アラズヤ商店

日々のナマキズ

お空を見上げるだけでも、いろいろあるだろう

寒いし、暗いです。

まだまだ冬ですか。

いえ、あと二十五日ほどの辛抱ですからむしろ、惜しんであげましょう。

個人的には冬なんて大嫌いなのですが、寒いばかりに小物遣いが上手すぎる女の子は大層可愛らしいと思いますし、それは冬の賜物です。

リップクリームを習慣的に活用したことなんて、こちとら一度もないんだぜ。

ハンドクリームは、滑ってハサミを落としそうになるからあまりつけたくないんだぜ。

さっそく出始めた花粉症症状で小鼻の辺りと鼻の下周辺の皮膚の手触りがお肉やお魚のトレーの裏側みたいな、やけに人工物感に侵された感触なのだけれど、これも噂の進化というやつですか、AIに駆逐されるよりも先にヒューマニティーはアンドロイド化にまんまと加速つけますか。

いえ、ただ単にティッシュに擦り負けただけの脆弱さでしかありませんでした。

こんな調子では月の裏側で暮らすらしいグレイッシュな宇宙民族の皆さまになど太刀打ち出来そうな気がしませんな。

シンギュラリティでもアセンションでも何でもいいやおまえらまとめてかかってこいっ、とでも言いたげな気概だけは寝て冷めて飯食ったら忘れるくらいの夢見心地程度でならたらふく抱えていないでもないつもりですが、第五次元、こんなあたしでは次元上昇も次元五右衛門毛利小五郎もあったものではありませんな(日本語)。

 

 

それにしても、昨日の午前中の空模様といったらとんでもなく目まぐるしい有り様でございましたね。

皆さま、お気付きでいらっしゃいましたか。

あたしなんか、歯を磨きながら(あたしは洗面所でジッと鏡の中の自分と対峙してそれを仕出かす趣味はなく、極めておウチの中をウロウロしがちなのだ)ふと窓から南の空を見上げてみたら何とまあ、まるでクレヨンで描き殴ったかのような直線だったり波型であったりといったスジ雲模様が縦横無尽(とまでは言い過ぎ)に行き交っているではありませんか。

うおっ、と。

思いがけず、歯磨きの手も止まろうというものではありませんか。

 

 

ちなみにあたしは、こんなことを言ったら気持ち悪がられてしまうかもしれないのですが、かねてより“スピリチュアル元年”などと今年のテーマのようなことをぶち上げて以来、つまりは例えば“目に見えぬもの”のようなことを、徒に人生やら自己決定やらリアリティからの逃避の如く嘲笑うでもなく、かといって必要以上に傾倒して前後不覚のごとく一般的平均的コミュニケーションを好き好んで珍妙な方向に捻じ曲げていぶかしがられるつもりこそなくただ、“人間ばっかのことでもねえだろ”といった例えばけっこう平坦なリアクションの如くごく当たり前として電車の席を譲るような態度において、自分の真横に人間以外の何かによる何某かをちょこりと置くのか御座していただくのかは心の持ちようなのだけれど、つまりそんな気配のようなことに澄まして気遣ってみることも別段悪いことでもなかろう誰かしかに迷惑を掛けるわけでもなかろうに、といった心持ちにおいて、何となくお空の具合なんかも気に留めたくはなるものだったりするわけなのです。

 

人というのは極めて想像力が豊かなモノですから、見るもの聞くものに陽なり暗なり幸なり不幸なりを紐づけて願ったり祈ったり思い焦がれたりといった心象を洋の東西を問わず悠久の歴史の中でそれぞれに思い描いてきたはずなわけで、ああ人類、おまえらってなんてロマンチックなの、とまではいちいち大袈裟もやっていられないのだけれどそれにしても、“うお、これは龍神雲ではありますまいかっ”くらいの出会いのようなことくらい思いついたっていいじゃあないですか、別に減るもんでもなかろうし。

 

