アラズヤ商店

日々のナマキズ

こんな時代だからこそ百パー

全然働かず、遊んでばかりいた一月を空っけつで何とか乗り切り、何ごともなかったかのように乗り込んだ二月。

今年は閏年なので一日余分に過ごせる二月、サイコーです。

今月こそ、ちゃんと働いてやるっ、とヘンな意気込みで挑んで参ります初っ端の一日は、けっこう働かせてもらえてとても嬉しかったのです。

ありがとうございます、おかげさまで今日も何とかおまんまにありつけら。

 

なんて、商売人なんて案外そんな程度でもっぱら幸せですしお腹いっぱいらしく見栄も切れるというもので、そうして早十五年、自営業という名のフリーター認定を過ごして参ったわけなのです。

 

一月半ばも過ぎれば自宅のポストには税務署からの確定申告用の書類が届き、月末には電気料金の請求書、ウチはオール電化(語感が古くせえ)だからガスの請求はないのだけれど、それにしてもエレクトリックな暮らしというものはそればかりでこそのコストがもりもりなことであるよな、と堪らず漏れ出すため息は止まりません。

 

だからというわけでもなかったり、まさにそんなせいでもあったりと気分は複雑なのですが、何しろあたしは子育て終了の軟着陸に甘える一人暮らし父さんなので、もはや生活スタイルは穴倉に棲む仙人の如く、気の赴くままに生活習慣を操り己が負担を嫌いまくる暮らしを鋭意実践中なのであります。

などと言ってしまうと何だか、年甲斐もなくケチ臭いような暮らしに囚われた愚か者のように思われそうでそれはそれでアレな気もするのですが、本人なりにはケチでやっているつもりはこれっぽちもないので誤解は禁物。

自分で言うのもアレなんですけど、あたしはこう見えても空元気父さんなので、お金なくてもあるフリすることには早二十年のキャリアを誇る驚異のハッタリおやじさまなのであります。

嘘でも本当でもそんなことは知らん、兎にも角にも他人様に“こいつはケチな奴だ”などと思われた日には人生は、いや人としてこそご破算であることよ、といった心意気についてはかねてよりゴリゴリに鍛えられながら生きて参った自覚のみハンパないつもりではいるのです。

まあ、無い袖は振れんことよ、な日々ももちろんあり申したものではありますが。

 

 

商売人のクセに、儲けることに頓着しない。

つまりは、あたしはアホなんじゃないだろか、という十五年のキャリアということなのであります。

あたしは、商才というものがどうやらやはりいやあからさまに無い、といったことはもはや音がするほど明らからしいのです。

そんな自分がみじめで悲しいと、そんなことを言いたいのではないのです。

朝っぱらからそんな湿気ったらしいマインドはあっちへ行きたまえ明日は節分であることよ、節目たる新年はいよいよ明日から始まることなんであるよシャンとせい、といった心意気。

ちなみに節分がそんな見立てであることを知ったのはまじで昨日のことです。

お客さんから聞きしました。

レッツエンジョイコミュニケーション、有難いことでありますな、少しずつおりこうさんに歩み寄らせていただける気分でありますな。

 

 

“お金は悪だ”といったマインドは、恐らくはこの人間社会において自分を不幸にする、といった日記を以前に書いた覚えがあるのだけれど、そんな気にようやく思い至ったのは本当に近頃のことで、あたしはお金というものに至る魂胆から悉く目を背けがちで、遠慮がちで、努めて望みたがらないような態度こそを良識のように、清潔のように振舞いたがるような性分全開で生きて参ったものだったのですが、何だかそれはそれで違うのだよきみ、といった思し召しのようなただの普通の価値観らしき逆なでに度々出会うことが多すぎたここ数カ月、つまりはそんなことをして“スピリチュアル元年”などとぶち上げたがったのかどうなのかは怪しものなのだけれど、何だか自分、その視界の開き方こそが何だかケチくさいぜ、といった気分にこそ至ってしまったらしいのですね。

 

だったら、これまでは敵の如くゴリンゴリンに呪っていたはずの守銭奴の如くお金に執着してあきんどさまさまのど真ん中を駆けてやろうぞ、といった気概に意気込んだものかと言えば案外そんな感じでもなく、案外どころかどう足掻こうが逆立ちしようがあたしにはそんな知恵も才能もないことは見るまでもなく明らかなことで、明らかならさすがに挑む気にもならんのは基本根性ナシにしてみれば常套たる覚悟には違いなくやはり、お金は二の次三の次と。

ならば一体、どんなマインドチェンジに至ったものなのかと。

 

いやはや。

 

やはり思うに、人は一体何に対してお金を払いたいと思うのか。

ただその一点においてたぶん、あたしはこれまでの人間様による“お買い物文化”のようなスタンスから脱却したい、とやはり願いたがるものらしいのであります。

“サンマ一匹¥400”といった表示がなされて刺激される“お買い物文化”から、はみ出したいものらしいのです。

“はみ出したい”などと言ってしまうと、またしても落ちぶれたような価値観に凝り固まって“お金は悪”のような独りよがりにまたしても出戻るらしく思われてしまいそうなのだけれど、あたしとしてははっきりとそういったつもりではなくむしろ、正真正銘のただの価格表示の中に、価格なんてものには大した意味など見込まないような意欲こそをゴリゴリと練り込んでいきたい、ようなつもりでいるらしいのです。

