アラズヤ商店

日々のナマキズ

普遍は変化の底のことで、おまえらの安心のことなんかじゃない

今日もくめ納豆を食べられるのが嬉しい。

 

その喜びは実にシンプルなものなんですが、たまに赴いたスーパーでくめ納豆が見当たらないときはシンプルでもなくない欠落のような感情を思いつく程度にはがっかり(日本語)してしまうので、シンプルなりにも個人的複雑は存在しているようです。

 

すみません、たまに赴くとか嘘をついてしまいました。

あたしの毎日の生活において、たまに赴くスーパーなんてありえませんでした。

何しろ選択肢は概ね三件に限られますから、たまになどといったシチュエーションはほぼありえません。

直近でもう一軒のスーパーが検討されるのですが、検討するだけでほぼ足が向くことはありません。

あたしはそのスーパーで扱っている生鮮野菜なるものをあまり信頼していないからです。

 

 

はい、キタそれ。

 

あたしはなぜ、そのスーパーの生鮮野菜をあまり信頼していないのか。

なぜ、信頼できないと断定できるのか。

あえて名を秘す、でもどうしてそんな悪口のようなことが言えてしまうのか。

 

 

起き抜けで寒くて眠くてネタもなくて、勝手に書き出してしまったことに無理くり押っ付けているだけだからです。

 

嘘です。

そんなはずはありません、何しろ早起きにはすっかり慣れてしまったのですから。

恐らく今朝の冷え込みは暖かな冬だったなりの本気の冷え込みと言っても過言ではない寒さのはずながら、そんな冷え込みにも負けずごそごそと起き出せてしまうあたしの早起きマインドはまさにすでに本物、特に早起きすべき執念を燃やす理由は見当たらないのだけれど、ただ無駄に本物と言ってしまいたくなる程度にはもはや本物ということにさせていただきたいのです。

 

寝坊は負けだ。

Your Looserと嗤われてしまう。

誰が嗤うのかはわからないのだけれども。

 

 

 

まず一つ、生鮮とはなんぞや。

あたしは曲がったキュウリを買いたがらないくそポンコツユーザーです。

そんな自分が大嫌いだと何度も念じながらまっすぐなキュウリを求めるくそポンコツです。

せめて棘のあるキュウリに出会いたいものだ、などと知った風なことを平気で嘯くしれっと馬鹿です。

 

レタスは、すぐに萎れてくるところがイラつくので買いません。

畑がとても上手な方お客さんからいただいたレタスが、ヘンなクスリでも盛られているのかとむしろ疑いたくなるくらいへこたれないレタスでその頑丈さ新鮮さに感心させられて以来、スーパーで売られている野菜なんて所詮流通レベルでの鮮度でしかないと思い知らされて以来期待値スーパー低いベジタブルイズレタスということ。

それでも食べたくなったら山盛りサラダとレタスチャーハンなんてウサギみたいな咀嚼感にまみれる覚悟かつ一気に食べきる気合で買いますが、さすがに一玉を一気に食べ切るほど繊維に飢えているわけでもありませんから、三日目頃には切り口から黄ばみ始める姿を認めてイラっとすることになります。

 

ほうれん草は泥が付いているような有り様でもあまり気にせず買いますが、高値の場合の代替えとして小松菜を買うことはあまりしません。

茎の微妙な硬さと付き合っているとウサギになった気分になりますし、スープに使うと極端にコシがなくなる無駄なギャップにガッカリというか単純にイラっとします。

ほうれん草はもっと気合入ってることであるよ、と。

人をウサギ的感覚まで追い込んだあの筋張った食感はどうしたのかと、パンツ一丁でポーズをキメるムチムチのボディービルダーが見た目を裏切る虚弱体質だったみたいな妙な現実感を漂わせないで欲しいガッカリもしくはイラ立ち。

いや、代替えなどという言い草からこちらこそどんな態度かと。

ほうれん草と言い草に語彙的関連は思いつけませんでした(秒速世界のハナシ)

 

玉ねぎはキライですけど買います。

見た目も何も知ったことじゃないレベルの注目度で適当に買います。

ほぼ感じ悪いくらいの選択眼です。

キライじゃないけど、ないわけにはいかない。

一体何様ですかあたしは。

 

ピーマンはすごいやつです。

もやしの陰に隠れたコスパ二柱の一柱がピーマンです。

藻屋視命と日意万命というコスパ二柱がスーパー生鮮食品売場宮のご祭神です。

主なご利益は、お財布に優しい、火を通す手間がそれほどいらず地球に優しい、などです。

主婦層には圧倒的信仰を集めますが、慣例的に子どもには信仰が難しいとされる高度な神さまです。

 

 

 

実に勝手なことを言っているわけなのです。

言われる立場なら普通にムカつくようなことを、好き勝手に言うものなのです消費者というものは。

選択の自由イズ商売の苦労知らずもとい他人の苦労知らずいわんやてめえの身の程知らずをや。

 

 

 

自分のことを棚に上げて何を言う。

それは、あたしのことでした。

イメージだけで、見かけた印象だけでモノを言う。

何を言う。

 

曲がったキュウリなどキュウリではない。

まじか、と。

 

髪質改善トリートメント

まじかと。

 

あたしはそんなこと口が裂けても言わないけれど、所詮キュウリのことには身に覚えがありまくるのです。

棘のない、カボチャみたいな風味のキュウリを仕方なく買う。

髪質改善とか聞こえのいいようなことを鵜呑みにしたがる消費者を馬鹿と呼ぶ。

何様、なのですあたしは。

 

