アラズヤ商店

日々のナマキズ

仏壇神社の日々

そもそも年の初めから“スピリチュアル元年”などと勝手にぶち上げまして、ぶち上げただけのつもりが人間というのは不思議なもので、みるみるうちに本当にそんな気分になってきて、近頃はやたらに近所の神社に出向いてばかりいます。

 

肉体のみならず、精神的にもじじい化が進んでいるということなのでしょうか。

 

平日は仕事が昼から(しかも予約があればな)なので、朝から用事を一通り済ませて少し早めに家を出て、方面よりは時間的なことを意識しながら最寄りの神社を巡ってます。

神社なら何でもいいわけではなく、だからと言って神社信仰にそれほど知識があるわけでもないので、あたしの場合は“諏訪神社”と名の付くところは一通り巡ってみるか、みたいなつもりでいます。

諏訪大社を本社として各地に祀られている神社さんですね。

ググってみると、あたしンちの界隈だけでもたぶん十か所以上はあるみたいなので、お店まで範囲を広げるとかなりの数になるのではないかと。

 

地元の狭い範囲に土着して祀られた小さな神社さんがほとんどなので、つねに心配なのが“クルマ停める場所あるかしら”ということなのです。

実際、クルマを停める場所はおろか神社の場所すらおぼつかないことも地図音痴な人間にはよくよくありがちなことで、杉木立ちの景色などからも大体察しがつくのだし祠も見えるのに、なぜかアクセス出来る道がまったくわからなくて辿り着けなかった、なんてことも普通にあります。

 

大体の神社さんは大小の差はあってもお祭りや縁日向けと思しき広場や公園が傍らにある感じが普通な気がするので、駐車スペースに困ることは少ないです。

おっさんが一人で、しかも何もない普通の日の真昼間に神社をウロつくこと自体がそもそも怪しいので、お詣りも所要五分程度で済ませてそそくさと帰ってしまうので場合によっては路駐も厭いません(社会悪)

 

何もない普通の日に参ってみて一番に気が付いたのは、“賽銭箱がない”ということ。

社務所があって常に神主さんがいらっしゃるような神社さんはそうでもないのかもしれないですが、あたしがウロつきがちな小さな神社さんは社務所があるような規模ではないので、基本無人です。

じゃあ、お賽銭はどうするの? というと、実はこれ誰もいない神社さんあるあるっぽいのですが、お社の正面の引き戸、左右開きでマス目状のガラス張りのものがたぶん多い気がするのですが、その合わせ側の一番端一番下の一マスぶんだけガラスがくり貫かれていて、その上に“お賽銭はこちら”的な張り紙がしてあって、そこから中の様子を失礼ながら伺ってみると、そこから投げ入れられる位置にちゃんと賽銭箱が置かれているわけです。

初めてそれを見たときは“うひょー、世知辛れぇ”なんて思ったりもしたのですが、いくつか神社さんを巡るうちにそれが案外普通らしいことがわかったので、うろたえなくなりました。

最初は何だか、“用でもない時期に参りに来るなよおまえさん”なんてつれなくされてる気がしておろおろしてしまったのですが、くじけなくてよかったです。

こんな時代でも“賽銭泥棒”とか、いるのでしょうか。

こんな時代だからこそ、とは思いたくないのは当然のところではありますが。

日本人は他の国の人たちと比べると日常生活における信仰心のようなものが比較的希薄のようなことを言われがちなのかもしれないですが、考えようによっては“信仰心”と一口に言っても、それは努めて習慣的に祈りを捧げたり手を合わせることばかりではなく、ただ単純に“悪いことをしてはいかんよな”といったごく個人的な戒めを下支えしてくれるもの、つまり子どもの頃から学んできたほとんど無意識の如く染みついた“良心”のようなことも、神性のようなことに手向ける意識とまるきり無関係ではない気がしないでもないので、日本人には日本人なりの日常的な信仰心は、その温度のようなものはちゃんとあるんじゃないのかなあ、と個人的には考えさせられるところではあります。

本当に、ガチで冷え冷えの無神論みたいなことを当然の如く貫いていなければ、例えば“賽銭泥棒”なんてそんな恐ろしいこと、まあ出来ない以前に思いつくことすらしませんよね。

