アラズヤ商店

日々のナマキズ

神の子は甘え上手

“神さまと人”なんて、何だかものすごいことぶち上げてますね、昨日。

寝ぼけてるってすごいですね、ついに“自動書記”のスペックを獲得してしまったのでしょうかあたしは。

早起きの賜物ですか、意識が目覚めという覚醒を覚える以前の瞼の裏やら脳みその隅やらで仕出かすアイドリング、はたまた軽薄な魂胆がナチュラルに寝ぼける隙に思召すチャネリング、何でもいいですとにかく筆が進むなら従いましょうおもねりましょうすっとぼけましょうとも。

 

 

恐れずに言ってしまいましょうか、続きのこと。

 

あたしは“一神教”がキライです。

何故なら、“正しいから”です。

 

何しろ信心に乏しい人間が言うことですから、額面通りに受け止められるとたぶん角が立つし誤解を生むし、バチが当たりそうなこと。

バチが当たる、なんて言い方をしたがるからにはやはり、“一神教”はキライなんですな。

二度も言ってしまったな我ながら恐れ多すぎてお腹が空いてしまう朝だもの。

 

いや、果たしてそうなのだろうか、と。

 

 

お仕事の話とたぶん少しも変わらない意味において、“ロジック”にこだわるばかりの“正しさ”みたいなことが、あたしはあまり好みではない気がしているのです。

上手な儲け方とか、正しいマーケティング理論、世の中のお金の流れだとか、つまり法則やら構造みたいなことに照らしてスマートに説明や整理が出来てしまう感じ、ロジカルに思考を展開して他者にも理解しやすく啓蒙されて有難がられる感じとか、その正しさとか説得力のようなことは何となく雰囲気レベルではわかる気がするんですけど、所詮それが何を見てどこを目指して誰に対してどのように効果的であろうとしているのか、それがたぶん世の中に向けてこそということが明らかである以上、だって何しろそれは経済であって人々の暮らしであって人生の話でしかないはずなのだから、やはり“人間”というものを眺める上では何となく、“味気ない”だとか何とか甘っちょろいようなことばかりを思いつきたがってしまう性分であるあたしとしては、そんなこんなで長年貧乏商人を続ける憂き目にあっているわけなんですけど、つまりそんなこんなのパラダイムシフト、以前に申し上げました通りそんな感覚は例えば、あたしの“宗教観”あるいはもっとシンプルに“人間観”なんてつまりはやっぱり“神さまと人”なんて表現してしまいたくなるのでしょうか、やっぱり起こりつつあるパラダイムシフト、みたいな意識に何となく向いてしまうんですね。

 

どうして“一神教”がキライなのか。

それは“正しいから”。

 

“正しい”という気がしているらしいのにどうして嫌いなのかと言えば、やっぱり一番の誤解されがちなポイントはその視点ということには違いないはずで、たぶんあたしは“一神教”がキライなのではなく、それについて敬虔な態度を譲らない人々のことが、あまり魅力的に思えないのだと思います。

うお、余計にしっかりとヒドいことを言ってるかも。

口角泡が飛んでくるかも。

いや、敬虔なる“一神教信者”の皆さんはそういう怒りの表現はなさらないはず。

もし飛んでくるとしたなら、もっと恐ろしくファンダメンタルな思想に傾いた方々によるロケッ……やめておきましょうかね物騒だものね。

 

はたまた例えば“悪魔崇拝”だとか、特定の宗教の出自や変遷を探ってその思想のほころびを解く、説くようなカルト的思想的執念のようなものについてもまた、魅力というよりは思想的センスとでも言いましょうか、興味こそ思いついても同意を傾けるにはその情熱の在り処のようなものが違う気がしてしてしまう、ということ。

 

 

個人的にはいづれの性質にも共通して見えてしまう気がしてしまうのはやはり“ロジック過多”とでも言いたくなるような“主体性の欠如”のようなことで、つまりそれを“一神教”の敬虔なる信者に見るなら、どうして聖書や教典が示すこと、導きとされるらしいことに付き従うばかり推し量るばかりに自身の人生を費やして納得できるのか、という疑わしさその一点のみに尽きる気がしてしまうわけで、それはごく個人的な感情であって“人生観”のようなことに過ぎないことを思いっきり告白した上で言いたいことなわけなんですけどつまり、何だか利口そうなフリしてただ臆病だったりケチ臭いだけのような気がしないでもない、なんて感じの悪いことを思わないでもない、というわけなんです。

