アラズヤ商店

日々のナマキズ

いきいきと脱走するサルの気分でいく

“欲しいものはありますか”

 

と訊かれて、お金でどうにかなりそうなものがパッと思い浮かばなくなってから久しいのです。

よくよく考えてみれば何かに思い当たりそうなものなのだけれど、こうしているうちにも思い付きそうな気配は今のところありません。

寝坊したなりにも朝っぱらには違いなく、まだアタマがよく回っていないせいなのでしょうか。

日頃からそれほど回転の良いものでもないはずなのだけれど。

 

 

近頃買ったモノの中でも、飛び抜けてあたしの中の“何か”を効果的に満たしてくれているモノといえば、“おサイフ”に違いないのです。

というか他に買ったものと言えば、本とか、金魚用のフィルターとか、ダイソーのタッパーくらいしか思い浮かばないのだけれど。

 

“おサイフ”はイイです。

まさに発見。

気に入った新しいサイフというだけで、日常の何気ない買い物すら楽しくなりました。

いや、楽しくなるとは言い過ぎかもしれないけれど、軽くテンションがアガるくらいのことは言っても嘘にはならなかろう、くらいの気分は味わえるものらしいのです。

あとは、そうして気分よく取り出せるおサイフが、この先めきめきとお金を呼び寄せてくれることを願うばかりなのであります。

凡人思考丸出しであります。

思考のみで何かを欲しがる程度の人間には、せいぜい早起きくらいしか努めようもなかろう、といった心意気において日々頑張っているわけなのですが、呆気なく寝坊してしまいました。

そうして“運”というものは遠ざかるのだとしたら、なかなかの損失ではありますまいか。

そう思うとやはり、毎日の早起きなど取るに足らん努めであることには違いないはずなのですが、人間というものは元来、眠たがりな生き物らしいのです。

実に情けない。

あたしになど、そんなことを嘆く資格すらないというのに。

 

 

ちょうど近頃そんな界隈のお話になる機会がありまして、というのはもちろんお客さんとの会話の中で、ということなのですが、「あたしは毎日5時には起きるようにしてます。怠け者なりの禊みたいなつもりでいるんですけど」と言ったら、ひどく感心の意を表されてしまったのでした。

その方はご自身について、「7時には起きたいのだけれど、眠すぎてそれすらもツラい」といったことをまるで卑下するかのようにおっしゃられていたのですが、いやいやそれは仕方のないことでありましょう、とあたしはもちろん受け入れるわけにはいかなかったわけなのです。

 

 

頑張ったら頑張った分だけ、眠りたい。

何しろそれは圧倒的な生理ではなかろうか、と。

 

疲れれば、人は眠りたくなるのだし、眠ることで気力体力の回復を図るわけではないですか。

そのためばかりにも、翌朝訪れる朝7時はあまりにも早すぎる、ということでしかないのではありますまいか。

地球のサイクルは一日24時間で、人間の体のサイクルは一日24,7時間なのだとどこかで耳にしたことがあるのだけれど、もしそれが事実なのであればそんな0,7時間の誤差、つまり一日あたり42分のズレとは思いのほか大きいものなのではないのか、といった気がしないでもないではありませんか。

 

“あと42分だけ寝させて”

 

想像してみてください、ギリギリの朝においてなかなかに贅沢な猶予ではありますまいか。

そんな“贅沢な誤差”にすらフタをして、人間は、いや皆さんは日々励まれているのですよ、と言いたいものなのですが、伝わっているでしょうか。

所詮怠け者みたいな暮らしをしているあたしにはそんな”贅沢な誤差”を嘆く資格すらないことを、せめて“自発的早起き”というルーティンに化かして言い訳しているだけなのです、と言いたいわけなのですが、伝わるものでしょうか。

 

皆さんはまじで、頑張っている。

まじでそう思っています。

 

 

しかしながら、この世の我々を自明の如く統べるものは“言霊”、となればあたしのような怠け者ですらその言質には責をもって貶められるような事態は努めて避けるべきであって、意識的に向上に努める態度とはつまりそんなことを基礎とする心がけのようなものですらあるはずなわけでつまり、こんなあたしではありますが、何も頑張っていないわけでもないつもりではいるのですよ、と蚊の鳴くような声でせめて言わせて言わせて、くらいのつもりで日々励んでいるつもりではいるわけなのです。

not 蚊の鳴くような、ですらあるつもりにおきまして。

 

 

なぜこの世の大人と言われる人々のほとんどが、“贅沢な誤差”にフタをして努めることを不本意ながらにも受け入れて日々を過ごすことを許容出来るのか。

それはあるいは誤解を恐れずに言わせてもらうなら、冒頭で申し上げました“欲しいものはありますか”という問いに対するアンサー、その表現としての選択あるいは実行という覚悟がさせることなのではなかろうかと。

つまりは、“お金でどうにかなりそうなもの”について、その必要を感じて動機として従うことを概ね受け入れざるを得ないからではないのか、そのためこその逞しく壮絶な覚悟ということではないのか、のように感じさせられているということなのですが、どうなのでしょうか。

