アラズヤ商店

日々のナマキズ

手相はこの先のことなんか知らない

あたしは“手相を見たがる”という妙なクセを商売においても惜しみなく開陳しているわけなのですが、書いて字の如く、であることに注目していただきたいわけなのであります。

 

かつては道端においてやら、近頃であったなら何某かの館的なところに御座す“手相占い”的な触れ込みにおいて“手相をみる”とは、あたしの覚えが確かなら“観る”とするところであるはずで、すなわちあたしが“見たがる”らしいことはつまり書いて字の如く、であるというなわけなのです。

 

 

個人的には近頃の世の中の傾向というか、趣向あるいは興味のようなものを支えるもっとも顕著らしく思わされる性質を一口に言い換えるなら例えば、“目的至上主義”といった感じであることは比較的考えやすいものなのではなかろうか、などとただの平凡なおっさんの戯言として言い切ってしまっても何一つ問題などなかろう、といった無責任な所感を持て余しがちでいたりするものなのです。

そういった意味において、“占い”となれば、概ねの人々は“この先いつ頃にこんなことがある”のようなことや、“あなたがこんな性格であって今現在こういった境遇にあることは、いつかこんなことをするためにこそこの世に生を受けたという証しなのです”といったご託宣のごとく助言や先読みのようなことを期待したがる性質のものが概ねのはずで、そんな興味や実感を以て“当たるも八卦……”的なことを良くも悪くもそれぞれが思う価値として受け止めたがるもののはずなのですが、“観る”ではなく“見る”であるところのあたしが思う“手相”とはたぶん、そういった“目的意識”のようなものには概ねそぐわない性質のものであるはず、といった自覚はかなりあるところなわけなのです。

 

 

自分自身の手相こそを毎日繁々と眺めるものなのですが、それほど顕著なわけでもなくそれにしても、手相というものは日々変化するものらしく我がことながら期待やら観察やらをもって日々眺めさせられてしまうわけなんです。

そういった習慣の中に”当たるも八卦……”的な期待や観察があるか、といえばなくもないわけではあるのですが(日本語)、ならば“先読み”とか“ご託宣”的な宿命的露出らしく受け止めたがる向きがあるものかというとさすがにそれはほぼないわけで、つまり恐らくはあたしが思う“手相を見る”とは、過去から現在に至るまでの履歴来歴として、あるいはそんな現状の性質から概ね人らしい感覚に照らした上で想像出来そうな努め方やら心がけのようなことを意志的に捉えるキッカケにしたい、といった趣旨にあるような気がしているというわけなんです。

 

せっかく日々励んだり耐え忍ぶようなこともあったりする人生というものが、“手相”というものが示すことを根拠に導かれるような、決定されるようなものであるとは個人的にはあまりにも考えずらいような気がしていて、それはあるいは宗教について感じさせられることにもそれほど遠くもないような感覚のはずなのですが、結局のところそんな毎日を生きるのは誰なんだろね、ということでしかないのだと思うわけなんです。

 

ときに“占い”や“宗教”といった助言らしきを受けて心逞しくすることは、一時の歩みを進めてくれるし迷いを拭ってくれさえすることがあることはあたしにもわかるんですけど、それが自分が生きる毎日のための“理由”になり得てしまったり、納得の種のようなものに化かしてしまうのは何だか、やっぱり何かが違う気がしてしまうということです。

あくまでも個人的な感覚として、ということです。

 

 

よくお客さんとまじめなハナシで“人生”とか“家庭”のことについてあれこれと話し込んでしまう機会は少なくないのですが、そういうことを例えばそうした“コミュニケーション”として言語的な整理に預けて考えることは、かなり大切なことだと常々感じさせられるわけなんです。

それに加えてあたしはかなりお節介なタチですし、わりと人並みよりは波風の多い人生(あくまで自称)を生きてきた気がしているせいなのかやたらと想像や勘のようなものが働くところがあって、ときには遠慮のないような、助言染みたような生意気なことを言いたくなってしまうことも少なくないわけなんです。

たぶん誰しもある感覚だとは思うのですが、人間って結構、自分のことはちんぷんかんぷんのくせに、他人のことはお節介の如くいろいろわかったり感じてしまうところってあるじゃないですか。

