アラズヤ商店

日々のナマキズ

イノベーションという適性論(推論)

日本でウーバーが決して普及しない本質的理由

https://toyokeizai.net/articles/-/331331?display=b

 

 

そもそも自家用車での移動が多く、旅客事業への依存度が低い田舎者にとってはあまり馴染まない新規文明の話、という気がしないでもないですが、いやいや、近頃は高齢者の運転免許自主返納の流れはだんだんと常識化がすすんでいるわけですし、例えば近所のスーパーでもタクシーで行き来するお年寄りの方の姿を珍しくなく見かけるわけで、ままならぬことであるなあ、とまるきり他人事のように考えさせられがちであることこそ田舎者にありがちな社会的共感性の低さなのかもしれませんね、なんて、”Uberってめっちゃ便利”とか”出張先では当たり前ですよ、Uber"なんて人生で一度くらい衒いも知ったかぶりもなくサラっと言ってみたい田舎者といたしましてはお笑いのネタでUberEatsをイジられても文化水準に差がありすぎて全く共感出来ないという卑屈さを刺激されるばかりで結局のところ、理由はどうあれ一先ず身近な話題とは思い辛いことだなあ、といった枕詞的共感の低さのようなことを冒頭から長文にてなぶりねぶるわけなんであります。

 

Uber”、と言ってみたい。

生活実感として。

乗らなくてもいいから。

 

 

イノベーションもフェアネスも所詮よくわからないのですが、わかりやすく”めんどくせえな”と思わされたのはやはり”オピニオン、イグジット”のくだりで、利便性や健全性といった意味ではとても合理的な仕組みであるらしいことは理解出来なくもないのですが、田舎の商売人目線から単純に思いつかされるのは、サービスを提供する側と利用する側双方に一定水準以上のマナーとリテラシーが要求される、つまりは相変わらずの口コミ神話に根付く息のつまる評価選択思想であることだなあ、ということで、古くはモンスターペアレンツやチョイ悪やら半グレなんて実態にファニーな笠を着せたような厄介者扱いに手を焼くまでもなく、単純に”クレーマー”という近頃ますますカジュアルに生息しがちなタチの悪い生き物にこそ暴利を与えかねないつまりは馬鹿には不向き、というやはり一定水準の良識とマナーが要求される”イノベーション”であることだなあ、ありがちだよなあ、といった気の短さのようなことで。

 

 

結局のところ、こういったハナシというのは合理性でも監視でも評価でも何でもなく、”性善説性悪説”のようなことに紐づく”適正、適性”あるいは適切さのようなことが提供する側、利用する側双方に健全に運用されてこそ快適に機能する信頼構造、それに基づく”イノベーション”であって然るべきはずで、”オピニオン、イグジット”と言葉にしてみたら格好いいような気がしないでもないことを、所詮適切には扱えないリテラシーで”便利”に寄りかかりたがるだけの質の悪いような客層というのはいつの時代も絶滅しないものだよな、という面倒くささこそを真っ先に思いつかされなくもない気の短さ、といったおハナシで。

 

 

さらにはそんな面倒くさい話に対する手っ取り早い最適解を探し求めたなら、案外行き着くのは”完全自動運転”とか、つまりはサービスする側とされる側が人間同士では決して拭えないらしい”馬鹿マナー”を完全に払拭し得るのもやはり、技術的な”イノベーション”でしかないのかもしれないなあ、と。

つまりは、インフラやサービスのイノベーション速度はとっくに人間の感性の進化速度あるいは良識の認識速度やその理解度を遥かに上回っているのだなあということで、そのバランスの平和的解決策として、例えばサービスする側という対面から人間が消えることが手っ取り早い解決であるらしいことは、また違った意味でこの時代の合理性としての駆逐のされ方なのかもしれないなあ、といった気がしないでもなかったりもするのです。

映画”トータルリコール”で、機転の利かないロボットドライバーにイラついたシュワルツェネッガーが力ずくでぶっ壊して立ち去る、みたいな感じが未来のクレーマーたる姿なのかもしれないなあ、とか。

そんなアホな。

 

AIに奪われるらしいものは仕事ばかりでもなさそうだ、といった視点も含めて人間の側も”イノベーション”に努めることこそ、あるいは時代やテクノロジーの進化における”個人”という”フェアネス”なのではなかろうか、といったことも考えさせられなくもなかったりするよな、という柄にもないようなお話でありました(結果論)