いえ、雲とは風と水と大気、もちろん陽の光もあってうつろうものであって、減るどころか逐一その姿を変えるものなのであります。

市原悦子さんのナレーションみたいですな。

 

ただの雲です。

ただの雲なんですけど、そんな勝手なことを思い描いて、それだけでちょっといいことでも起きそうな気分にでもなれたなら、もうそれだけで何だか幸せでしょ、ってことなんですけど。

 

毎日生きていると、もう何だかわけがわからないことってたくさんありますよね。

それこそ人間の理屈だけで全てを説明しようとすればむしろ、身もフタもないようなことばかりで気を病むしかなくなってしまいそうなことばかり、とは言い過ぎかもしれないけれどそれにしても“そんなもん、納得できんよ。意味わからんよ”みたいなこと多すぎじゃないですか。

まあ、そんな懊悩のようなことを有意義に抱えて許されるのは若いうちの特権のようなものには違いないですから、あたしみたいな不出来なおっさん風情に至ってもなお甘っちょろくうっとりとしたような愚かなだけの思考回路に拘泥したがるなんてことはオナラするよりクソ面倒臭くて付き合い切れたものではない、といった乱暴かつ適切で清潔な感情をモットーとして思いつきたがるらしいつまりアレです、人は苦しかったり悲しかったりすることばかりを理由にアタマや心を悩ませるばかりでもないでしょう? といった極めて前向きな心模様ということなんですけど、ヘンなこと言ってますか。

 

生きてるだけでいろいろ大変なんですけど、“悪くねえな”と思うだけでも思ってしまえば“悪くもねえ”のが人生、のような気がしないでもないってことです、個人的には。

何とかウイルスも、オリンピック後不況とかいう懸念も、南海トラフも富士山爆発も、個人で生きる上でのベクトルに存在するものとは到底思えないということで、もしそれが起こるということであればもれなくそれぞれの人生に影響を与えることにはなるのだろうけれど、あくまでもそれは個人以外の場所からお節介にも影響を及ぼすだけのことであって、恐らく自分一人がこの世に生まれてくる上で設計されている一部などとは到底思えそうにない、ということなんです。

どんなに清廉潔白に一個人が生きたがってみたところで、爆発するときは爆発しちゃうんだぜ、富士山はよお、ということ。

それを個人的な不幸の理由として取り込みたがるのかどうかこそ、その人ということではないのか、と。

あたしのせいで不況になるのではないよ、と。

あたしのせいであたしの人生に不況を買うことはあり得るかもしれないけれども、などと。

 

不安や不幸を数えることが例えば“万が一に備える”ということなのだとしたら、それを人生を生きる賢さのように言いたがるものなのだとしたら、なるほどやはりあたしなんかにはこの世に生きる才能なんてあるはずもないわ、いっそのこと清々しいくらいにな、なんて気分にもなろうというものなのです。

苦しすぎて、そんなのやってられっか、ということ。

 

 

あたしはけっこう“寓話”的な戒めのようなことが好きではないらしくて、例えば“アリとキリギリス”とか、あんな感じ。

アレって、そもそもは勤勉や勤労に努める態度や必要を説く純粋な趣旨に守られた“寓話”だったはずなのだけれど、近頃に至っては余計な枝葉が加わって、何やらうっそうとして木漏れ日の一つも差さないような胡散臭い良識もどきにまみれた脅迫観念に加担するただの屁理屈におちぶれつつある、あるいは誤用に加担させられつつある気がしないでもない、なんて捉え方は人格破綻者の思考ですか。

 

もちろんそんなのは極端ですしわざと言っているんですけど、つまり端的に言ってしまえば“何かがあったら困るから”とほとんどの人が口々におっしゃられる、あの“何か”という怨念染みた脅迫に絡めとられるらしいあの感じのことなわけです。

あたしはその根っこに、例えば“アリとキリギリス”を見る、ということなんですな。

 

現代的には多分、“備え”だとか“用心”、あるいは“蓄え”というのが一番しっくりくるところなのだろうとは思うのですが、それと“人生”とか“生きる”という意思や意志とはたぶん、別のことのはずだったのではないのか、ということなんです。