かつてのまずしい時代の、それこそ歴史の教科書でしか触れられないような時代の貧しい人たちがやむに已まれずそんなことに手を染めることがあったのかもしれないことを想像すると何だか時空を超えて胸が痛くならないでもないですが、今どきの世の中で本気でそれを企てる人がいるのだとしたら、ヘンなハナシ“メンタル最強”ってその人のことなんじゃないですかね。

そんな最強なんていらないですけど。

”信仰”って、案外そういった“畏れ”のような意識に突き動かされる部分って少なくない気がしますね。

天神さんの菅原道真とか神田明神平将門みたいな、いわゆる“御霊信仰”ってそういうことですもんね。

畏れを祀ることで信仰や守りに変える、というかつては“怨霊封じ”とされた信仰。

そんなことを根に持ったうえでの遺伝子的信仰心のようなものが例えば、あたしたちが子どもの頃からしつけられてきた“バチが当たる”といった精神性のようなものなのかもしれなくて、ゆるぎなく恐れられてきたものなんじゃないですかね。

“バチ”という言われ方にはまた別の謂れがありそうなことは置いておくとして。

 

 

あたしも“信仰心”といった具体的な意識や習慣のようなものには疎いタチの人間なのですが、そんなものですらその場所に赴くだけでも何かが洗浄されるような、せめてその日一日だけでも正しく生きられそうな気にさせられなくもないのですから、結構“信仰サイコー”みたいなテンションはなくもなく、たぶんそんなことで勢いを借りたいようなつもりはやっぱりなくもないことは自分のことですから、ちゃんとわかっているつもりではやっています。

 

日本人、悪くねえな。

というのがもっぱら近頃のあたしのマインドで、政治や社会問題などは辛いことももちろんあって信じがたいような気分にさせられることの方がよほど多い世の中ではあるのですが、たぶん、そういったことばかりを理由にして国や民族を揶揄したがるような時代は急速に過ぎ去る時代になりつつあるような気が、個人的にはものすごくしているわけなのです。

 

“御利益”というものをどう受け止めるか、という意識のようなハナシもあるのかもしれないですが、例えばあたしなんかはずっと、お詣りするということは神様へのごあいさつであって、“願掛け”のようなことはむしろ失礼のような、図々しいことのような気がしていて、つまり”ごあいさつするだけ”という態度こそを普通と思っていたわけなのです。

ですが近頃になってそんなことに興味を持ち始めてみると、何でもそうですけどやはりいろいろな考え方はあるようで、一つの考え方としては例えば“もっと神さまに頼ってもいいんですよ”的な、助けてください、と言ってもちゃんと許してもらえるんですよ的なことをおっしゃられる方もおられまして、“へえ、何か優しいなあ。そんなのもあるかあ”なんて、ちょっとだけ肩の力が抜けるような気にさせられなくもないところもあったりもするんですね。

もっと“御先祖さま”に頼ってもいいんですよ、とか。

 

 

……いや、あの、へんな宗教とかじゃないですよ、念のため。

あたしは極めてその辺のところはニュートラルなので。

 

要するになにが言いたいのかって、宗教とか信仰心のようなものをそれぞれにどう捉えるのか、といったつまりはやっぱりその“精神性”のようなことだと思うんですよね。

個人的には、神様だったりご先祖さまのような存在にお力添えしていただけるものならそれはそれで有難くは思うものなんですけど、たぶんですけど、祈ったり手を合わせたりするのは“願ったり叶ったり”といった方向に向かうものよりはもっと単純に、そうすることで何となく自分の気分が引き締まるとか、そんなきっかけをもらうもののようなつもりでいる気がしてます。

 

家には仏壇があって、参るのは神社とか、おかしくね?

 

とか、そういうことにはあまり興味がなく、そのくせ仏壇は生まれながらに家に存在していたものであって、人生の中で気が赴くのは神社の方だ、とか案外薄情なことを平気で思ったりもしますから、案外いいかげんです。

 

”祈る”ことと“宗教”ということは、必ずしも形式として結ばれるべきものとも、要するに個人的な思考としてはそういったつもりではなさそうだというその一点において、かなりゆとりのある”信仰心”のようなものに、近頃はわりと熱心にあやからせていただいている、ということなのでした。

 

“信仰心が希薄な日本人”

ゆとりがあって案外サイコー、というおハナシでした。