アラズヤ商店

日々のナマキズ

何もかもただ続けているだけになってしまった

世の中には”べき論”とか”ねば論”のようなものが根強くあって、それはつまりこの世にある様々な役割や義務を分担してそれぞれに真面目に努めてもらわれなければ、この世のシステムが、常識が維持されない、正常に機能しなくなってしまうから、それを安定的に維持するために社会というインフラのみならず精神の側からも執念深く刷り込んで無思考に預けさせてこその”道徳”といった具合のものには違いなく、あたしは小学生の頃から道徳の授業と言えば”アタマを使わなくていい授業”あるいは”休憩みたいな時間”としか思っていない心得の悪い子どもだったわけなのです。

 

そんな子どもが大人になって、いよいよ傍若無人に”道徳”を忌み嫌ってはみ出したがるのかと言えば、そんな傍若無人な性分でもないつもりですから事態はもっと穏やかに薄情なものだったりするわけなのです。

 

 

”価値を知りましょう”ということは何しろまずは自分のことのような気がどうしてもしてしまうので、やっぱり気にしておきたいものだと思うのです。

昨日もめっちゃくちゃ儲かってる友人と、「例えばしごとがヒマだってことはさ、それって世の中に必要とされてないってことだろ? 価値として認められていないってことだろう?」といったハナシになりました。

その友人はとてもにんげんが出来ているから「そうとばかりも言えねえとは思うけどなあ」とは言いつつも、では他に何といえるつもりなのかと聞けば、なかなか他に具合の良い言い方はおもいつかないようなのでした。

くだらないだけのあたしみたいな人間は「ほらな、そういうことじゃん」と何様ぶりの逆ギレです。

そんなものです。

 

 

あたしは例えば髪の毛のことを仕事にしていますが、仕事である以上頼まれたときに頼まれたことだけをほいほいとこなしているだけではお話にならないことくらいはわかりますし、それはあたしに限らずどんなお仕事をされている方でも一先ずはその人なりの気遣いであったり意識を働かせて望むもの、”言われたことしかやらない奴は積極的に早期退職への応募をご検討ください”というのがもはや当たり前の世の中なのですから、やっぱりあたしなりのことを仕出かすしかないわけなんですし、差し出してこそと思うことを差し出すことで得られるものこそを信用してさらに営んでゆきたいものだと当然として考えるもので、だからこそ”伸びたから切る”だけの需要にはやはりあまりいい顔は出来ないのだし、そんなことではあなた自身にこそ不利益なことばかりなんですよとお節介さながらに訴えるのだし、訴える以上には何か余分にいいものを差し出すことは当然だと思い仕出かしたがるわけなんですけれど、「そんなことはどうでもいい」と平気で言えてしまうタイプの人にはまったくただの迷惑でしかないということを嫌と言うほど思わされたのだし、フタを開ければ所詮”伸びたから切る”というたんなる目的である人がほとんどなのだし、何よりあたし自身がその程度としか思わせられないものしか差し出せていなかったということに違いなないのだし、だからといって毎月通いたくなる胡散臭いような詐欺まがいのビジネスモデルで売りつけられてまんまと乗せられたいタイプの人があたしは所詮大嫌いとくればもう、この仕事に対する理由も意欲も完全に崩壊します。

というか、完全に崩壊しました。

全然向いてませんでした。

十五年間無駄骨です実に下らない生きざまで我ながらイヤになります。

でも、所詮大嫌いという理由に従った結果でしかないはずなので、案外納得しているのです。

今の世の中に刷り込まれた、あるいは良しとして受け入れて来たらしいあらゆる意識というその大半のことが、あたしはどうせ大嫌いなんです。

自分自身が誰よりもくだらないことを承知の上で、です。

 

 

 

どうしてもっとシンプルにこの世を生きられないのか。

そんなことを考えるためには、このお仕事はあまりにも下世話な理由や欲求が多すぎて、あたしみたいな短気でキレイゴトばかりのただの性悪には絶望的に向いていないことがほぼ完全にわかったような生意気な気分ばかりが悶々として、本当に嫌な気分でここ数日を過ごしています。

本当に馬鹿馬鹿しくて嫌で仕方がない。

どこかの山の頂上に登って待ち受けていたら、ピンポイントでミサイルを撃ち込んでくれないだろうか。

そのくらい馬鹿馬鹿しくこの世と別れたい気が完全にしてます。

 

言われるままに切る髪なんて、所詮似合わなくて向いていなくて、コンプレックスに逆らってむしろ逆効果みたいなことばかりやらされるだけで本当に馬鹿みたいな仕事だしつまらないし面倒くさいし、けれど人間なんて所詮自分のことなんて少しもわかっていない自分の為にしか生きられないのだから馬鹿なことしか言わないのも仕方がないのかもしれません。

そんな最たる存在がたぶん、あたしみたいな死ねばいいような物体に決まっているんですから。

 

 

 

近頃何しろ考えることは、キレイゴトなどではなくほとんどというか完全に生理的に大嫌いで仕方のないつまり”損得勘定”ということばかりで世の中を利用したがるケチ臭い魂胆の一切から離れて、そういうくだらない価値観こそがどれほど意味のないことなのかはっきりと見返せるようなこと、真逆の位置で完全に楽しめること、そんなこと気にしなくてもちゃんと生きていかれる、ということを意識的に仕掛けていきたいということで、それは個人的でも集団的でもある意思のことなのかもしれないけれど、要するにわからないなら勝手にしろ、古臭いやつに用はない、ということを完全にやり抜いてちゃんとその結果でそういう態度をダメ押しして納得させられるような具体的な取り組みをしたいということで、まずは自分にとってあることと、自分を離れたところであることを完全に分けたところで認識出来るそれぞれの野望のようなことなのです。

 

 

あたしは所詮嫌われ者なので、それがダメならなおのこと自分以外のことだって全然いいと思っています。

自分のことは自分のことで誰にも指図されずにやればいいだけのことで、それを押し付けたがるからあたしは嫌われる。

そんなものはあたしが自分でぶっ殺してしまえばいいだけのことなのでもう忘れることにしますありがとうございましたすみませんでした。

不愉快なことばかりで、数少ないけれどいいこともあったはずだけれど完全にぶっ壊れました。

どうしてなのだろう。

いや、自分が馬鹿なだけでしたどうして生まれたのだろうかこんなゴミクズが。

 

 

どうしてやりたいことをしようとすればするほど弾かれてしまうのか。

単純にやり方が悪いということなのかもしれないと思うと、一番信用ならないのはやっぱり自分ということになるのです。

つまり、自分の為にやることなんて所詮つまらん、と。

そう思っていたら、「そんなことどうでもいい」と言われてしまったわけで。

だったらもう一体どうしろと。

 

やっぱり何だか整理が付きませんオシロスコープの波形みたいに頭の中は陰と陽を行ったり来たりで掴みどころもタイミングもあったものではないです。

お店片付けてどうにかなってしまいたいなあというのが正直なところなのだけれど、それじゃ意味がないんだよなあ、と勝手なことばかり考えてしまうんですよ。

 

嫌われ者っていうのは、そういうことなんでしょうねえ。