アラズヤ商店

日々のナマキズ

結局、歴史や宗教を眺めるのは誰ですか

あー、今朝は寒い。

体感で多分今年最高かもしれない。

いや、日本語。

気温が一番低く感じるのだから、そこは"最低”だろうと。

いやしかし情感として一番ということのだからやはりそこは、"最高”だろうと。

うーむ。

 

文章における"正否”のようなことはわりと一概には言えないもので、文法解釈に厳密にこだわればこだわるほど文体とか作為のようなものが意図から削がれて、読書という味わいのようなものこそが徒に損なわれかねない気がしないでもないのだし、だからと言って文法について奔放過ぎる文章は書き手の独りよがり(あたしのことか)のようで、それを売りとする人気作家でもなければ鼻について付き合い切れたものではない、と。

 

すなわち、どちらのつもりというわけでもないのだけれど、率直に言ってしまうものなのです。

最高に寒い朝です。

 

もしくは、寒すぎて最低の朝です。

 

いや、やっぱり何かが違いますな。

何しろ、最低の朝などとは思っていませんから、もはや文意としてねじくれてしまっているではありませんか。

これではあたしの本意こそが伝わらないではありませんか。

ものすごく寒いけど、今日もしっかり早起きが出来て清々しい朝であることには変わりのないことであるよ、とお伝えしたいだけなのにこれは一体どうしたことなのか。

 

 

言葉とはとてもむずかしく、ややこしいものなのかもしれないですね。

"誤解”というのは単に感情の綾とでもいうべき過剰さのようなこととばかりと思っていれば、案外もっと単純に"語彙の取り違え”のようなものを発端とするところも多いのかもしれませんね。

言葉は目的や意思や感情を表すものですし、目的も意思も感情も一先ずは言葉に乗せなければ伝えることが出来ません。

けれど、その人が持つ言葉の意図を正確に理解してくれるのは案外その人自身ばかりで、その人の言葉というものはその人を離れた瞬間から、空気に触れて世間に触れて、その人以外の人生に触れた誰かの解釈にこそゆだねられて、少なからず変異する。

 

あれ、近頃のあの話題ですか。

いえいえ、そんな迂闊なことは言えるはずがありませんあたしのような安い情報の受け売りとんまの口からそんなバイオでハザードな、アウトでブレイクないやはやすでに何だかマズそうなことを言っているぞ、すなわち新型ウイルスなのか人変異なのかよくわからないけどわからないなら迂闊なことをやすやすと口になどするものではないのだぞ、といった良識こそを重んじて然るべき年齢にはなっているはずなので、その手の話題は対面にて、例えば自分のお店でマンツーマンな環境において口幅ったいような言い訳を建前向上にして以後延々と、あちこちで拾い集めた真贋掴みどころのない浮世離れしたような妄想願望あるいはもはやクリエイティブですらあるトンデモ論なんかも含めてべらべらとまくしたてて、何より"人間”というものの不思議さのようなことに軟着陸を決め込んで逃走する、そんな身もフタもないひとときをあたしはお店で売っております。

興味があったら出掛けてみてください。

この人まじで大丈夫かな、なんていつの間にか差し出される高みの見物っぽさもときには味わい深いものかもです。

よくわからないですけど。

 

 

人間というものはやはりやっぱり想像とか妄想とか願望とか懇願とか、言い続けたら確実にズレ始めるそんな無意識に求めがちなことにこそ古来よりご執心な生き物らしく、それは例えば"宗教”というものですらその手の範疇から生まれたものに過ぎない、とあたしなんかは個人的に思ったりするものなのですけれど、そんな一言でもガチギレして口角に泡を吹く人は多分少なくはなさそうなネタなので、努めて気を配りたいものですよね。

 

個人的にはこれまで信心のようなものには極めて疎いというか、むしろそういった信条には努めてかかずらない態度を硬く貫いてきたタイプの人間なのですが、その揺り戻しの如くまったくの雑学的見地で宗教というものにわずかばかりハマって面白がった時期がありまして、そのときは主にはユダヤ、キリスト、イスラム、という興味こそなくても誰もが聞いたことのあるウルトラメジャーな一神教界隈をうろうろしていたのですけれど、そんな経験を以てというか単なる雑感のようなことを一口に言ってしまうと、「どれも一緒」というあまりにも理解という意思に無頓着な、わきまえるという配慮にこそ絶望的に頓珍漢な雑感を迂闊にも口にしてしまうわけで、ここが中東パレスチナの赤土界隈での発言だったりしたならややもすれば、いろんな意味でちょん切られかねないようなトンデモ発言あるいはすっとこどっこいな感受性には違いないわけで、我ながら最高に寒いも最低の朝もへったくれもないどころか誅殺も恐れないハイパーなデンジャラスマインドを獲得してしまったものなのです。

 

 

すべては人が思いつくことではなかろうか。

まだそんなことを言うのです。

ハイパーでデンジャラスな性分なもので。

 

 

近頃におきましては、まったく中途半端に舐め腐ったまま我が理解を得たり、の如く興味の失せた一神教界隈から久しく離れまして、"神道”の世界に引き込まれつつあるわけなのです。

そこはさすがにあたしも日本人というわけで、信仰とまでは張り切らずとも"お慕い申し上げます”くらいの心情は、あるいは信条こそ思いつきかねないところもなくはなくて、近所の神社さんとか、ただ単純にお詣りさせていただきたくなるような気分ばかりを預かり受けまして日々いそいそと、あちらこちらとお参りさせて頂いたりしているわけなのです。