 

商売なのだから、“サンマ一匹¥400”は、売る側と買う側の決定として欠かせないだけのこととして否定も何もあったものではないわけで、けれどたぶんそんな魚屋のご主人は美味しい焼き方のコツのようなことをべらべらとハナシ伝えるようなことくらいはしたがるはずなのです。

“今年のサンマはサイコーだよ”なんてお上好を述べるくらいのお愛想は利かせようものなのです。

 

そんなことは価格に含まないのが“価格”というもののはずで、それを比較して検索して便利らしく扱われるらしいものが例えば検索サイトとかSNSの口コミとか、賢い買い物の仕方ということらしいじゃないですか。

少しでも得をしたい、という願望を満たしてくれることらしいじゃないですか。

 

つまり、そんな調子の魂胆ばかりに選ばれたがるものかこちとら、ということなんであります。

価格ばかりをダシにして、こちらが差し出したいはずの“価値”をやすやすと計られてたまるか、ということ。

やっぱり、あたしは“商売”などということを仕出かすに当たって、そんなことは一ミリも望んでなんかいないということがまったくキレイさっぱりと、覚悟が付いてしまった気がしているのです。

改めて今さら、ということに違いないです。

 

 

あたしの近頃の仕事ぶりはかなり勝手な感じで、スタイルも許されるなら勝手に決めてしまうし、ちゃんとマメにお手入れしようよね、いつも格好良くしてないとヤバいぜ、のようなことくらい遠慮なく言ってしまうし、そのために必要な小うるさい精神論さえべらべらと開陳してしまいます。

 

だからって、“それが正しいのだ”、何てことは一言も言うつもりなどないのです。

 

そんなことを“うるせえなこいつ”と感じる人に差し出せる“商売”なんて、そもそもあたしの手の中にも心の中にこそ、ありゃしねえそんなもん、とうことなんだと思います。

”うるせえなこいつ”なんてことに付き合おうとすることが、どれほど自分を不幸にするか、ということに今さらながらもっと注目して振舞っても、全然いいのだ、という気がものすごくしているということなんだと思うのです。

 

“あたしによる商売”というものにこそ“価値”を植える、それが恐らくはあたしの思う“商売”ということで、やはり思うのは、あたしの仕事は“髪を切る”ということではないということ。

そんな程度のことをキッカケにして、全然関係ないこと、関係ないけどそれがなければ意味がないようなあたしだからこそという“価値”のようなことを植えて気前よく振舞うことこそがたぶんあたしの“仕事”で、“やるべきこと”のような気がしていて、つまり、お金なんて全く否定しない意味において二の次三の次、ということ。

 

 

昨日も、前の日に出掛けてくれたお客さんからわざわざお礼のLINEを頂いて、あたしが勝手にこんな感じでいこうよ、と勝手に切ってしまったスタイルだったんですけど、“好評です、マメにお手入れできるように頑張ります✌”って、もうめちゃくちゃ嬉しくて何だか、そうやってちょっとしたことでお客さんが自分の毎日のスタイルにこそ張り切りたくなるキッカケになるって、もう最高じゃないですか。

“仕事”って、そういうことで充分のような気がするんですよ何だか。

テンプレに評価して口コミ書いて履歴になるような情報とか検索とか商売とか、なんかどうでもいいよなそんなもん、って普通に思えるじゃないですか。

 

 

すごく面倒くさいんですけど、印象や情報で何かしらを訴えたがることを“宣伝”なんて呼びたがるなら、やっぱりあたしには関係のないことだ、と確認の如く思ってしまうんですね。

直接足を運んでくれて、コミュニケーションして、実感することでしか付き合えない気がするしそれが当たり前としか思えないし、事前情報が大切で、失敗したり損したりしたくないという気持ちはわからなくはないですけど、それを支えてくれるサービスや情報を“便利”と単純に名付けたがることで充分としたがるかどうかはつまり、その人というまさに“人間”というハナシにこそ違いないはずで、単純にあたしはあたし個人として、そういった魂胆のような“便利さ”のようなことばかりにかかずらい過ぎてしまうと、何だか自分の中にあるせっかくのような気持ちが少しずつ濁ってしまうような気がしてしまうのだと思うのです。

そんな程度のことをつかまえて、例えば“商才がない”とは何だか、思いたくない気がしてしまうのです。

“商売”って、そのくらいわがままでも許される、所詮自分なりに立つしかないことのような気が何だかどうしてもしてしまうんですよ。

 

そういったあたしなりの気持ちは、つい近頃まではきっと、気に食わない世間に対する“悪口”みたいな態度によほど近いものに違いなかったはずなんですけど、もちろん似たような気持ちは今もないこともないのかもしれないんですけど、それにしても何だか、そういうことではないな、ということも何となくわかり始めてきている気がする、ということなのです。

 

他所さまや世間さまはどういったつもりであるか、ということはそれはそれということで、ニーズや世の中の流れを無視するといった意味ではなく、もっと独立した意識をもってむしろそんなことに積極的にコミットしていく、もっと自由にやりたがっても全然平気、みたいなことを完全にこれまで以上に信じても大丈夫でしょう、のようなことこそを近頃は殊更に思いつきがちなんであることよ、といったおハナシなのでありました。

そういう時代の気配にこそ、取り残されるのは百パーイヤなんだぞ、ということなんであります。