もちろん貯金はあったほうがいいし、家や畑とかないよりはあったほうがいいものなのかもしれないのだけれど、それが足りなかったり失うことを恐れることは“人生”について備えることだったり用心することとして、恐れたり悩ませたりする何よりの理由にしてしまうのは何かが違うだろう、と。

 

 

持つものを持ったことで、あたしたちは失くしてしまうことこそが恐ろしくなってしまったらしいのだけれど、例えばこんな言い方をしてしまったら実に失礼ではあるのかもしれないけれど、2011年3月11日にあたしたちは何を見たのか、そうして何を思わされたのか、ということは多分全然大袈裟でも無関係でもないことのような気が個人的にはしてしまうのだし、被災した人たちは自分たちのお金や土地、財産が津波にさらわれてしまったことが悲しく呪わしかったのかと言えば、それはたったの一部のことではあってもそればかりのことではなかったことは被災には至らなかったあたしのような人間にすら明らかに感じさせられたことのはずで、こんなことは言いたくないのだけれど、“忘れちまったのかい”などと。

 

 

昨日の空模様の目まぐるしさはちょっと尋常ではなくて、最初は“龍神雲だっ”なんて喜んでみたはずのやけに意志的に見えたスジ雲が、たちまちのうちに空一面縦横無尽に張り巡らされて、あちこちにバツ印を描いて張り付く様はむしろ、徐々に良からぬ予感こそを思いつかせかねないような異様さで、飛行機雲だったらとんだニアミス、というか一度にこれほどの数の飛行機が空路を重ねるはずねえだろ、という所詮人間でしかないレベルの想像はむしろその異様に拍車をかけるばかりで、そうなると人間の思考はほとんど原始人のような恐れに返るらしく、“妙なことが起こりませんように”なんてことを柄にもなく思わされなくもなかったりしてしまったわけなんです。

オカルト趣味なんてないですけど、例えばそんな日の一週間後、2月11日が何ごともない平和な祝日でありますように、なんて柄にもなく普通に思ってしまいますよね、普通に。

 

人生に恐れを抱くなら、例えば“今日が今日ではなくなってしまう”とか、“今日のために昨日があった”ようなことをちゃんと過ごせなくなってしまうことこそを個人的には恐ろしく思いつくのであって、それはお金が無くなってしまうとか、失敗してしまったらイヤだとか、損するのはイヤだとか、そんなこととは全然影響のレベルが違う失い方やままならなさのことのような気がしているので、だからこそ迷信的と揶揄されそうなことでも自分なりには妄信になど堕ちない覚悟を以て恥じることなくその理由のようなことこそを考えたり触れたりしたいものだなあと、思わされるものなんです。

 

思想や宗教が揶揄されがちであることは恐らくはその主体性の在り方の問題のような気がしていて、つまりは教典とされるようなものに無思考の如く従うばかり、そうして救われたがるばかりの態度は多くの人が感じる通り馬鹿げたもので情けなく無責任な精神のようにしか受け止めようがないですけれど、個人的に思うのは、例えばそんな“教え”のようなものというのは、導くとか救いとか言ってしまうと何だかとても依存的に思えてしまうだけで、それを正確に受け止めたがる上で何よりも働かせるべきはやはり自分自身の“人生”という意思や実行という態度に尽きるはずと思うもので、そのために必要な戒めとして、“恐れ”あるいは“畏れ”として存在するものが例えば“宗教”とか“神様”なんてあたしたちが呼ぶものらしく認識されるもので、そうして所詮自分で考えて行動するしか仕方のないという“人生”の導きとか、そのために要求される態度のようなことだと思うわけなのです。

 

朝っぱらからヤバいこと言ってます我ながら。

 