アタマがオカシイようなことを言っているのでしょうか。

何しろ、あたしは“欲しいものはありますか”という問いに即答することすらも適わないボンクラな態度で日々を過ごしてるわけでありますし。

いや、言霊言霊。

 

あたしは正直なところ、子どもの頃からずっと自分のことが大キライでしたし、信用ならなかったですし、嘘臭くて怠け者の言い訳馬鹿としか思っていませんでした。

才能ゼロの手負いのサルか何かだと思いながら、これまですっと生きてきたわけなのです。

気分は常に、“群れを追われた惨敗サル”といった感じにこそ違いなかったのです。

 

おお、言霊言霊怖い怖い。

 

 

そんな積極的自己軽蔑ぶりで生きるあたしが、例えば“家を建てたい”とか、“豪華なクルマを手に入れたい”などと勇ましげな望みをぶっ立てようものかと言えば、当然ながらその答えは“ノンノン”なのでありました。

いえ、今現在においてもその手の欲求は、極めて“ノンノン”側に軸足を残したものであることには違いないのです。

 

さらには生まれ育った環境やら持ち前の“手負いのサル気質”もあってか、実に波風の多い人生序盤を、いやこれまでの半生を過ごす結果となったわけなのです。

ほとんど身に覚えのないような気分で難破船上で激しく揺さぶられるような、そんな被害妄想の中で大切な人生の助走たる若く猛々しくあるべきはずの日々を腐らせて過ごした、そんな自覚あるいは後悔こそが猛烈な毒々しさでとぐろを巻いているわけなのです。

今現在もなお、それを振りかえれば明らかに、ということなんであります。

 

あたしはたぶん、“欲しいもの”がなかったのではなく、“欲しがること”こそを人生の随分と早いうちから諦めていたような気がするのです。

それはもちろん、“自分自身に対して”といった意味合いが強かったことは言うまでもありません。

何しろあたしは、“才能ゼロの手負いのサル”、“群れを追われた惨敗サル”でしかあり得なかったわけなのですから。

 

ふう、言霊言霊。

 

 

思い返せば、何だか意味のない感じの借金をたくさん払ってきた気がしますし、もちろん身から出たサビのようなものにこそ散々付き合わされてきた気こそ猛烈にしていますし、そんなこと全部を逃れがたい運命のように、恨めしく生きるしかないとゴリゴリに信じ込んでいた気がするわけなのですが、ならば今現在はどうなのかと言えば案外、そんな素性であることには違いないことなんであるよ、なんて相変わらずのようなつもりではいるはずなのであります。

 

人間、そんなに簡単に変わるものでもありますまい、ということ。

 

 

しかしながら何でしょう、近頃のあたしに限りましては何だか“だからといってそれがどうした”といった程度の気骨のようなものが、遅まきではありながらもほやほやと生え始めつつあるような気がしていないでもないつもりでいる、というわけなのであります。

それは何も新しいサイフのせいだとか、正月に引いたおみくじにすっかりその気にさせられたとかそんなフットワークの軽快さのようなことではなく、ただ単純に“何だかそんな気分であることなのだよ”といった極めてつかみどころのない感覚であることには違いないのです。

けれど何だかふと、“わし、何か間違えとらんかったかの”といった一先ずはどこか晴れやかに思い当たるような、“欲しいものはありますか”といった質問こそがふわりと消えてなくなるようなどこか砕けた気分を思いついてしまったらしく、つまりは何だか、呆けてしまったような感覚にあるわけなのです。

 

“欲しいものはありますか”

 

そんな質問が消え失せるということはつまり、あたしはかなり乱暴な馬鹿なのでそんな気がしてしまうというレベルの話でしかないのですがつまり、“欲しいもの”のような“何か”をあたしは案外手に入れられているのではないのか、といった気分ではいる気がしている、ということだったりするのです(日本語)

 

頑張っている皆さんには、許される限り眠って然るべき資格がある。

皆さんのような頑張り方が出来ないあたしにはせめて、早起きを心掛ける程度の態度が必要。

 

それは単なる言い訳に過ぎないのかもしれないですが、怠けようとすればいくらでも怠けてしまう“人間”というその素性のようなことこそを思えば、“才能ゼロの手負いのサル”という素性を持つあたしにとって“早起き”という態度や時間、そういったルーティンが自覚させる“何か”というものは、“欲しいものはありますか”といった質問には的確に反応しかねる性質にありながら、それにしても十分にそれに成り代わる“何か”を満たしてくれるものになり得るような気がしないでもなくて、やはり“早起き”という単純すぎる言い訳染みたルーティンは、いよいよ裏切れないものになりつつある気がしている、というわけなのであります。

 

 

お寝坊さんが、何か言ってらあ。

 

 

休日の朝に寝坊を許してしまうなんて、頑張る皆さんにまったく顔向け出来ませんことですな。

“群れを追われた惨敗サル”として、反省しきりの休日の朝、ということなのでありました。