アラズヤ商店

日々のナマキズ

間違っていてもいいという肯定は麻薬みたいな変わり味でこの世ではちっともウケない

とにかく思うのは、ウケそうなことは絶対にやりたくない、ということなのだ。

 

例えネット広告費がテレビのそれを上回ろうとも、あたしには何も関係ない。

当たり前なのだが、テレビのそれがネットのそれであっても同じことなのだ。

それが効果的であることをまざまざと露呈してしまうモノや事情がすべからく不愉快だし何だか馬鹿っぽいし信用ならないし、単純に好きではないからだ。

 

 

近頃はすっかり占いとかスピリチュアルにハマっていて、フェチの如く様々なコンテンツに入り浸ってしまうのだけれど、恥ずかしげもなくいってしまうなら、アレって本当に不思議だ。

気持ちが悪いと言いたければ遠慮なく言ってくれたまえ。

あたしだって、魂などというものにお目に掛かったことなど一度もないのだ。

親しみながら、気持ち悪いと普通に思っている。

DVみたいな共依存だ。気持ちが悪い。

近頃は油断すると何となく松陰寺感に寄せてしまう。

お笑いが好きなんだ、そんなこともある。

 

スピと聞いた途端鼻白む気がしてしまう人はどうか帰ってくれたまえ、仲良くなれそうな気がしないし、こちらもそんなひらひらと器用な感じであることにこそ少しも親しみを思いつけそうにないのだ。

 

 

 

どうして不思議なのか。

答えはカンタン、大体同じことばかり言われてしまうからだ。

もちろんそれを鵜呑みにしたがるばかりのただの欲しがりのようなハナシではない。

こんなものも、所詮聖書の如くよく出来た万能文章、ともすれば人間が好意的に、期待値として勝手に紐づけたがる連想という豊かなバグを逆手に取ったやはり万能話術のようなものでしかないのではないかとあたしだって穿った目で見たくもなるのだ。

 

けれど、普通に考えてみてほしい。

その時点ですでにものすごいことではないのか。

そして人間こそ、”受け止め方次第”なる奇妙にしてものすごい柔軟性を以て勝手に都合解釈できる万能知能、つまり幸にも不幸にも自分の気持ちや考えの持ち方次第でどうにでもなれてしまう深刻さのようなこととは真逆にある、あっけらかんとして鼻白むような存在なのかもしれないと思えなくもないではないか。

書きながら、何のことだかわからなくなりつつあるのだけれど。

 

 

言いたいことを言っていい。

自分らしさを出せ。

変わり者と思われろ。

他人が何を言おうが気にするな。

 

 

そんなことばかりを言われ続けているれば、鵜呑みにして振舞えば、きっと世界は収拾がつかなくなってしまうのではないのか。

一人一人にそれが許されるということは、自由でも人権でも何でもないただ奔放なだけのサル山以下の秩序に堕ちるだけではないのか。

 

いやいやそんなはずはないです。

だって何しろそんなあたしはこの世のほとんどの反応や仕組みが嫌いだし欲しくないのだから、言いたいことも出したいこともなりたいものも気にするべきでないことも絶対に全体になんか満たないはずなのだから、何も心配などする必要はないのだ。

 

言いたいことを言うし、自分らしさを怖れずに求めるし、変わり者であることこそ恐れるつもりはないし、他人が言うことのほとんどが馬鹿げたことにしか聞こえないから大丈夫。

あたしはちっとも立派になど歳を重ねられるものではないのだ。

もちろんそれを意識目指して憧れているのに決まっているし、まったく自信こそないのだ。

 

Stay hungry,  Stay foolish.

とは有名な言葉だけれど、それを実現するらしい振り返る先にあるConnecting the dotsという蔑まれるような一つ一つの点、言いたいこと、自分らしさ、変わり者、反論反発を結んで眺めることこそがあたし自身であることの証明だったり手応えだったりすることをかなり切実に希望する期待するものなのだし、常日頃から公明正大に白状する大嫌いは、そうでもなければ簡単に嘘になってしまう点以下のものなってしまう気がするのだ。

 

そんなものはつまらんと、何も持たないくせに気持ちばかりをこんなにも持て余しているんじゃないか。

見下されることも、なかなか容易いことではないらしいのだ。