ダブルスタンダードを黙認しなければ、この世は、この世の経済は成り立たないようなのだしそんなことをいちいち気にしていたら景気が悪くなる前にアタマがオカシくなるというものです。

しかしながら勘違いしないで欲しい、あたしはアタマがオカシイのではなくオカシイの方向に舵を切り損ねていた、ということにもっと自覚的であるべきだった、というこれはれっきとした後悔のハナシということなのです。

 

 

お店の近所のスーパーは、鮮度に優れているかもしれないけれど品ぞろえが田舎臭い。

お店から軽く足を延ばした先のスーパーは、鮮度は並みかもしれないけれど品数が多い。パンが美味しい。

自宅近くのスーパーは、鮮度も品揃えも並みのような気はするけれど、夜遅くまで迎えてくれることがひたすらに有難い。

 

あたしの日々の食生活を支えてくれる概ね三件のスーパーについて、あたしが思いつくらしい理由は案外その程度でしかありませんでした。

しばし絶望です。

しかしながら、消費者心理とまでも深堀をするまでもなく、それを利用するお客さんの理由など所詮その程度のものに過ぎないのだという理解は、良くも悪くも平坦に受け止めて然るべき態度として必要であることだなあつまらねえけれども、と今さらのように確認しないとやってられないなしかし、といった気分なのであるよということなのです、実に回りくどく。

 

商売人として差し出せるものを差し出すべく差し出して、消費者の判断にゆだねるのみ。

それは消費者の理由であって、あたしの理由にはならないのだな、と今さらそんなことをまったくつまらないことではあるけれども所詮当たり前のことのように思い直すわけなのであります。

 

完全につまらないですけれど、仕方ないという気持ちの方が腑に落ちる気がするのだから、それに従うべきと思うわけです。

そうではいけないと思っていろいろ施策を打ちましたが、ちょっと裏目に出そうな気がするし単純に収益として悪影響を及ぼすことになりそうです。

つまらない商売と消費者意識という当たり前に付き合うしかない程度のことしか出来ない自分のせいと言ってしまえばそこまでのことなので、次のテナントの更新はないつもりでもっと違う方法を考えたいような気がしています。

もっと生活コストも人生コストも有効に下げて快適に暮らしたいというのが今現在の一番の目標で、本当はそれを今の商売から塗り替えていきたいと思っていたのですが、優先順位という単純な理由についてだけでもこの業種は嘘とエゴが多すぎてあまりにも商売すぎてたぶんあたしには向いてない、というのが結論のような気がしています。

 

 

何より問題なのは、あたしの商売は態度が悪い。

それが原因になってしまうような消費者意識を相手に、あたしは”商売”なんてしたいわけじゃないということがよくわかりました。

解くべき誤解はあたし自身にあって、商売はこうするべき、こうあるべき、という自分では理解するべき理由すらも思いつけないことにいちいち拘泥してつまらなくしていた気します。

つまらなかったのは、やっぱりあたし自身のせいでした。

当たり前なんですけど。

 

伝わらないことを伝えたがっても無理だということ。

伝わらない相手に伝えることは目的になんかならないということ。

変わらないことを変えたがることは単なるエゴで、変わるべきと思わせるだけのことをすれば変わるものは自ずと変わるということ。

 

あたし自身が勝手に興味を持つことに、理解も興味も示せない人にそれを勧めて一体何の用があるのか、理由があるのか、ということを当たり前に排除して、あたしはただ自分がそうするべきそうあるべきと思うことをもっとその思い込みを外したところで正確に正直にトレースできる感覚こそをもっともっと具体的に意識して思考して掴む、実行できることにこそ価値や理由を見出したいのだし喜びこそを感じたいのだし、それをやすやすとただ利用したがるだけの他人に判断なんかさせない都合よくさせない、こっちの都合で従わせることが普通にまかり通るものをちゃんと手に入れたいとかなり強烈に思っています。

 

感じが悪いと思うなら、それはあなたがただ古臭いものに守られたがっているだけだよ、とあたしは完全に言い切るだけです。

 

遅くて、本当に自分のことがイヤになります。

でも自惚れたことを言うなら、この世の大半の人たちこそ絶対にまぬけなほど遅い気がしてしまう。

そんなものを軸にしてなんであたしはこの数日間、こんなにも落ち込んで悩んで苦しんでしまったのか、いまだって完全に晴れやかとはいかないけれど、それにしてもやっぱり自分がこれまで置いてきた軸足のようなものは所詮、変える気にはなりませんでした。

むしろ、もっと正確に突き詰めるべきだとさえ思っています。

 

わからない、ついてこられないだけの人はただ単に、遅くて古臭いだけ。

そんなものに付き合っていればあっという間にこの先はつまらないものになって、ずっと苦しいまま思い通りにいかないままになってしまう予感しかしないので、あたしはやっぱりこの世の中が大嫌いだ、というスタンスを変えることはしません。

馬鹿だと思う、この世の大半は。

それを悪いと言っているのではなく、ただ単純に遅いし古いしのんきで羨ましいと言っているだけです。

 

あたしは羨ましいという感情にそもそも興味がないし、それがエネルギーになるつもりもないので、やっぱりそっちは相手にしたくないというだけのことでした。