アラズヤ商店

日々のナマキズ

先端らしい細い行列と、退屈らしい俺さま知性という大半

これまでほとんど無思考レベルで“良かれ”としてきたはずのものが、あるとき突然“クソくだらねえ”なんてちょっと口が悪い感じなんですけど、つまりそんな風にしか到底思えなくなってしまう瞬間ってないですか。

 

どうして行列してまでタピオカ飲みたかったんだろまじで謎。

 

なんて、そんなまったくどうでもいい感じのことで全然いいです。

要するに“ふと我に返る”みたいなことって、ときどきあるじゃないですか。

タピオカに罪はないですけど、あたしはけっこうそういうことに批判的で所詮ゲスい性分を持て余すタチのものだから、そんなことを現象の如く言われだす一カ月前、遅くても一週間前には、なんてそれはミッフィーがウサギなのか猫なのかそんなことはどうでもいいこととよく似た感じにデフォルメしたような言い方に過ぎないのですが、つまり意思決定は速攻の極みにおいて“タピオカエンガチョ”(語彙)を命ずるわけで、突然ビジネスモデルの権化の如く乱立する“タピオカ専門店”なる打算的もてなしに行列を仕出かすことは当然の如く避けながら、飽き足らず以前から日常的に購入していたコンビニ商品のタピオカ杏仁ミルクティー(めっちゃウマい)すらも購入すること許すまじ、といった頑なな態度を自らにキツく要求せざるを得ない心境にこそならざるを得なくさせられる、みたいな感情ってあるじゃないですか?

 

え、さすがにそこまでは……って?

タピオカ、普通に美味しいし……って?

 

まじすか。

どす黒いですか、あたしの嫌悪は。

 

 

ただのイモの粉のカタマリじゃないっすか、あんなもん。

といったディスり方が所詮芯食ってないことくらいはあたしみたいなどす黒い種族にもわかるわけなんです当然ですそんな程度のことはさすがに。

もんじゃとかあんなカスみたいなぐちゃぐちゃしたものを好き好んで食べるものですし、つみれはイワシの生臭さがちょっとアレなんですけど、はんぺんとかタラちゃんのすり身ふくらかしたなんてコスパ最強みたいな守銭奴食材いわんやもったいないお化け食材だって食った気しないなりに全然好きですしお弁当のオカズにも重宝したりなんかして実にお世話様でありさえするわけなんです。

 

とはいうものの。

 

 

タピオカが美味しいから、ってわけばかりでもなさそうだねえ、おまえさんたち。

 

とりあえず不老不死セクシーお化けお銀にでも言わせておきましょうか、雰囲気だけでも“へい、お嬢”な感じにおきまして。

つまり世間はそうした感情をわりと普通に読み取って“タピオカなんてよお”的なことをあっという間に、そんな態度こそをあっという間にはばからず御開陳せしめたわけで、それがむしろ常識的思考あるいは態度の如くふるまってその知性こそを、感度の正常さらしきこそをアピールしたがったもののはずなわけなのですけれども、まさかそこのおまえさん、あんたまさかここのところ町で噂の“マスク買い占め下衆”の一味だったりなんかしやしないだろうねえ、なんてまたしてもお銀さんがイライラし始めたりなんかして。

 

飲みたければ飲めばいいんですし、飲みたい人ばかりが仕出かす行列なら仕方ない、気が済むまで並んでいたらいいですよ無事に飲めたらいいですね、なんてあたしの中でお銀が突然江戸っ子脱ぎ捨てます。

簡単なものです。

 

 

“付加価値”って、結局何なんですかね。

“映え”なんて言い方は今さら“萌え”の如く衰退に属して地味に擦り傷抱えそうな予感がすごいんですけど、それってタピオカを現象の如く昇華させた何よりの理由には違いないわけなんじゃないですか。

タピオカに与えられた“付加価値”って、インスタ馬鹿に絶対的に有効しかも原材料費は東南アジア発展途上国の貨幣価値レベルで爆安しかも宣伝の手間もインスタ馬鹿負担とくればビジネスモデルとして最高ボロボロにボロい旨すぎる、っていう“誰のため”なのだろう所詮、っていう“付加価値”に“映え”こそを欲しがる諸君がまんまと引き摺りまわされた結果でしかないじゃないですか?