 

とはいえやみくもに参りたがるばかりではややも無節操なような、何だか心許ないような気分を思いつかないでもありませんから、その歴史とか由緒のようなことは少なからず知りたくなる、参る気持ちにこそ根拠のようなものを植えたくなるのが人情というもので、粗忽者なりにたとえ貧弱なものではあっても自分なりの知識を蓄えてみましょうか、のような気分こそを思いつかされるわけなのです。

悪くないだろう(ぺこぱ)。

 

 

知れば知るほど参りたくさせられる場所は増えるもので、強烈ハイパー引きこもり気質のあたしですら即答の如く参りたいと思わされる場所はいくつもあって、早く暖かくならないかなあ、くらいの春待ちに心を温めるわけなのですが、実際に参るのかどうかはまたそのときの心の在りようということで、所詮そんな程度の心情であることには違いないのです。

 

けれどやはり、インターネット(この語感キライ)というものは素晴らしいですよね。

知りたいだけならいくらでも探れる無尽蔵かつ無節操な情報の宝庫ですまじで。

そんな宝庫におきまして近頃辿り着いた一つの思想らしきものが、“神道ユダヤ”の関わりといった界隈の話で、細かいことまで説明していると朝が来てご飯を食べて仕事に行かなければならない時間があっという間に訪れてしまうので平たくまとめてしまうのですが、つまり一部のマッドな(本人たちにそのつもりは微塵もないガチ中のガチなんですけど)人たちによる“神道悪魔崇拝だった”という、あまりにもセンセーショナルな論説、ディープな思想と知識にもとづく強烈ハイパーな“ディスリスペクトニッポン”みたいな界隈のおハナシだったりするのです。

もちろん、お話している方々に“ディス”なつもりなど欠片もありません。

むしろよほど冷静な愛国心あってこそのような。

そこまで言ったらおしまいよ、みたいな感じとか。

 

 

先に「どれも一緒」と言いましたが、あたしはそれについてはあくまでも“宗教観”という人間による発明全般のようなつもりのことを指して言っていたつもり、これまで考えていたつもりだったのですが、何だかそのスタンスがこの度のマッドな思想に触れて、いい意味でもっと“人間臭い”ような理解に近づいたような気がしているんですね。

 

“日ユ同祖論”なんて、けっこう有名な論説もあるんですけれど、個人的には生物の話としては広く“ホモサピエンス”という意味においてそれでもいいんじゃない、くらいの興味でしかなくてつまり都市伝説レベルで楽しむくらいにものとしか思っていないのですが、近頃“神道”に興味を持ち始めてみて、その教義とかあるいはむしろ一神教界隈で言われがちなことも絡めてということなのだけれど、“なんか、似てるなあ”というほとんど肌感覚程度のようなことをちらちらと想像していたわけなんです。

 

それは“同祖”と呼びたがる民族的ルーツのようなこととは全然関係なく、あくまでも“思想”ということに限ってのことなのですが、あの、ものすごくヘンなこと言いますよ?

 

ユダヤ、キリスト界隈における“メシア”という思想と、日本について語られがちな“日出ずる国”ということ、なんだか似てるなあ、と。

意味、わかりますか?

アタマおかしいですか。

 

宗教的な解釈とか、理解の合致とかそういうことではないです。

むしろ思想としてということなら、“日ユ同祖論”によほど近いというスタンスではあるかもしれないです。

民族のルーツとしてではないですよ。

 

 

つまり、“影響を受けている”という界隈の話なんですけれども。

神道悪魔崇拝だった”という論説をぶちまけるマッドな界隈の方々の論旨を、あたしはたぶんそんなに型破りなモノと受け止めてはいないのだと思います。

それはあくまでも“宗教”としての話ではなく、“人間”というものについてという態度をあくまでも崩さない上での話なわけなのですが。

 

「どれも一緒」とは思想の発展の仕方ではなくて、単純に民族の話、迫害されて地球上のあちこちに散り散りになったユダヤの人たちの系譜に基づく、といった興味が個人的には近頃は濃くて、それは偶然なのか然るべきなのかはわからないんですけど、勝手に思っていた“なんか、似てるなあ”という感覚をわりと裏付けるものに近い感覚があって、“人間のハナシだな、やっぱ”なんて、ものすごく平たい気分を思いついているわけなんです。

 

さまざまな経緯でついに極東の地に辿りついたユダヤの人々がもたらした、例えば“宗教”という人間による発明の影響を受けて日本神道は作られた、あるいは他のルートをたどれば中国の道教の影響も無関係ではないらしく、その始祖である老子ユダヤで、朝廷に様々な影響を与えた渡来人の秦氏もまたユダヤという説が有力で、伊勢神宮の灯篭に刻まれる六芒星祇園という言葉のルーツなど、尽きない話題とその因縁のようなことを辿れば辿りたがるほど道筋は都市伝説化して素人目にも興味をそそられるオモシロコンテンツ化してくるわけなのですが、じつは個人的にはそうなればなるほどむしろ“宗教観”のような、それにしてもやはり理屈抜きの“人間観”のようなことにこそ意識は傾きがちで、人類の歴史のようなことからは甚だしく逸脱するような、所詮”神様と人”なんてはっきりと胡散臭いようなその意図のようなことこそを思いつきたくなるわけなのですが、しまったもう時間がない。

 

明日になったら忘れてしまいそうなことなので定かではないですが、続きが書けるなら自分自身ばかりでも納得できるように言葉に置き換えておきたいなあ。

よくわからないですけれども。