もう本当に酷いこと言ってるかも。

でもたぶん、そんなことを言ったからといって例えば“バチが当たる”ようなことを望みたがる程度のものを、あたしは“宗教”とか“神さま”といった風に呼ぶものとは到底思えないのだと思います。

 

はたまた、カルトな“悪魔教解釈”云々的執念。

それもまた方向性が違うだけの“ロジック過多”であることに過ぎないようにあたしなんかは個人的に思わされずにはいられないわけで、特定の宗教についてそのほころびを認めたがるということはある意味反抗期の子どものような“敬虔さ”には違いない気がするわけで、ほころびを認めたがるその宗教という存在がなければ自身が示したがる“ロジック”こそ存在し得なくなるというアキレス腱を宿命的に抱えていることには違いないのだと思うわけです。

 

何が言いたいのかというと、両者ともに共通する“主体性の欠如”とはつまり、その“依存性の高さ”ということにこそ違いない気がしている、ということで、個人的には一つのことにただ熱心であることと、それに対して“自分”という“主体性”を如何に旺盛に付き合わせて担保できるものなのか、といったような姿勢は明らかに別物でしょう、ということにこそ注目させられるわけですし、それでこそ信用ないし尊敬のような心持ちを判断して思いつかされて然るべきものだろうと考えさせられるわけなんです。

単純に、そういう逞しさこそを自分自身に当たり前みたいに言い聞かせられる人が好きとか、問答無用に格好いいはずなのではないのか、という意思に過ぎないことに違いありません。

甘っちょろいこと言ってますか。

いろんなロケッ……、飛んできますか。

 

 

ならば、あたし個人による“宗教的”、”人間的”あるいは”神さまと人”的パラダイムシフトとは何ぞや、と。

 

これまでもいつだって薄々とは感じていたことなんですけど、やっぱりアレだなと。

また気持ちの悪いことを言ってしまうんですけど、大丈夫ですかね。

ヤバいですかね、いい加減。

まいっか、“敬虔”な人キライとか散々言っちゃってるんだしな。

 

やっぱりこの世は、この世の“価値観”とか“思想”は所詮、人間によるものでしかないのだな、と思うわけなんです。

馬鹿も利口も、正義も悪も、貧乏も金持ちも、平民も上級国民も、みんな全部人間によることでしかない、ということ。

そういう世界で人は悩んだり望んだり苦しんだり叶ったり見失ったりを繰り返すわけで、そのために必要な支えや救いや教えの如く“宗教”や“神さま”といった思想を思いつかずにはいられなかっただけのはずで、それは人間が生まれて死ぬまでの間に仕組まれたシステムのようなことの一部に過ぎないのではないのかと、個人的にはほぼ決定の如く思わないでもないところがあって、もはやむしろ清々しいくらいのつもりですらあるわけなのです。

 

人間は本能のまま、この人間による世界で願わくは正しく豊かにありたいと願ったもののはずで、それは単細胞として存在した頃から現在に至るまでの進化の歴史の中で常に塗り替えられ更新されアップデートされてきたものらしい“価値観”や“正義”や“理想”のようなものらしく、人間たちの間のみでやりとりされる、ときにはお互いの命すらも、ということにすら違いのないことのように思うのだけれど、つまりそんな恐ろしい場面を見るまでもなくあたし個人としてはつまり、“所詮人間の仕出かすこと”に過ぎないではないか、思いつきたがることに過ぎないはずなのにどうして、といった心持ちであるということなんです。

 

もっと気持ちの悪いことを告白してしまうなら、この世の人間にとって存在するべき、して欲しいはずの“神さま”なるものの存在できる場所、あるいはそこにしか存在できない場所とは所詮、“その人自身”でしかあり得ないとずっと思っているわけで、所詮人間程度のものが想像したり創造したつもりで許されるものなど、“ロジック”にとって食われるような、その果てには命の奪い合いにすら化けかねないような、自分にばかり有難くあってほしいものでしかないらしく、やはりそんな“人間本意”でしかなさそうな思想には絵に描いた餅のような“神さま”しか、好き好きにこねてかたどれるような“都合のいい神さま”しか所詮存在し得ないのではないのか、ということです。