 

ミッフィー的デフォルメ感情に基づく速攻“タピオカいらねえ”は、所詮どす黒いですか。

経済的、経営的負け犬根性にのみ効果的ですか。

 

一気呵成にもてはやされて、飽きたと見るや“俺さま知性”見せびらかす格好の材料の如くこき捨てられる“付加価値商売”でも、所詮儲けたモン勝ちって、旅の恥はかき捨て的積極性でも旺盛さでもバイタリティでも何とでも言えばいいんですけど、それを仕出かせる人はもちろん才能だし経済における音速の貴公子なのかもしれないしいわゆる“勝ち組”ということには違いないんでしょうけど、残念ながらあたしの視点は“商売人”という立場のせいで完全にニュートラルではありえないので何だか腑に落ちないんですよ、所詮。

 

 

一体何が突然“クソくだらねえ”になってしまったというのか。

そもそも一体何を“良かれ”としていたつもりだったのか。

それは瞬間に起きる“突然変異”みたいなことなんかではまるきりないような気がしてきたらしいのです。

 

あたしはやはりかなり"商売の才能”が、いえもっと的確には“商売という目的に対する適性”が、絶望的にとんまなのだと、いよいよ自覚するわけなんであります。

つまり、“儲かる仕組み”ではなく、“儲かる仕組みを歓迎してしまう人々”のことが、どうやらあまりというかかなり、好きではないらしいのです。

それって商売人として、完全に、絶望的にとんまでしょう?

 

そうはいってもあたしは所詮“商売人”ですから、経済として“お金”を生まなければ死んでしまいます。

これって絶対的な理由じゃないですか。

けれどそれって、あたしみたいな人間にはたぶん、絶対的な“苦痛”のはずなんですよ。

”はず”なんて嘘です、絶対的に“苦痛”です。

 

もちろんお金は必要ですし欲しいですけど、そればかりを理由に仕出かすことも支払われる理由というものも、何だか余計なことばかりが気になりすぎてまあまあ苦しい。

それがもしかしたらあたしにとっての“商売”という何よりの“理由”になってしまうらしいと思うと、それはもう絶対的な“苦痛”になるしかないらしいのです。

 

そんなことをお行儀よく世間様向けに躾けて差し出すなら、例えば“違和感”とか、そんな言い方に化かすしかなくなってしまうもののような気はするんですけど、それでは“映え”的な経済、そういう価値を歓迎したがる人々には文脈としてあまりにも不十分なものになってしまうのだとやはり思うんですよね。

 

 

つまりは“B層”と言われる部類に属する人々ということになるとは思うんですけど、あたしは別にそういった層の人たちに受け入れられる商売をしたいと思っているわけではなく、むしろそういった“価値観”から快適に解放されて成立する“商売”というものこそを何とか実現したいと、たぶんずっと昔から考え続けているわけで、そんなことをして“良かれ”と、そんな意思に合って“商売”というものが存在したって別に良かろうと、実際の経済として成立したって良かろうとずっと思い続けてきたのだけれど、実は最近になってようやく、そんなつもりでいたらしいあたし自身こそがそのためのスタンスのようなことをまったくもって甘やかしていたような、むしろそんな屁理屈にすっかり甘えさせてもらっていたような気がやけにしてきていて、極端なことを言ってしまえば“良かれ”として何もしてこなかったなあ、といった感触が実感としてかなり濃いような気がしていたりするのです。

 

きれいごとを言うなら、“商売”とはお客さんのためにあるべきもののはずで、あたしはけっこうつまり“お客さま本意”のような“良かれ”とした理屈に甘えていた、言い訳していたということなのだと近頃はすっかり感じさせられているということです。

同じ目的なら安い方がいいだろう、都合がいい方がいいだろう、採算度外視らしく努めるべきだろうといった打算的“良かれ”はある意味“良かれ”として商売に貢献してくれた部分は確かにあったのですが、近頃になってようやく白状出来るような心境になって改めて感じさせられるのは、”所詮、商売でしかないじゃないか”ということには違いなく、それはあたしが勝手に思い描きたがる“商売”というその理由とか目的とは似て非なる“商売”という気ばかりがしてやっぱり、“苦痛”だなあと。

 

商売というものは、アピールすればするほど煙たがられるものらしいのだけれど、世の中の多くの人々はある程度話題として実効のある形でアピールされないと興味を思いつけない、という対局のジレンマに弄ばれる側面を常に抱えているものであるわけです。

そんな意味においてあたしが考え付く“良かれ”とは、どういったものなのか。

 

そういった具体的な検討についてこそあたしはたぶん“良かれ”として打算的な理由にこそ甘えてきたような気がしているわけで、果たしてそれは本当にお客さんのためとしての“良かれ”ということであったのか、ということがここに来ていよいよ疑わしく思えて仕方がない、ということなんです。

 

打ち出されるもの、話題になっていることに振り回されがちな人々が所詮嫌いというか苦手なのですが、頑なに興味を崩さないタチの人もまた、商売には難しい層の人たちのような気は常々していて、でもたぶんあたしみたいな“商売”は恐らくその手の人たちにこそ効果的であるべきのような気がしていて、そのための伝達方法というか、効果的にに認識させる術をずっと模索しているのですが、なかなか上手い方法が見つかりません。

何しろ、頑なな人というのはつまり頑なですから、自分自身が求める以上の目的や理由になかなか必要や価値のようなことを認めようとはしません。

たとえそんな信条がぼさぼさの髪の状態を生んだとしても、それはあまり大した問題ではない、という頑な人々。

そういった人々は得てして情報にもネガティブですから、良くも悪くも広告やメディアの情報からの距離が遠く、仮にそれに触れる機会があっても自分自身がそれにコミット出来るものという意識が希薄ですから、差し出されたものを積極的に理解するという姿勢を求めることはさらに難しくなります。

