アラズヤ商店

日々のナマキズ

あれこれなくても生きていける方を主に探す

ウチの冷蔵庫に入っている飲み物と言えば、ビールか炭酸水しか見当たらなくなって久しいのです。

あたしが暮らす地域の水は恐ろしく消毒臭くて、料理には仕方なく使っても、お茶やコーヒーなどにはほぼ使い物にならず、従ってほぼゼロの確率で暖かい飲み物を飲む習慣がありません。

ミネラルウォーターを買えばよいではないか、とも考えますが、先に言いました通り炭酸水を買ってしまう手前あまりにもペットボトルがかさばることは暮らし向きとしてあまり快適ではない気がしてしまうため、何だかそうもいきません。

水割りなどを飲みたがる趣味もありませんし、料理のたびにどぼどぼとペットボトルを傾けていられるほど裕福でもグルメでもありません。

つまり、ウチの地域の水道水はマズいですが、飲んで死ぬわけではないので格好つけるほどの理由にまではならない、ということでもあったりします。

ならば黙っていろと。

ミネラルウォーターで料理をしたがることを“格好つける”と安易に定義したがってしまうのは何だか、人生観として卑屈な印象で感心しないことであるよ、と。

 

 

水の臭みを調味料や食材の味や風味が打ち消してくれるから、水そのものは飲めなくても料理は普通に美味しく(個人差あり)頂けるのだけれど、美味しい料理のために上質な水にこだわったほうがいいような気がしてしてしまうのは贅沢であり、つまり余剰ですらあるとするなら、人間は一体どれほどまで満たされたなら最低限生きてゆけるものなのか。

最低限で可能となることが果たして“生きる”という意識にむすびつくものなのか、つまりそんな暮らしを人間は“幸せ”と感じるものなのかといえば、それもまた個人差があるとは言えそうな気がして、あたしは多分そういった部分での思い込みのようなことについてごく個人的に、明確な意識を働かせていきたいような気が常々しているわけなのです。

 

これまでの人生の大半を忙しく働くことに、それもかなりの低賃金で働くことしか能力がなかったらしいので、わりと健康であった(部分的に激しくポンコツな箇所はいくつかあるのだけれど)ことを除けば、あまり幸せだと自覚することは多くなかったような気がしているわけなんです。

毎日無事に暮らせることにまずは感謝しろ、とかそういう向きのハナシは一先ず置いておいて、というつもりにおいてなのですが(日本語)。

 

そんなこんなの揺り戻しの如く、近頃はものすごく働かないくらしを率先して実践しているわけなんですが、やはりわりと健康ではありながら特筆して幸せと思えることはそれほど多くはないのだけれど、そんなことを言ってしまうとバチが当たりそうな気がしてしまう程度には案外満たされているような、快適な気がしないでもないつもりで暮らしているはずではあるわけなんです。

最低限しか働かないのでお金はないですが、時間だけはとにかく自由なので間違いなく自分に合っているという実感がものすごかったりします。

馬鹿なんでしょうか。

とはいえ、そんな暮らしが可能であるうちはひとえに何かのおかげのような掴みどころのない感謝の量ばかりはものすごいですから、そんな何かに嫌われないように努めて整った暮らしを心掛けるとか、ルーティンを維持するとか、無意味に柏手を打ってしまうとかとにかく暮らしの中のいちいちがやけに精神的なベクトルに傾きがちで大変なのですが、毎日のトイレ掃除とかもそうなんですけど、つまりますますじじい化するマインドを案外真面目に暮らしているつもりではいるわけなんです。

それを面倒くさいと思ってしまったら、もう何も残らないでしょう、といった脅迫観念にこそ囚われながら、ということなんですけれども。

 

 

例えばそんなあたしの暮らし向きを、あたしは自ら“極めて現代的であって現実的でない暮らし”なんて名付けたりするものなのですが、果たしてそんな命名のいずれかにあたしは重きを置いているものなのか、と。

端的には、この世の仕組みは正しく整っているので例えば年金とか、社会保障とか、そういったシステムに従って然るべく収めるものを収めて暮らすことは基本と思うものなのですが、それを自分の目先の人生に照らして丸ごと信用して生きられるものかと言えばそれはまた別問題のような気がしていて、つまりそれは近頃世間で重宝されがちな言い方に化かすなら“搾取”とか、そんな建前のようなものにこそ逃がしつつ惜しいけれど当てにもしない、自分の人生の理由や根拠や安心のようなものにはなり得ないようなつもりでこそ見つめられるようなことに、常に意識は向いている気がしないでもないわけなので、たぶんあたしはこの世の正しく整った仕組みには従っているだけで、好きでも理由になるつもりでもないのだと思っています。