だから腹を立てて、殺しても許されるような“神さま”が存在し得て然るべき世の中であったりしてしまうのではないのか、ということ。

 

すごく気持ち悪いついでに言ってしまうなら、あたしはこれまでもずっと“神さまは自分の中にいる”と思って生きてきたので、“神さま”という姿勢に向き合うことは案外苦しいことではあったような気がしてるんですね、気持ち悪いですか。

そんなものが自分の中に棲んでいるのか、棲まわれるものなのか、その区別には自信がないのだけれど、それにしてもそんなものが”棲む”なり"棲まわれる”なりの条件を常に試されているような、しごかれているような意識は常にあって、それはつまり自分自身にこそ祈るような、目指すことのような気がずっとしていて、それは今現在も変わらずにいるということなんですけどつまり、“ロジックに化かす”なんてことは馬鹿馬鹿しい、とかなり本気で、まるきり浅はかなものを見るような気持ちすら思いつかずにはいられなくいるわけで(日本語)、つまり、“神さま”ってやっぱいるよな、別のところにな、と。

 

ああ、我ながらヤバいですよね。

わかってますってば。

 

 

一神教”がキライ。

何故なら”正しい”から。

 

それはたぶんというか確実に聖書にあることやその教えについて言っているのではなく、“自分の中にいる神さま”という意味において、“一人の神さま”として生きるその“主体性”こそを信じたいという意味において“正しい”と言い切ってしまいたいものなのだと個人的には思っているのです。

“我は神の子”と言ったのは誰だったか。

あたしには定かなことではないのですが、少なくともそれは地球上に存在する“全人類”が全員、自分自身の口から告白するべきこと、自らに言い聞かせるべきことだとあたしはほとんど当たり前みたいに考えたくなってきているらしく、そうでなれば“願う”ということからすでに叶わないものになってしまいそうな気がする、ということらしいんです。

 

どうして“一神教”がキライなのか。

たぶんあたしがそれを“正しい”と言ったのは、それは預かったものとして有難く与えられて妄信したがるような、信じるのみで、従うのみで救われたがるようなものなどでは少しもなく、あるいはむしろそれを否定してでも“自分自身”という“主体性”こそをいきいきと働かせて、悩んだり苦しんだり助けたり助けられたりしながら、それにしてもようやく裏切れないような気がするらしく辿り着いて知るべきのような、そのための答え合わせのように存在してくれるものとして“正しい”と言っているつもりのはずで、そうあってこそようやく有難い“教え”であったり“神さま”と呼ばれる存在として存在し得る気がするのだし、そんな存在が如何にも示してくれそうな“敬虔なる意識”に極めてふさわしそうな示しとして存在するはずであるなら、“聖書”というものを個人的には少しも否定する気などない、ということなんだと思っています。

 

一神教”によるところの“サタン”という対極にありながらその思想を完全に支配する思想体系と、“悪魔教”と罵るにふさわしほころびをいかなる宗教も抱えている現実について、あたしはあくまでも個人的にそれをどう受け止めたものなのか。

そんな意識にこそこの度あたしが勝手に名乗っている“パラダイムシフト”のような意識は存在している気がして、つまりやはり人間というものは試されているのだなあ、ということなのだと思っているのです。

そんな気がするということ。

悪くねえなあ、ということ。

どうして口が悪くなったのかはわからないんですけど。

 