 

現代における“地味”とか“ダサい”と言われる部類の印象には、そういった消極的な姿勢が絶対的に影響していると思うわけなんです。

つまり、あたしはそういうのをもったいない、と言いたいのかもしれないというか、お節介を焼きたい気がしているらしいのです。

というか、そういうお節介のようなことがたぶん、性に合っている気がするということなのですが。

 

若い人は自分を飾り立てることに手間を惜しまないけれど、それに応えたい商売は世の中にごまんとあって、それは業界として一番の看板でもあるのだけれど、実際にはそれは目立つけれど案外範囲の狭いハナシであって、つまり、タピオカだったりするわけです。

実際にあの行列に加わったのはごく一部の人たちだけで、それを現象のように扱いたがった人たちこそ、それに振り回されて“映え”を求めたがった人たちこそごく一部の人たち、世代に過ぎないわけで、世間はそれを眺めて“タピオカうぜえ”のような感性を正常のように働かされ思いつかされるものなのだと思うわけです。

 

 

生意気にも、あたしが勝手に思いつきたがるらしい“商売”というものは、そんな“現象”のようなことの外側に常にあって、そんなことに加わることをすっかり諦めつつある人の手こそをお節介にも引き寄せて、だからといってそんな“経済”でも“現象でもない、もっと“主体的”な興味をこそを焚きつけてその人が自分自身にこそ思いつきたがることをもっと旺盛に楽しんでもらえる、そんなキッカケこそを差し出せるやはり“お節介”なものでありたいと、そんな“お節介”こそを要求される“商売”でありたいと思うわけで、何だか最近はもう、完全に開き直りつつあります、ということなんです。

 

「来月もお待ちしてます」

なんて、お帰り際のお客さんに軽薄なようなお声掛けをするのはもちろん商売としての努めもあるけれど、それ以上に思うのは二カ月も三か月も髪を伸ばして、“伸びたから切る”ような姿勢をお客さんに許してしまうのは、あたしが勝手に思いつきたがる“商売”にとってまるきり“良かれ”ということにはならない気がするということで、何よりされはお客さんにとってこそ“良かれ”ということにはなり得ないと考えるということなんです。

 

どうせうちに出掛けてもらうなら、自分自身にもっと興味深く、もちろんその時々のトレンドも意識した上で格好良くなってもらいたいと思うのだし、せっかくならぼさぼさみたいなアタマで出掛けてもらいたくない、というのは態度としては横暴なのかもしれないけれど、やっぱり“お節介”のごとく、“いつも格好良くしていたい”という意識を焚きつけてあげることこそが所詮、あたしが請け負うべき“商売”としての楽しみ、醍醐味のようなものではないのかという気がするわけなんです。

 

 

おじさんになってくると、自分のことを諦めがちになる人がとても多いわけなんです。

老いることを悲しむくせに、格好つけることを面倒臭がるために年齢を言い訳にするわけです。

 

あたしはそういう甘い思考をクセみたいに自分に許すようなタイプの人がけっこう嫌いで、何しろダサいなあ、と思うわけなんです。

ヒドい言いようですけれども。

 

興味がなければ、年齢など関係なく退屈でダサい感じになるのは仕方のないことです。

つまり所詮、そんな自分のせいということ。

 

ダサい、と言われるのは自分が生んだ罪ということで、そんな罪をみすみす着込んでショボくれているおっさんおばさんを案外嘆かわしく思っているわけなんです。

だからこそ、あの手この手で準備してお待ちしたりお節介な誘いを仕出かしたりするのですが、“所詮、金のため”と思われがちであるのが商売というもので、つまりあたしはそんな世間の"印象”ばかりに傾きがちな仕組みから、意識から、常に“逸脱したい”と願ってきたものであるわけなんです。

 

軽薄にも、鈍感にもなれない、ものすごく生きづらい領域の人たちのことなのかもしれないんですけど、実はそれは案外世間の大半のことでもあって、とても退屈な有り様でこそあるはずなんです。

そんな“退屈”と断じられかねないらしい人々が、この世を統べるらしい見地から“B層”などと見下されるのか、その外側に自ら逸脱出来るのか、これからの世の中にはそういう自由も楽しさも全く快適にその選択を許されているもののはずで、あたしはつまり、逸脱する側に立って、その愚かさや身軽さ、快適さや自分自身への意欲のようなことこそを構って生きていきたい、“商売”にしたいと常々思ってきたわけで、近頃は、いよいよそれを快適に仕出かしても全然許される、許容される時代になりつつあるはずと信じて疑わない姿勢を少しも崩すつもりなどないのです。

 

 

やべえ、長い。

こんなこと、誰も少しも興味ねえし。

 

 

なんて、そんなおまえには少しも興味なんてないんだぜ。