生意気なことを言ってしまうなら、年金を支給される頃に、それで生きていける自分を想像することは今日まで何とか生きてきたことよりもはるかに難しいことのような気がしてしまう、ということなのだと思うわけなんです。

そんな歳まで生きているつもりなんかねえよ、なんてことを平気で言えてしまうことがどれほど生意気で失礼な態度であることか、そんな程度のことなら建前らしくいつでも思いつけるくらいには人間らしい態度において、ということ。

そんな心づもりのようなことを現実的というよりは現代的、と呼びたがるのかと言えばそれもまた何かが違うとは思うのですが。

 

あした病気で倒れたらどうする、といったことがまじで深刻な事態になる立場を毎日生きているわけなんです。

そんな目に合うことこそまじでカンベン、ということではあるのですが、それにしても人間はいつかは死ぬのだから、いつかは倒れなければならないタイミングは訪れてしまうはずで、そんなことを想像するだけで人間は保険に入ったり健康管理に努めたり、無茶なことを考えずに手堅く生きようと考えるはずなわけで、つまり残念なことにこれまでの人生のほとんどをしがない低賃金労働に腐らせてきたようなあたしみたいな人はやはり、この先もそんな考えや能力でしか生きられそうにない、という予感がものすごいわけなんですね。

そうでもなければこんな暮らし、普通の人なら“快適”なんて思いつけるわけがないではないか、と。

 

これからの時期は、お店でも就職や進学といった人生の進路のハナシを聞いたり話したりすることがとても多くなるのですが、あたしは大概まともなことは話せないし考えることこそ出来ないので、ある意味“反面教師”のようなつもりでかなり乱暴なことを言いたがったりすることが多い気がするわけです。

端的に言ってしまえば、“こんな人間でも死なないで生きてるんだから、心配しなくても大概のことは大丈夫。試験なんかおっこちても人生大丈夫”みたいなスタンスが基本で、大体身もフタもないようなところに着地してしまうから所詮何の役にも立たない話になりがちです。

 

どうしていい歳をした大人が、前途ある若者たちを相手にそんないい加減なことを平気で言ってしまえるのか、と言えばそれは単純に商売だからということに決まっていて、冗談ではなくそれはあたしなりの“商売”として差し出したがるらしい直感とか直球的リアクションに違いないわけで、学校の先生やその子の家族が真剣にアドバイスしてくれる、心配してくれるようなことをやはりあたしまでもが真剣に考えたがってみたところで、どれほど説得力があってアドバイスらしく効果的であって、結論としていかほどかでも役に立てるものになり得るのかとおこがましくも考えたなら、そんなものどの口が言ってるんだっつうの、くらいにしか考えようがないわけで、ならば所詮やはり揺り戻し的な、反作用的な有り様に化かしてはぐらかして、こんなときくらい気楽に客観的にいつも通りの考えを他人事にみたいに眺めて少し肩の力抜いてみてよ、くらいの及び腰で所詮ごまかすなり、ついでに恐ろしくカルトな精神論ぶったりなんかして完全に引かれたりすることを好き好んで選択してしまうわけなんです。

我ながら軽薄なことだなや。

 

 

冷蔵庫の中にビールと炭酸水しかないのは例えばそういう人間による選択の一つでしかなくて、ミネラルウォーターとコーラと牛乳、何ならエナジードリンクの買い置きなんかもないと安心できない人だって世間にはきっといないこともないわけで、あたしみたいな人間に言わせると、それって“就活”とか“大学”なんて、やけに立派で贅沢なだけの幸せな選択のハナシにしか聞こえないものだから、やっぱりずっと低賃金労働で人生腐らせてきたことにはそれなりの理由はあるぞこりゃ、なんてことこそ常々考えさせられるわけなんです。

 

つまり、そんなあたしが開き直ったように、揺り戻しの如く自分の商売以外には少しも働きたがらないということは、怠けているのでもハッタリみたいな余裕をかましているのでも何でもなく、ようやく人並み程度には真面目に、人生や商売にこそ向き合い始めたということには違いない、などと自らを観察して擁護するものなのですが、アタマおかしいですか。

進路に悩む若者たち、まじですげえな、逞しいな、頼もしいな、って思うんですけど。

 

あたしは自分の人生のために、必死になって無責任に働きまくっていただけのような気がして仕方がないのですが、アタマおかしいですか。