神さまからの意志としての“正しさ”は“一神教”に許されてもいいような気が個人的にはするわけなんです。

それを容易に与えられたくはない、という姿勢のようなことを言っているだけです。

つまりそんな“姿勢”のようなことをフィルターとして透過すると、あるいは“サタン”とか“悪魔教思想”のようなことは人間として生まれて死ぬまでの、生きる上での“主体性”としいう意味においてはむしろ“正しい”、“人間らしい”姿勢のような気がしないでもないわけで、この世の人々が有難く簡単に手にすることが出来るらしい“一神教”はそれを人間の愚かさと呼んで嘆くらしいのだけれど、おかしな言い方をするなら、あたしが神さまだったなら、“そんな物分かりがいいだけの子どもなんてつまらん。っていうかむしろ心配だぞ何だか”なんて気がしないでもなさそうなのだし、“もっと無茶しろおまえら、親のことナメてんのか”なんてムカついてしまいそうな予感こそしてしまうわけで、つまりおかしい上に気味の悪い言い方をさらにしてしまうなら、“せっかくこの世に送り出してもらったというのに、何だか失礼ではないのか、そんな臆病な態度で生きるなんてことは”ということだったりするはずなのです。

 

あたしが今何よりも一番に”神さま”というあたし自身の中に存在するはずのものとは圧倒的に違う”神さま”というものに想像して預けたくさせられる気持ちというのはつまり、何だか恥ずかしいんですけど、“めちゃくちゃ優しい”ということに違いないらしいのです。

 

“神さま”という圧倒的な存在が、例えば“サタン”なる悪しき誘いに人間が従いたがることを、そんな程度のことを罰の如く嘆くほどケチ臭い存在だろうか、ということ。

どんなに子どもが馬鹿なことをしても、許すしかない、守るしかないのが親というもので、もし本当にあたしたち人間が“神の子”と名乗って許されるものなら、所詮あたしたち人間は“許されるべき存在”として、この世で逞しく試されるために存在させられているのではないのか、ということ。

 

 

この世は人間ばかりだから、たまにはおかしなことが起きたり、おかしなことを言いだす人は後を絶たないのだろうけれど仕方がないです、何しろ人間というものは所詮この世に送り込まれて、あるいは自らの意志でこそこの世に生まれて、試されることを望んだはずなんですから、ときどき失敗してしまうことはやはり仕方がないのかもしれません。

取り返しのつかないような“人間的失敗”を仕出かす本当に悪魔みたない人も存在してしまうことばかりは解せないですし呪わしいほどの気持ちを思いつかされますけど、そんなことすら仕方がないとやはり言うしかないのでしょうか、何しろこの世は人間の世なんですから、所詮愚かしいものらしく。

 

 

解せないところもあるけれど、信じるほかに術がない、何しろ“神さま”は答えをはっきりと示しながらあえてそれを疑って遠回りをしてこの世を楽しめ逞しくなれと、めちゃめちゃ優しいまなざしであたしたち人間を試して遊ばせてくれる存在らしいのだから、やっぱり思わされるものなのです。

 

人間が思い描いたような“価値観”やら“成功や失敗”なんてことにいちいち嘆きたがる必要などないということ。

人間は神様の望み通り、“サタン”にそそのかされてなお“神さま”のもとにきちんと帰れる逞しさこそを手に入れるためにこの世を満喫して学べば、答え合わせが出来ればそれでいいということ。

そのために、毎日を楽しく旺盛に恐れずに、“神さま”に甘えてもいいことこそも完全に疑わずこの世にある目的を“主体的”に“わがまま”に生きなければ、それこそ“神さま”に叱られてしまいそうな、ガッカリさせてしまいそうな気がしてしまう、ということ。

 

 

近頃あたしの中で起こりつつあるそんな“パラダイムシフト”はとても明るく快適で、なにしろストレスが少ない気がしているんです。

問題山積の人生において、そのストレスを忘れて生きられるなんてことはもはや人間のなせる業とは思えないということで、でも毎日を生きているのは紛れもなくあたし自身なわけでつまり、”生かされている”とそれを理解したがるなら、案外ほんのわずかでも“神さま”の近くに向かえていることだったりするのではないのか、という言い方だけならものすごく気持ちの悪い感じであることとはいえ、それにしても毎日が快適ならそれに越したことはないではないのか、それにしても“神さま”毎日ありがとうございます今日も一つよろしく”なんて気持ちにこそさせられるというものなのです。

 

おはようございます、“神さま”

今日もこの世を楽しく逞しく遊ばせてくれてありがとうございます。

困ったら、助けてくれるんでしょ。

優しいなあ、もう。

 

なんてな。