しかしながらそんな気がしてしまうというのは単純に、そうしていかなければもう人間なんて絶対に幸せになんかなれない時代になってしまったということだと思うんですね。

それは多分、余分にお金が入ってくるようなことなんかよりよほど肝心で大切なことで、しかも寝る間を惜しんで不平不満を押し殺してシステムにすがるような生き方よりもよほど簡単で快適な目指し方であることさえ明らかなような気がしてきているのだし、その根拠のようなこと、近いうちに完全に過去のモノになってしまうのに違いないそんな理由に暮らして、まだほとんどの人たちが苦しかったり納得がいかなかったりしている気がするんですね。

 

そんなことで、幸せにも不幸にもなったりはしないのに、なんてことを思ったりしないでもなかったりするわけです。

実に生意気なことには違いないんですけど。

 

やりたいことが出来ないということは本当に不幸なことで、けれどそれはお金とか時間を理由にして叶わないようなことを指すわけでもないとも思っているわけです。

これまでの人生の中で目にしてきた景色の中で何よりも不幸と思わされたのは、それは理不尽に人為的に命を奪われたり連れ去られたりということは覗いてということなのだけれど、あまりにも網羅的という威力においてやはりあの段ボールで区切られた体育館で為す術なく被災生活を余儀なくされる人たちの景色で、つまりどんな理由にあっても“やりたいことが出来ない”ということ以上に不幸なことは人としてあり得ない気がしてしまうわけで、それは病気であったり先天的後天的に不自由な体であることも何も変わらず、神様すらも呪いたくなるような有り様のような気すらしてしまうわけです。

 

そうして宗教とか神様をいぶかしくとらえたがるのは、何かが違うとはもちろん思うのですけれども。

 

 

近頃も、人生の道筋に迷う若者のハナシを聞かされたのだけれど、あたしなんかは見ての通りの乱暴思考そのものみたいな人間ですから尚のこと思わされるわけなんです。

“もったいねえなあ”と。

 

自らの意思で人とは違う生き方を選ぶことは勇気がいることでしょうし何より恐ろしくもありましょうし、失うものも少なくはないはずなんですけど、たぶん、所詮その価値観が立ち止まらせることに過ぎない気がしてしまうんですね。

見なければ、過ごしてみなければわからない価値観というものは確かにあるのだし、体験しなければ知らないことと大して変わらないとは思うのだし、つまりは理屈でどうにかなるようなことではないことはあたしですらわかるんですけど、それにしても“もったいねえなあ”と、やはり。

 

あたしは高いお金を払って豪勢なものを手に入れた経験がないので、そういった感激の価値を知りません。

その若者は、人とはちょっと違うことに踏み込んでみてわからなかったりドキドキしたり恐ろしかったり、それにしても必死になって何かがカタチになっていくらしい、自分ばかりのモノでしかあり得ないことらしいその興奮や充実のようなことを体験していないみたいだから、やはりその意味や価値のようなことを知りません。

 

実に難しいところではあるのです。

しかしながら、たぶんあたしはそんなことは近い将来、全然難しいことなんかではなくなってしまう、そういう価値こそを多くの人が必要とする、憧れる時代にあっという間になっちゃうんだぜ、といったことを何よりも言いたかったはず、早く駆けだしたモン勝ちのようなことを言いたかったはずなんですけど、多くの人々が宗教や神様を語ることに自重的であることと同じく、見たこともないことにはやはり共感も予感も思いつきようがないらしく、実に歯痒いことには違いないのでありました。

若者には、あたしの言いたがることは大層胡散臭かったことでしょう。

わかるともわかるとも。

 

 

お空の雲を見上げながらぶつぶつと思いを馳せるおっさんなんて、気味が悪いよな。

わかるともわかるとも。

 

 

そういえば昨日、今年最初のツバメを見ました。

季節外れの暖かさにダマされてしまったのでしょうか。

今週は冬の底らしく冷え込む予報とのことだし、何とか無事に春を迎えてくれよせっかちなおまえら、と祈るばかり。

 

何ごとも先を急ぎたがるものには苦難がつきものらしいですな。

しかしながらあたしはやはり、せっかちなツバメどもを嘲笑うのではなく、声援を送るものでありたいと思うのです。