アラズヤ商店

日々のナマキズ

“生きづらさ”をスタイリングしたって、いいのだ

そもそも不安定な環境に生まれたことがあたしの性分のかなりの割合のところを決定してしまったのだとずっと思って生きてきたわけです。

 

それは何も消極的な、ネガティブな意味ばかりではなく、嘘をつくことにやけに畏れを思いつけることや、人をいじめたがるようなことは一度も思ったことがないこととか、ほとんど反射的に単純なお礼を言える、なんてつまりかなり地味なことばかりではあるのだけれど、仕事ができる、勉強が出来る、お金持ち、友だちが多い、などといったとても分かりやすい人物評価軸のようなことには一切こすらないような観点において、我ながら悪いやつではないのだぞ、という気持ちにはわりと疑いを持たずに生きてこられた気がしているので、それはやはり苦労して育ててくれた母親(あたしには母しかおらん)にはとても感謝しているわけなんです、けっきょくのところ。

 

そんな“感謝”の軸が、我ながらつましいことにはいささかのわびしさのようなことを生育環境やそこから培い得たことについてなどではなく、単純に自分自身としての“欠落”のように感じて生きてきたわけでもあるのですが、近頃思わないでもないのが例えばそんな“つましさ”のようなことをむしろ苦手なような、自らにはそんなことこそが欠落しているような気がして仕方なく暮らしている人も、世間には少なくもないらしいということで、それは何も今さら気が付くようなことではなく、例えばテレビなどを見ていれば毎日のように見せつけられることのあちこちに、そんなものは見受けられるはずなんです。

つまりは、“悪いことをした”ということで話題を集めてしまうような人たちがそんな類の“欠落”に自らを悩ませているタイプの人なのだと思うわけなんです。

 

 

社会学ぶったような屁理屈をぶとうというわけではないのです。

何しろそんな知識はないのだし。

 

朝っぱらからどうしてこんなことを書きだしてしまったのかといえば、もちろんそれは自分でもわからないのだけれど、書き出してしまったのだから仕方がないのです。

毎日こんなことを続けるためには、いちいちネタのようなトピックのようなことを求めたがっていたらキリがないですし、時事ネタをまさに面白おかしそうなタイトルから化かして端正なキャラ文に仕立て上げるブログ猛者たちはごまんと存在しますから、たぶんあたしがそれと同じ土俵にあるべきと考えることはあるいは、やはりあたしなりの“欠落”のようなことに自ら好き好んで刃を向けるような、自ら傷を抉ってその痛みを確かめたがるような、傍目にもただの物好きとかほとんど悪趣味としか受け止めようがない自惚れとか、自傷行為のようなものにすらそれほど遠くもない欲求の抱き方ではないのかという気がしないでもなくて、つまり近頃のあたしというのはこうして屁理屈の如くロジカルぶった思考に逃がしてすら開き直れるだけの“あたし的態度”のようなことを案外自分に対して許すことを恐れなくなりつつあるような気がしているのです。

 

何か、言ってることヤバいですか。

朝っぱらから。

 

 

不安定な環境から培われたあたしという人間はやはり所詮不安定な性分らしく、つまりは学としてではなく単純に“人間”という存在として、あらゆる条件において持ち得るものが社会的な水準と比して押しなべて質の低いものばかりである気は、やはり未だにしているわけなんです。

実際、傍目から伺い知れるあたしという有り様はあきらかに社会的に水準の低いものに違いないですし、それは誰に言われるまでもなくあたし自身でも自覚するところでもあるわけなのです。

 

つまりそれは、あたしが誰よりもあたし自身について思う“苦手さ”ということに違いないわけでありまして。

 

 

ここ数年の間あたしが好き好んで嗜んだ性質、それは例えば読書でも映画でもドキュメンタリーでも何でもいいです、つまりそれは“人間っぽさ”のようなことにおける性質としての興味、いやいやもっと正直に言ってしまえば“好感”とか“信頼”のようなことを思いつきがちなこと、ということに違いないのだけれど、そんなものが案外あたしばかりに限った興味などではなく、世間において決して少なくもないらしい人たちにとってすら興味深い、“好感”のようなことを思いつかせるジャンルとして、“生きづらさ”という観点において巧みに物語られる性質の作品が少なくなかった気がするのです。

 

あたしは読書の領域が極めて狭いですから、それはかなりの極論であることには違いないのかもしれないですけれど、それにしてもあたしなりに思いつきがちな“好感”のようなものを以て読まされる作家さんのこと如くが、本当に些細な一個人についての“生きづらさ”のようなことに視点を置いて、その物語の世界を巧みにあぶりだしておられる方ばかりで、それは楽しかったり寂しかったり苦しかったり逞しかったりと、触れるたびに様々な“生きづらさ”という視線が切り取る世界に出逢わされることになるのですが、結局そうして思わされることは、どうしてあたしは好き好んでそういった世界ばかりに“好感”のようなことを思いつきたがったり、“信頼”に足るキャラクターたちに出逢いたがるのか、ということで、たぶんこれまでの間ずっとあたしなんかはそんなキャラクターたちの一人一人にやはり、たぶん読書というものはそういった性格を多分に持ち合わせているものだと多くの人が感じさせられていることだとは思うのだけれど、つまり自分自身を映していたのだと、やはり感じさせられるしかないような気がしてしまうわけなのです。

