んだ“ツメ痕”なるものに適ったものなのだろうか? と日々お店の玄関に向き合う度に、アタマの隅でちらちらと思わされるものなんであります。

昨日は、長らくお世話いただいているお客さんが、「スゴねえー」と言いながらご自身のスマートフォンに画像として収めておられました。

「スゴいでしょ。よくわかんないけど、なかなかの出来栄えでしょ」

などとあたしもついつい軽口を叩きつつ満更でもない気分に甘えさせていただきながらそれにしても、“スゴい、の方ではなく、よくわかんない、の方がもちろん本音でありますのでそこのところ誤解なきようお願いいたしたいですまじですシャレなんです”などと下卑たような独白ばかりがついつい、アタマの隅をかすめるわけなのでありました。

 

 

昨年の十月にあたしが暮らす地元地域ならびに日本各地を猛襲した台風十九号の爪痕は今も痛々しく、あらゆる箇所でその被害の復旧は未だ目途も立たずにいる状況で、道々の交通の混乱も日々続いているわけなのですが、それはあたしのお店の前を行く国道においても同様で、通勤時間はおろか日中の往来でもタイミング次第ではなかなか不便そうな様相に見受けることも少なくないわけなのであります。

 

そんな折。

 

のろのろと道を行くしかない流れ渋滞に身を任せつつ、手持無沙汰な気分に追いやられがちであるドライバーの皆さんが、安全運転に心を砕きつつその瞬間的隙間にちらちらと、つまりはウチの例の“壁画”、いつのまにやらよくわからない“威容”というか“異様”な気配ばかりを纏いつつある“壁画”に、理不尽にもその興味を引き寄せられつつ“……なんだ、アレ”のような判然ならざる視線をあられもなく注がざることやむなし、のような有り様であるらしいことをこちらこそひりひりと察することやむなし、のような有り様であることを日々しくしくと実感させられがちでいるわけなのであります。

 

 

“ツメ痕をちょうだい”などと嘯きつつ、いよいよワケのわからないものに仕上がりつつあるらしいのです。

所詮、“……なんだ、アレ”のような直感的反発こそを思いつかせるばかりの代物に成り果てつつあるらしいのであります。

 

「まあまあ、ヤバいですよねぇ」

「まあ、独特な感じではあるよね」

「ですよねぇ(薄笑)」

 

といったお客さんとのやり取りはほぼ日常で、仕出かしながらあたし自身こそその下卑た感慨を適切な言葉に変換することに些かどころではなく躓きまくるという不器用な日々。

 

「でもなんか、オモシロくないっすか」

 

などと所詮性分同様ぺらっぺらみたいな愚かしき不時着を繰り返すばかりなのであります。

 

 

 

オモシロくないっすか。

 

言ってしまえばそれはあたしなりの赤裸々な模索という有り様には違いなく、空しくもその本音に従うなら、一目に“オモシロい”と誰しもが快く理解出来るものになどもはや意味はない、のような意思が刷り込まれていることは、思いついた当初からの第一義であることには違いないのです。

ヘンな店名からはじまり、予約アクセスも営業時間もわかりづらいような有り様で、外壁には“PALM READER is here”のメッセージ。

それに対を成す、“柳屋ポマード”のレトロブリキ看板。

 

そして、ついには意味不明の“壁画”

 

 

オモシロくないっすか。

意味わからなくないっすか。

 

参入障壁、高すぎないっすか。

 

 

 

いやいや、そんなに卑下してばかりでもいられますまい。

あるいは“模倣性が低い”とか、そんな言い方もありそうなものではないか、などといったことをわずかばかりでもなく思わないでもなく、わからなき者など捨て置けばよいだけのことではありますまいか、などと何故侍口調であるのかは自分自身でもわかりかねるのだけれど、つまり平たく言ってしまえば“いいじゃん、好きにやったら。どうせやりたいようにしか出来ないんだし”なんて、所詮砕けたような思考くらいしかあたしを支えてくれるものなんてありやしないことこそわかり切っているわけなのでありまして。

 

 

 

要はあたくし、けっこう図々しい性分なものですからつまり、そんな“異様な威容を誇るらしき壁画”こそ、何だかそんなつもりもなしにそれにしても、タイミングよく仕出かしたものではあることよな、などと台風による直接被害に見舞われた方々の気分すら逆なでしかねないようなことを飄々と思いつかないでもなく(言い方)しめしめと(言い方)、こうしてウチがやはり所詮何だか調子のおかしなお店であることを渋滞に退屈を肥やす多くのドライバーの皆さんにこそじっくりとご観察いただくにふさわしい妙なアイコンをしたててしまったものであることよの、などと。

それもまた運命だか天命だかへんてこな性分だかが思いつかせる人生というしょうもない有り様なんであることよの、などと思えないでもなくいたりするわけなのです。

 

 

“怪しい店”

“ヘンな店”

などと揶揄されかねないようなことを恐れてみたところで、そんなことで一体誰に、何に得があったものなのか。

どうせ立ち寄ることのない縁のない人に“怪しい”と思われたところで所詮縁のないことには違いないのだし、むしろそう感じてしまうものなら誤解のないところでむしろ事態としてはスムーズなところではないのか、などと考えるタチなものだから仕方がないのです。

“怪しい”と思わせているのではなく、そう思いついてしまう人とはそもそも縁も相性もあるはずもない、という生意気な達観という観察。

 

 

そんなこと、気にするだけ損だ、と。

感じ悪いっすかね。

 

 

 

結局何の意味があったのやら、自分でもわかりかねるウチの“壁画”なのですが、とりあえずの考察としては一先ずの“名刺代わり”のような何か、一目瞭然として好まぬ人を端から遠ざける明瞭な予防効果、親切で前のめりなフィルターとしての機能はある意味効果的に望めようものなのではなかろうかと。

 

徒に抵抗ばかりを重い付かせるばかりであるのもいかがなものかとは思いつつ。

 

 

となると、とりわけ次なるフェーズとしてあたしが思いつくべきことは恐らく、“怪しい店”とまでは思わないらしい人々ばかりに向けて、以下にしてまさにこちらに向かわせる、そんな気持ちを思いつかせるカジュアルな一手を思いつけるか? といった観点にあることはほぼ間違いないような気がしているのだけれど、いやはやそれこそがまさにムズカシイ。

今さらの如くムズカシイ。

 

つまり、誰しもが争って打ち出して効果的であったらしい“インパクト勝負”のようなイメージ戦略とは、もはや別の領域のハナシになってくるはずなので、馬鹿にとってはシンプルにハードルの高いばかりのハナシになってくるわけではあるのです。

 

 

さて、次はどんなことをしようか。

するべきなのか。

 

考えれば考えるほど、ちっともわからないのです。

というか、自分ばかりで考えることなどどうせ少しもオモシロくなどないのに決まっているのだ、という結論こそがこのたびの“壁画”に向かわせた何よりの理由であったのだから、事態は何だか無限ループ化しつつあるのだとか何とか。

 

 

つまり、あんまり考えているつもりも何もあったものではないらしいのが本音といったところではあるのです。

 

はて、次は何をしたものか。