あたしはそんな感じのところが自分で言うのもアレなんですけど、変態の如く想像力が豊かなところがあって、つまり何だかわりとどうでもいい簡単なこと(失礼なこと言ってます)に熱心に悩まれているらしい人を見ていると、ものすごく歯痒いような気分にさせられるわけなんですね。

 

そんな折に具合よく活躍してしまうのがつまり、“手相を見る”ということなわけなのでありました。

何しろそこには、丸出しの“その人自身”が御座すわけですから、手相など知る由もないその方ご自身よりもまず、“見たがる”あたし自身こそが納得させられてしまうわけなんです。

それはまるきり、“発見”みたいな感覚なのかもしれません。

ただそんな感覚を以て、“この先あなたにはこんなことがあります”といったことを言いたいような興味を思いつくことはない、ということも付けくわえなければならないわけなのですが。

 

手相が示すらしいその人の“性質”らしきは、恐らくはかなり正確なものだとあたしはわりと実感しているところがあって、それを人間という不思議さの根拠として受け止めたがることは、いちいち悩んだり苦しんだりしながらも結局は生きていくしかない自分ばかりの人生という面倒さに付き合うことと、なにも違わないことのように思うわけです。

解答を眺めながらクロスワードパズルをやって面白いわけがない、といったことと何も変わらないという乱暴な言質です。

 

この先のことを知りたがるのは、もしかしたら人間として当たり前とさえ言える原理的な欲求ですらあるのかもしれないのですが、それを根拠や理由にしたがるのか、あるいは助言としてこの先の自分をどう生きるべきなのかを考える一つのキッカケのようなものとして受け止めるのか、といった違いだけでももはやその存在の仕方は変わってくるものだと個人的には考えるのだし、客観的に宣言されることに快感を覚えたがるばかりのような“目的至上主義”的娯楽感覚に付き合う手間はそれほど持ち合わせていないというか、そもそも共感出来そうな気がまるきりしていません。

あたしなりの相変わらず乱暴な言質に預けるならやはり、“少しも面白くねえ”ということでしかないのだと思います。

 

 

人の体というものは恐らく、日々の感情や体調によって反映される結果や痕跡のようなものであるらしいことはある意味違いなく、つまりあたしたちは昨日までの結果や履歴を“体”という物質に映してぶら下げて暮らしているもののはずで、そうしてその一部として構成される、反映されるものが例えば“手相”というその人のこれまでから至った現在の症状として、それを持つ人が考えたり実際に行動して果たすことや抱えてしまうことというものは、それほど無関係そうには見えないなあ、ということを“見たがる”たびに思わされる、ということなわけなのです。

 

今、あなたの手の平にある“手相”が示すものが、どうやら今現在あなたが置かれている“あなた自身”という症状であるらしい、と考えられるなら、それはあるいはこの先を示すものといっても過言ではない気もしないでもないのですが、だからと言ってそれは“この先あなたにはこんなことがあります”と断言して然るべきものとは個人的にはやはり当然の如く少しも考えられる気がしないわけで、せめて現状のあなたの手相が示すなりの様子から然るべく想像するべきは、このままならこんなことになりそうな気がしてしまうよねとか、何だか素敵な予感がしてしまうよね、といった程度のことに過ぎないような、つまりはこの先の自分の“生き方”のようなことこそを想像する、積極的にコミットしたがるそのキッカケや一助のようなものとしてこそ受け止めるべきもののような気がするわけで、そうして初めて起こり得るような何かを期待するエネルギーに変えるもの、徒な迷いを拭ってくれる一つのキッカケとして存在するもの、といったつもりで気持ちの片隅程度でも参考に出来るものであり得るのなら、それは“目的至上主義”といった短絡的な意識を軽快に明快に離れた上で、それはそれで悪くないことのような気がするなあ、と思わせてくれなくもなさそうな気にさせられる、といった感じであるとうことなのでした(日本語)。

 

 

つまりあたしは馬鹿なので、“手相”を笠に着た上でせめて説得力の欠片程度でも眺めさせて欲しいものなのだよ申し訳ないことだよなあ、といったただの言い訳のようなことを朝っぱらからこんな長文に逃がしたがるばかりであることなのだよ、というおハナシなのでした。