 

そんなさまざまなキャラクターたちのそれぞれの世界が、”生きづらさ”という生きざまが、切なかったり苦しかったりやるせなかったりやめてしまいたくなるような気分にばかり苛まれることに、自らを同調させて“あるあるなんだ”のごとく溜飲を下げる、などという趣味はわりとなく、というか卒業した、とか諦めた、なんてことでも今となってはどうでもいいのですが、近頃になってはその“生きづらさ”について、あたしが思い当たりがちな心境というものが少しづつ、けれど明らかに変化しつつあるような気がしてきているらしいのです。

そんなことを懐に甲斐甲斐しく温めながら、一人で朝っぱらからタイピングに勤しんでいるらしいのです。

そうさせられる、ということなら尚更、といった心境にすらあるということらしいのです。

キモいですか。

 

 

これはたぶんあたしばかりの話ではなく、まったくいい意味での“価値観”というそれぞれが持ち得て許される意思の選択、そんな観点においての“秩序の崩壊”のようなことが、ほとんど自然発生的に社会レベルで起こりつつある、そんな末端現象のようなことなのだろうと、あたしなんかは少しも恥ずかしげもなく感じさせられたりしているところがあるのです。

 

不安定な場所から始まったあたしはどうせ、まったく自分自身が信用ならず、期待もなく、そもそも好きではなく、そんなことこそを才能のごとく蓄えてきてつまり、“生きづらかった”のだと思うのです。

誰に言われるまでもなく、自分自身が自分のことを誰よりも苦手にしながら生きてきたわけなんです。

めちゃくちゃ自分のことがイヤでした。

苦労するばかりのまま亡くなってしまった母親に顔向けできませんな。

 

 

そんなあたしが少なくとも思いつける“感謝”のようなことがつまりたぶん、先に言った通りの“嘘をつくことにやけに畏れを思いつけることや、人をいじめたがるようなことは一度も思ったことがないこととか、ほとんど反射的に単純なお礼を言える”のようなことで、そういったただの愚直さのようなものすらなかったのなら、たぶんあたしは今日の自分程度にすら辿り着けなかったはずだと思うのだし、ずいぶんと弱弱しく、要領も悪く、真剣さも足りないし甘えばかりはたらふく必要だし、言い訳にかまけて自分ばかりを撫でり撫でりして逃がしてきた人生には違いないのですが、所詮社会的な悪さのようなことは仕出かさず、個人レベルでの様々な迷惑や混乱や悲しみのようなことすら巻き起こしてきたものとはいえ幸い村八分に扱われるようなこともなく、何しろ無事に死なずに生きてこられたということが近頃のあたしには大層誇らしいことのように思えないでもなく、それはつまり、あたしが生来抱えてきた“生きづらさ”といったことに対してすら“好感”とか“信頼”といったものを、徐々に思いついても平気らしいことを思いつきつつあるという現象、社会的なレベルで予感する“秩序の崩壊”というそのまったん現象のようなものですらある、と思えなくもないということなんです。

 

あたしみたいな”生きづらさ”を抱えた人間ですら生きていける、そのための身勝手なような生き方すら許容されるらしい社会的“秩序の崩壊”ということ。

 

 

恐ろしいウイルスの話とか、それにまつわる様々な苛立ちや憶測、同情や悲しみももちろんなのだけれど、例えばそんなことにすら近頃からの人間社会というものはだんだんとこれまでとは違うことを思いつけるものになりつつあるらしい気がしないでもないのだし、目の前で起こるあらゆる事態が、これまでとは全く違う理由によって起こり得ることのような理解すらも思いつける時代になりつつあるらしいとあたしみたいな人間ですら思っているわけで、やはり人間というものは試される存在でしかないのだなあ、などと、いよいよ朝っぱらからヤバい感じの結論に辿り着きつつあるわけです。

 

ヤバいですか、キモいですか。

もう少しテレビやメディアに親しんで、俗に染まったほうがいいですか。

バランスよく。

 

 

自分が自分であることにいい意味で身勝手でも価値を思いつきたいのだし、余計な意味まで思いつきたがって苦しむような生き方はもう通り過ぎてしまった、なんて、そんなわがままな生き方こそを全く恐れずに突き進みたい気持ちが、かなり平坦な意気込みで視線の先に延びている気がします。

興奮するでも昂るでもなく、いや、ちょっとはテンションも上がろうというものだけれどそれにしてもわりとタイトな、ニュートラルな心境において“生きづらさ”のようなことを恐れずに、自分らしくスタイリングしたいような気が、そうしても許されるような気がものすごくしているわけなのです。

 

“恐れる”のは“畏れる”からで、つまり人間とはやはり試されていて、もっとゆだねて生きられることも知らなければ、“試される”ことにすら従い損ねてしまう、そんなちっぽけなモノであっても少しも卑下する必要ものないくらいには自由が許された生き物には違いないのだと、個人的にはよくよく思い至らせられるものらしいのです。

今のところは、ということには違いないのだけれど。